「生」観戦した野球場(3)-横浜スタジアム
いろいろな野球場で日本のプロ野球を観てきました。その数40以上。だからどうしたと言われればそれまでですが。
このコーナーでは敗戦処理。がプロ野球の試合を観戦した野球場について順に書いていこうと思います。月に1~2球場の割合で書いていこうと思います。また、シーズン中に新たな球場に行ったら加筆していこうと思います。
第3回 横浜スタジアム 観戦球場ファイル-3-
昭和53年から今のベイスターズ(当時のホエールズ)の本拠地として誕生。日本の人工芝球場としては二番目に古い。昨年から内野席のネットを極端に低くし、ファンの臨場感を大きくアップさせた。
JR根岸線の関内駅から程近く、横浜という街にも見事にフィットしている。横浜市が所有する施設、いわゆる箱モノの中では確実に収益を上げてくれる施設。それは即ちベイスターズ球団との利益配分が巧妙で、球場使用時の売店収入など、オイシイ部分を球団ではなく球場が抑えているからウハウハらしい。これは見方を変えれば、ベイスターズ球団の財政危機の一因となっている。
実は敗戦処理。は高校時代にこの球場の名物イベントである「スピードガンコンテスト」に出場している。草野球くらいしか経験のない敗戦処理。が出したスピードはとても恥ずかしくて公表できないが、普通なら入れないスタンド下の選手用駐車場の脇でのキャッチボールなど楽しい想い出となった。
冒頭に記したように内野席のネットを外して臨場感、グラウンドの一体感をを高めてくれたのはありがたいが前掲の神宮球場とは対照的にスタンドの傾斜が急なのがつらいところ。人によっては拒絶反応を示すこともある。
敗戦処理。が初めて観戦したのは昭和55年4月4月6日、ホエールズ対ジャイアンツ戦だった。開幕第二戦だった。
この球場で観戦した試合で最も印象に残っているのは平成13年(2001年)のオールスターゲーム第二戦。脳腫瘍にかかって選手寿命どころか、生命の危機にまでさらされた旧バファローズの盛田幸妃投手がファンの後押しを受けてパ・リーグの中継ぎ投手部門のファン投票トップでこの年のオールスターに選ばれたのだが、その盛田が登板した。盛田はもともとベイスターズの前身、ホエールズにドラフト1位で入団した投手。凱旋登板という話題性と、重病を克服した生き様に感動した多くのファンから大声援でマウンドに迎えられた。
盛田は全パの五番手として5対8とリードされた七回裏に登板。先頭のかつてのチームメイト、石井琢朗にレフト前安打を打たれた後、仁志敏久の代打、金本知憲を一塁ゴロに打ち取り、打者二人で降板。交代を告げられ、マウンドを降りる際も満員のファンから暖かい拍手が贈られたが、ファウルラインをまたいだあたりで盛田は帽子を取ってまずファンに一礼。そして三塁側のベンチに引っ込む直前に再び立ち止まって深々と三塁側のファンに頭を下げていたのが今でも印象に残っている。観る側も過度に勝敗にこだわらず、ゆとりを持って拍手や歓声を浴びせることが出来るオールスターゲームならではのシーンであったが、本当に良いシーンを間近で観られたなというのが当時の印象だった。
そういえばベイスターズの親会社がマルハから東京放送に変わったばかりの頃、横浜に新たに開閉式の球場を作りベイスターズの新しい本拠地にするなどというプランがスポーツ新聞の一面を飾ったことがあったが、あの話はどこに行ったのだろうか。ベイスターズは赤字体質から抜けられないようだし、親会社も楽天に株式を取得されてとてもそれどころではないのだろう。楽天が東京放送の株式を取得することで野球協約に抵触するという騒ぎが起きていたが、どうせ業務提携するのならば、フルキャストスタジアムを球団にとって都合の良い利用契約を結ぶことで一年目から黒字経営に結びつけたホームグラウンドの利用方法でも勉強させてもらえばよいのではないか。
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント