多摩市に桑田真澄がやってきた!!
平成20年度東京都と区市町村によるオリンピックムーブメント共同推進事業、「2008スペシャルスポーツスリーデー」がこの11日からの三日間、多摩市でも行われた。この三連休が「体育の日」を含んでいることから市民参加型のスポーツイベントが行われるとともに、2016年の夏季五輪招致イベントのプロモーションを兼ねた形だったようだ。そして最終日のスペシャルイベントとして元メジャーリーガー(この企画での桑田の肩書きはこの呼称に統一されていた)桑田と、桑田が師事する武術研究家の甲野善紀氏のトークショーが催されたのだ。 事前に優先的に前の方に座れる、また雨天時に室内の会場で行われる際に限定して入場出来る優先入場者を多摩市民を優先に募っていたと言うが、敗戦処理。は知らなかった。まず市民優先で300人を前の方の席に座らせ、それ以外はその後ろの自由席、というかコンクリートの階段に座って見物する仕組みだ。 敗戦処理。も多摩市民なのだが、正直に言って鎌ヶ谷市の市長さんなら顔も名前もピンと来るが自分が住んでいる市に関しては…というレベルだ。自由席に並ぶしかあるまい<苦笑>。 ファイターズのクライマックスシリーズ第1ステージ第二戦を観戦して帰京した敗戦処理。は当日、開始一時間半前から並んだ。 さすが元ジャイアンツのエース。多摩市にこんなに桑田ファンがいたのかと言うほど列が伸びていく。もちろん市外からもファンが駆けつけてきたのだろうが地元民が多かったようだ。 スタッフを無視して自分で並んでいる列を仕切ろうとする中年のおばちゃんたちから、桑田がプロ野球に入ってから生まれた世代の中高生など様々だ。皆それぞれ互いに「桑田トリビア」を披露しながら開場を待っている。多摩市でこれほどスポーツ界のビッグネームがイベントを行うのはおそらく2004年の2月にトークショーを行った谷亮子以来だろう。野球関係に絞れば1985年1月の「江夏豊たったひとりの引退式」で江夏豊の引退セレモニーをやった時以来ではないか。 * 江夏と桑田-ともに日本のプロ野球界で終止符を打たず、アメリカ大リーグに新たな闘いの場を求めた挑戦者だ。何か因縁を感じる。 トークショーは桑田と甲野氏の対談形式で、随所に聴衆からの質問を受け受ける形で進んでいった。 甲野善紀氏に関しては氏のHPなどを参照していただくしかない。敗戦処理。も桑田のピッチングに影響を及ぼした武術家がいることくらいは何かの報道で聞いたことがあると言った程度。人間の身体が持つ本来の機能を使って、既存の武道の常識にはない動きを自然に行ったりするもの<?>らしく、会場から聴衆を挙げたりして実演していた。 桑田は、はっきり言って「これほどきちんと喋れるのか?」と意外な印象を受けた。実質的にMC(マスター・オブ・セレモニー)も兼ねていた。現役を引退し、トークショーなり講演なりで稼ぐことも視野に入れているのだろう。ジョークもはさみ、軽快に話を進めていた。質疑応答ではアドリブが利くところも見せていた。「イレギュラー」という言葉を使うのにも「そこのお母さん、『イレギュラー』ってわかりますか?」と細かく説明する丁寧さを見せていた。桑田によればイレギュラーした打球を反射神経でよけることは出来るが甲野氏に教わった武術を応用すればイレギュラーした打球を処理出来るという。 「僕は19歳の時に初めてゴールデングラブをもらったのですけど、引退した今の方が守備は上だと思います」 桑田は甲野氏を讃えた。 また桑田は、自分の子供が野球をやっていることに関連し、 「指導者の人にやたらに怒鳴ってばかりいる人を見かけますね。ああいう大人の人はストレスの発散で子供達に当たっているとしか思えませんね」 「小中高で、無理させちゃダメですよ。成長期なんですから。で、強いチームとかだと、子供達が故障を抱えているのが多くてビックリしますね」 などと独自の野球観を披露していた。またアメリカでの日本人であることによる差別に関しても触れていた。 質疑応答で質問をした人や、ステージに上がって武術の実演の相手を務めた人には予め用意した桑田のサイン入り色紙が手渡され、握手もしていた。そんなこんなで、桑田自身は「時間が余っちゃいますね」と何度も腕時計を気にしていたが、あっという間に予定の一時間半が過ぎた感じだった。 桑田が甲野氏と出会ったのが2000年だそうで、肘の手術から復活した後とはいえ投手として転換期を迎えていた時期であったそうだ。実際この年は5勝にとどまり、あの有名な「ON対決」と呼ばれたホークスとの日本シリーズでは敗戦処理としての登板しか役目がなかった。翌2001年には先発ローテーションを外れ、スワローズとのマッチレースとなった終盤戦では抑えに回ってチームに貢献していた。しかし2002年には先発ローテーションに復帰して防御率のタイトルを獲得するなど原辰徳監督一年目の日本一に大きく貢献し、2006年までジャイアンツの「背番号18」としての存在感を示し続けた。 桑田の復活の陰に古武術ありという感じでマスコミが時に甲野氏の存在を注目することがあった。 このトークショーから桑田と甲野氏の信頼関係を聞き、それが現役生活の後半を支えていたことを再認識すると、あらためて桑田のライバル、清原和博のことに頭がいってしまう。 この時期の清原はジャイアンツに移籍したものの成績が上がらず、なおかつ故障との闘いが始まった頃だ。かの2000年は打席数、本塁打数、打点数などを観る限りではジャイアンツの正一塁手は清原ではなく「マルちゃん」ことドミンゴ・マルティネスだった。翌2001年こそ清原本来の打棒が復活したが、桑田とは対照的に2002年から再び故障渦に悩まされ、成績も降下していった。清原の様々な「肉体改造」は常に話題を呼んだが、シーズンに入れば元の木阿弥の繰り返しという感じだった。四年契約が途切れた清原はジャイアンツを追われ、バファローズに移籍するももはやボロボロの身体はどうしようもなく、カリスマ性こそ高めたものの戦力として故仰木彬さんに恩返し出来たとはとても言い難い。 桑田真澄と清原和博-結局現役を引退したのは同じ年度だが清原に桑田のような「出逢い」があったら…と思わざるを得ない。そもそも清原は打者としては王貞治の数々の記録に迫るくらいの選手になるはずだった男だ。「清原和博は記録にも記憶にも残る男」と言う人がいるが、「記憶」はともかく清原が残した「記録」は清原の本質を表しているとは言い難いだろう。 * 敗戦処理。は昨日はクライマックスシリーズを生観戦し、7階のVIP席で観戦する清原の姿を目撃したが今日は桑田のトークショー。二日間でKKコンビ双方を生で目撃した人間はそうはいないのではないか? 桑田のトークショーが終わり、会場のすぐ隣のイトーヨーカドー多摩センター店では最終日を迎えた「読売ジャイアンツ・感動ありがとうセール」に流れ込むジャイアンツファンを見込んでいたというが、その恩恵に授かることが出来たのだろうか? 逆に桑田のトークショーとほぼ同時刻に同じ京王多摩センター・小田急多摩センター駅近辺で演説を行う予定の民主党代表代行、菅直人氏は割を食ったのではないか?
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コメント
にしたく様、コメントをありがとうございました。
> 前にラジオのゲスト解説を担当された際に、ソフトに、現