名誉ある球団新記録達成をなぜ祝福しないのか?
ファイターズのベテラン田中幸雄が27日のスワローズ戦で偵察要員に代わって一回表から一塁手として出場。通算2,137試合目の出場となった。ファイターズ一筋の田中幸雄にとってこの出場数はすべてファイターズでの記録となるが、実はこの数字、それまで張本勲さんが記録したこの球団における出場記録、2,136を抜く球団新記録である。しかし24日の対ジャイアンツ戦でタイ記録を達成した時もそうであったが、スポーツ新聞では触れられているものの当の球団がこの記録を大々的に表彰しようとしないのが不満である。「○○試合出場」、「○○本安打」など節目の記録であるとか、リーグ新あるいは日本新記録でないから本拠地での達成でも大袈裟に出来ないのかもしれないが、球団の公式HPでも特に触れていないのが残念でならない。(5月29日23:00現在)
http://www.fighters.co.jp/team/record.html
球団に身売りなどがあった時に、それまでの球団での歴史を“無かったこと”にしてしまうことはこの業界ではこれまでにも幾度と無く繰り返され、そのチームを(母体が代わろうと)長く応援しているファンを嘆かせてきたが、この球団も同様で旧東映時代を含んだ記録を更新しても球団として祝福するつもりはないのだろうか。
一応確認のために書いておこう。
現在の「北海道日本ハムファイターズ」の起源は1946年(昭和21年)に創立された「セネターズ」だ。終戦直後、東京セネターズの監督であった横沢三郎さんが選手を集めて造った球団だったそうだ。公家・西園寺公望の孫の公一氏にオーナーを依頼して、スポンサーは銀座の高利貸し、ユニフォームは阪急のお古を譲り受けての始動だったという。後に「青バット」で一世を風靡した大下弘さんらが所属していた。しかし経営母体が脆弱だったためにすぐに経営が行き詰まり、翌1947年には東京急行電鉄が親会社となった。さらに翌年には映画の大映も加わり東急と大映による「急映」となったが、大映は一年で撤退。その後東急は当時系列企業だった東映に球団運営を任せた。1954年から東映フライヤーズとなる。そして1962年に水原茂監督の元で初のリーグ優勝、日本一に輝く。その後映画産業の低迷で東映が球団の赤字を支えきれなくなり、1972年オフに不動産の日拓ホームに身売り。あの懐かしい「7色のユニフォーム」くらいしか印象を残さずに一年で日本ハムに身売り。当時としては斬新だったちびっ子対象のファンクラブを創ったり少年ファン開拓への並々ならぬ努力でパ・リーグきっての人気球団になり、1981年には大沢啓二監督の元でリーグ優勝を果たし、6年連続でAクラスに入るなど常時優勝争いが出来るチームになるかと思ったが新興勢力、「西武ライオンズ」にその座を奪われると人気面でもその後は頭打ち。本拠地後楽園が日本初の屋根付き球場「東京ドーム」となって飛躍的に観客動員数を増やすがそれからは観客動員は再び低下の一途。2004年に本拠地を北海道に移転。
せっかくなので敗戦処理。がこの球団の歴代試合出場記録ベストテンを調べてみた。
球団歴代通算出場記録
順位 選手名 試合数 在籍期間
1. 田中幸雄 2,138 (1986~ )
2. 張本勲 2,136 (1959~1975)
3. 毒島章一 2,056 (1954~1971)
4. 島田誠 1,560 (1977~1990)
5. 古屋英夫 1,464 (1978~1990)
6. 田村藤夫 1,435 (1978~1995)
7. 白仁天 1,278 (1963~1974)
8. 服部敏和 1,241 (1969~1982)
9. 金子誠 1,227 (1994~ )
10. 岡持和彦 1,218 (1970~1988)
※ 5月28日現在
張本さんは別格として、大沢親分の元で優勝した時のメンバーが結構揃っていますね。毒島章一さんの名前も、「東映」時代から応援しているオールドファンには涙が出そうな名前だろう。
ちょっと横道にそれるが、通算2000本安打にあと27本に迫っている(注.5月28日現在)田中幸雄は、2000本安打達成の前にもう一つ記念の記録を超えることになる。毒島章一さんが持つ球団歴代2位に当たる1977安打を超えると言うことだ。しかしこの分ではそれすらも球団はPRしないだろうし、マスコミも「球団新」でないだけに報じないかもしれない。それどころか田中幸雄が2000本安打を達成した時に「球団初の生え抜き選手による2000本安打達成」と報じるかもしれない。それだけは勘弁して欲しい。
2004年の11月にファイターズはジャイアンツ側の主催で札幌ドームでジャイアンツ対ファイターズのOB戦を行った。ファイターズはこの試合に旧東映フライヤーズのOBらも招き、新旧織り交ぜた懐かしい顔ぶれが揃った。旧球団時代のOBも参加させたことは評価出来るが、ニュースで観てびっくりしたのは、ファイターズOBが全員、北海道に移転してからのビジユニに身を包んでいたこと。何というセンスの無さだ!
さらに言えば昨年、OBで日本人大リーガーの元祖である村上雅則氏が始球式をしていた時も、現役時代のファイターズのユニフォームではなく今のホームユニだった。
2003年にNPBのOBオールスターゲームが松山で開催された際にはファイターズに限らず各球団のOBが、現役時代に着ていたユニフォームで登場していて非常に懐かしかった。ファイターズからは尾崎行雄さんがフライヤーズのユニフォーム姿で登場したし、中西太さんや加藤博一さんの「西鉄ライオンズ」、藤原満さんの「南海ホークス」、藤田浩雅さんの「阪急ブレーブス」のユニフォーム姿もあった。こうでなければ!!
関係ないが王貞治は一本足打法を、梨田昌孝はこんにゃく打法を再現。敗戦処理。も松山まで飛んだ甲斐があったというものだ。
ヘタをすれば東映時代だけでなく、東京時代まで否定されかねない勢いだ<苦笑>。自分の贔屓球団だからということもあるが、他の球団がファンを失望させてきた愚行をせめてファイターズには繰り返して欲しくない。今からでもせめて球団HPで田中幸雄の偉業を讃えて欲しいし、可能なら従来の記録保持者張本勲さんを札幌ドームに招き、試合前に張本さんから記念の花束贈呈などのセレモニーをして欲しいものだ。
一昨年からの球界再編問題でセ・リーグとパ・リーグの人気の格差がいろいろと取り上げられているが、セ・リーグより圧倒的に身売りという事態が多く起きてきたパ・リーグの各球団が過去を否定することでどれだけ多くのファンを傷つけてきたことか。
交流戦でセ・リーグの人気球団とのカードを組んで増収を図るという発想もわかるが、人気の格差がどうして出来てしまったのか、もう一度自分の胸に手を当てて考えて欲しい。
参考文献
ベースボールマガジン2004年秋季号「球団興亡史」 (ベースボール・マガジン社刊)
THE OFFICIAL BASEBALL ENCYCLOPEDIA 2004(社団法人日本野球機構発行)
OFFICIAL BASEBALLGUIDE 2005 (社団法人日本野球機構編)
2006 ベースボール・レコードブック (ベースボール・マガジン社刊)
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