いつでも波瀾万丈-下柳剛 伝~おめでとう通算100勝到達~
タイガースのベテラン39歳、下柳剛が6日の対ドラゴンズ戦で通算100勝目を挙げた。39歳1ヶ月での通算100勝到達は最年長だそうで、登板538試合目での到達は権藤正利(元タイガース他)の597試合目、山本和行(元タイガース)の575試合目に次ぐ歴代三番目のスロー到達だという。39歳にしてローテーション投手を担っているということ自体が素晴らしいことなのでスロー到達というのも一種のハクがついた感じにすら思える。しかし下柳は決して遅咲きの投手ではない。100勝到達にここまでの歳月を要したのは若い頃にリリーフ投手として重用されていたからである。現在のストッパー、セットアッパーなど足元にも及ばない壮絶なタフガイだった時代を中心に、下柳剛の投手人生を振り返る。(写真:ファイターズ時代の下柳=2001年撮影。すみません、こんな写真しかないのです。)
下柳は社会人の新日鐵君津から1991年にホークスに入団。左のリリーフ投手として頭角を現し、1994年にはチームの130試合中62試合に登板し、11勝を挙げる。これだけでもタフぶりがうかがえるが、下柳のタフぶりはこんなものではない。武田一浩とのトレードで1996年にファイターズに移籍してからが下柳の真骨頂。移籍初年度こそ23試合の登板にとどまったが、二年目の1997年、下柳は開幕から飛ばした。チームの135試合中、半分近くの65試合に登板して9勝を挙げたのだが、驚く無かれ、下柳はこの年、147イニングを投げて年間の規定投球回数に達している。65試合の登板中、先発登板が1試合だけあるが、それを除いても、リリーフ登板だけで規定投球回数に達してしまったのである!
あらためて説明する必要も無いだろうが、規定投球回数とはチームの試合数と同じイニング数である。近年のストッパーのように一試合に1イニング投げるとしたら、年間の全試合に投げなければならない。この年の下柳はチームの試合数の半分弱に登板したのだから、一度の登板で平均して2イニング強も投げていることになる。近年はストッパーだけでなく、セットアッパーも1イニングのみの投球を原則としている起用法が主流だ。2イニング、あるいはそれ以上投げると「イニングまたぎ」は集中力を維持しにくいとやらで結果が芳しくないから1イニング限定の方が好結果が出るからだ。なかには走者を置いた場面での登板はリスクが大きいからといって、とにかくイニングの頭から新しい投手をつぎ込む継投策をとる監督も多い。今投げている投手が危機に立ったからリリーフを送るという発想ではなく、リリーフを送るのだから少しでも投げやすい状況で送り出すという発想なのだ。
そんな中、ほんの十年前にリリーフだけで規定投球回数に到達するという猛者がいるのである。稲尾和久さんが年間42勝を挙げたり、杉浦忠さんが年間に38勝を挙げ、その年の日本シリーズで四連投四連勝を記録した時代にではない。日本のプロ野球に投手の分業制が確立されている時代にだ。
もちろん下柳以降にリリーフ登板だけで年間の規定投球回数に達した投手はいない。年間の登板数の記録は長らく前述の稲尾元投手が1961年に記録した78試合で、これにカープ時代の菊地原毅が2001年に並び、藤川球児が2005年に80試合に登板して新記録を作ったが、下柳の65試合登板、147イニングという記録も近年の記録の中では稲尾元投手の記録と比較されるにふさわしい、近い密度を持った登板内容と言って差し支えなかろう。
この年のファイターズは岩本勉、キップ・グロスら先発投手陣が今一不安定で、エースの西崎幸広とベテランの金石昭人が故障に見舞われててんやわんや。先発投手が序盤で崩れる試合には下柳が早めに投入されてロングリリーフ。その間に打線が反撃し、接戦を拾うというパターンだった。打線では片岡篤史、田中幸雄という主軸がピークで、そこにジャイアンツから落合博満が加わった。落合は衰えが顕著だったが新外国人のナイジェル・ウィルソンとジェリー・ブルックスが活躍した。先発投手が早々に崩れても下柳がロングリリーフしている間に打線が爆発すれば序盤の劣勢を跳ね返せるというチームカラーだったのだ。
下柳はこの年から1999年までの三年間で65、66、62試合と計193試合に登板した。これは三年間のチーム試合数の47.7%にものぼる。
この時期下柳も三十代になり、さすがにきついということだったのか2000年からは先発に転向。先発初年度にプロ入り初完封を挙げるなど適応したように見えたが、成績が安定せず。2002年のシーズン後、3対3の最近では珍しい大型トレードでタイガースに移籍。ファイターズからは下柳の他に捕手の野口寿浩と外野手の中村豊がタイガースに移り、そしてタイガースからは投手の伊達昌司、捕手の山田勝彦、外野手の坪井智哉がファイターズに移った。
タイガースでの下柳は先発一本。今シーズンの7勝を含め、タイガースでの四年半で100勝の半分以上の51勝を挙げているのだ。2005年には24試合の登板で15勝を挙げてセ・リーグの最多勝に輝いているがこの年の下柳は規定投球回数に達していない。24試合の登板はすべて先発だったが完投は僅か1回。この年のタイガースのリーグ優勝の原動力となったJFK、ジェフ・ウィリアムス、藤川、久保田智之のリリーフ陣の協力を得ての最多勝だった。
皮肉なものだ。かつてはリリーフ登板だけで規定投球回数に達した男が今度は一年間先発ローテーションを全うしながら規定投球回数に達しない。しかしそれでも最多勝になってしまう。通算100勝到達の試合がそうだったように下柳は先発して好投してもだいたい6イニング程度しか投げない。週に一日、中六日での登板で6イニング投げるということは、週に六試合あった場合、その週の規定投球回数ぎりぎりということになる。
リリーフ時代には常識を覆すタフさを発揮した男が今度は先発してある程度投げて、あとはリリーフ陣にお任せという、投手分業制の象徴のような形でタイトルを獲った。まさに波瀾万丈な下柳らしいではないか。節目の記録を達成した選手がよく「記録は単なる通過点」と語るが、下柳にも今後、またあっと驚く何かをしでかして欲しいと思うのは敗戦処理。だけではないだろう。
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