【回想】敗戦処理。生観戦録- my only one game of each year 第1回 1974年(昭和49年)編
当blogで毎月2日に掲載している 敗戦処理。が生観戦した野球場 がもうすぐネタ切れになるので、隔月掲載として、その間、「敗戦処理。生観戦録- my only one game of each year」 をはさむことにします。1974年(昭和49年)に初めてプロ野球を生観戦した敗戦処理。はその後毎年、途切れることなく数試合から十数試合を生観戦しています。そこで一年単位にその年の生観戦で最も印象に残っている試合を選び出し、その試合の感想をあらためて書いていきたいと思います。年齢不詳の敗戦処理。ですが同年代の日本の野球ファンの方に「そういえば、あんな試合があったな」と懐かしんでもらえれば幸いです。
【回想】敗戦処理。生観戦録- my only one game of each year 第1回 1974年(昭和49年)編
初めて生観戦した1974年。最初の観戦は 「生」観戦した野球場 でも取り上げた3月24日のジャイアンツ対オリオンズ戦だが、今回このコーナーで取り上げるのはこの年のシーズン後に行われた日米野球。
当時は近年とは異なり、大リーグ側は単独チームで来日するのが慣例で、日本側は読売新聞社主催により、V9時代のまさに日本を代表するチームだったジャイアンツが単独で戦うほか、来日大リーグチームが全国を渡り歩き、全日本チームやジャイアンツと他球団との二球団連合との対戦という形式だった。
因みにこの年のニューヨーク・メッツを迎えての日米野球の日程は以下の通り。
10月
26(土) 対ジャイアンツ(後楽園)
27(日) 対ジャイアンツ(後楽園)
28(月)
29(火) 対ジャイアンツ(札幌円山)
30(水) 対ジャイアンツ(仙台)
31(木) 対ジャイアンツ(郡山)
11月
1(金)
2(土) 対全日本(後楽園)
3(祝) 対全日本(後楽園)
4(振) 対ジャイアンツ(後楽園)
5(火)
6(水) 対ジャイアンツ(新潟)
7(木) 対ジャイアンツ(富山)
8(金)
9(土) 対G&ホークス連合(大阪)
10(日) 対全日本(甲子園)
11(月)
12(火) 対ジャイアンツ(松山)
13(水)
14(木) 対G&カープ連合(広島市民)
15(金)
16(土) 対G&ライオンズ連合(平和台)
17(日) 対ジャイアンツ(小倉)
18(月)
19(火) 対G&ドラゴンズ連合(中日)
20(水) 対ジャイアンツ(静岡草薙)
注.11月2日の試合前に王貞治とハンク・アーロンによる本塁打競争実施。
ざっとこんな具合である。
当時のニューヨーク・メッツはこの前年の1973年にリーグで優勝して「ミラクル・メッツ」と呼ばれていたチーム。監督は名将といわれたヨギ・ベラでエースは浮き上がる速球こと「ライザー・ボール」を武器にしていると言われたトム・シーバー。主力選手には後に日本のホエールズ(現.ベイスターズ)でプレーしてセ・リーグで首位打者を獲得したフェリックス・ミヤーンらがいた。
そして目玉はこのシリーズ前に翌年からのメッツへの移籍が決まったジョー・トーレの来日が決まったこと。そう、ニューヨーク・ヤンキースで昨年まで監督を務めていたジョー・トーリ元監督だ。(注.当時の新聞表記では「トーレ」となっていた。)
1974年10月25日に来日したばかりのトーレ内野手のコメントが載っている。
「前に日本に来たカージナルスのギブソン投手などから、日本の野球はなかなか高度なものであると聞いているので楽しみだ。メッツでは主に三塁を守ることになると思う」
そのなかなか高度な日本野球からやってきた男と約三十年後に同じユニフォームを着ることになるとはこの時点では到底予想だにしていなかっただろうが。
余談だが松井秀喜はこの年、1974年生まれ。
さて、敗戦処理。が父に連れられて後楽園球場の三塁側二階席で観戦したのは11月4日のジャイアンツ対メッツ戦。もう一度日程表を観ていただきたい。この試合が日米野球では最後の後楽園球場での試合である。
日本プロ野球界にとって1974年といえば、前年まで9年連続日本一-いわゆるV9を続けていたジャイアンツの連覇が途絶えた年であるが、それ以上に記憶されているのが長嶋茂雄、現役引退の年。
「わが巨人軍は永久に不滅です」
の名台詞を吐いたのは公式戦の最終戦に当たる10月14日の対ドラゴンズ戦の試合後だが長嶋はこの日米野球で全国のファンに最後の雄姿を披露した。つまりこの大会は長嶋茂雄にとっての全国行脚、引退披露興行という側面も併せ持っていたのだがこの試合が現役選手、長嶋茂雄としての最後の後楽園に当たったのだ。
スターティング・メンバーを観てみよう。
(三)ウエイン・ギャレット
(二)フェリックス・ミヤーン
(中)ジョン・ミルナー
(一)ジョー・トーレ
(左)エド・クレインプール
(捕)ロン・ホッジス
(右)デーブ・シュネック
(遊)テディー・マルチネス
(投)トム・シーバー
(左)高田繁
(中)柳田俊郎
(三)長島茂雄
(一)王貞治
(右)末次利光
(捕)吉田孝司
(遊)河埜和正
(二)土井正三
(投)堀内恒夫
長島(当時の新聞表記では「長島」となっていた。)は「三番・三塁」で出場。第一打席で身体は三塁方向に向きながら打球はライト前に飛ぶ、晩年の長島らしい安打を放ち、敗戦処理。の脳裏に最後の雄姿を焼き付けてくれた。
試合はジャイアンツ打線がシーバーをKO。高田繁と河埜和正がシーバーから本塁打を放ち、王貞治は三番手のジェリー・クラムから本塁打を放った。
【1974年11月4日・後楽園】
メ 031 000 000 =4
G 131 001 31× =10
メ)●シーバー、ハンク・ウェップ、ジェリー・クラム、ボブ・ミラー-ホッジス
G)堀内、○高橋一三、島野修-吉田孝司、矢沢正
本塁打)高田1号3ラン(シーバー・2回)、ミルナー3号(高橋一・3回)、河埜2号(シーバー・3回)、王2号(クラム・6回)
あの「わが巨人軍は永久に不滅です」は学校の授業が午前中で終わったので家でテレビで観たが、親善試合とはいえ現役最後の後楽園での「GIANTS」のユニフォーム姿を観ることが出来たのは今にして思えば、後々まで敗戦処理。がこのチームを応援し続ける源になっている原因なのかもしれない。
もっとも近年酒の席で自慢するのは「長嶋とトーリ、松井秀喜にとって恩師と言える二人の『監督』が一緒にプレーした試合を生で観たことがあるんだぞ」という形でだが。
基本的にジャイアンツと米大リーグ単独チームとの興行で、ジャイアンツ+もう1チームvs大リーグ単独チームなどという対戦がまかり通っていた時代。この年でV9が終わったとはいえ、まだ「江川問題」を起こす前。「ジャイアンツ中心のプロ野球」がまだ大手を振るっていた時代ならではの興行は、王貞治vsハンク・アーロンという趣向を含んでいたが、長嶋茂雄の引退披露全国行脚として、誰もが認識していたといって過言ではなかったろう。それで多くの人が納得した時代だったのである。
【参考文献】
読売新聞縮刷版1974年10月、同11月(読売新聞社発行)
プロ野球70年史(ベースボール・マガジン社刊)
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コメント
にしたく様、コメントをありがとうございました。
> そんな時代に生まれたかった~。
たしかに、いわゆるひとつの「古き良き時代」だったかもしれませんね。
「長嶋のハーフスイングは今なら全部スイング。」
「王はボールを捕るより微妙に早く一塁ベースから足を離していた。」
「田渕のホームランの打球は本当に綺麗だった。」
「古葉監督の顔は半分しか見えなかった。」
なんていう昔話でいまだに盛り上がることがあるくらいです。
そんな次第で、最初に身近に感じたジャイアンツと、そしてファイターズを長く応援しています。
にしたくさんはご自身のblogで、ある疑惑の持ち上がった球団を嫌いになったと書いておられましたが、敗戦処理。の場合は「江川問題」が起きても、「長嶋解任」があっても、オロナミンCのイメージキャラクターの座を「21世紀の裕次郎」に追いやられても、外国産の肉を日本産と偽っていることがバレても、ひいきチームを変えることなく今日に至っています。
ひょっとしたら、あらゆる世代の野球ファンにとって、自分が野球にのめりこみ始めた時期が一番良い時代なのかもしれませんね。
そんな敗戦処理。はXX歳です。
投稿: 敗戦処理。 | 2008年7月 5日 (土) 02時41分
そんな時代に生まれたかった~。
そんな僕は18です。
投稿: にしたく | 2008年7月 3日 (木) 14時34分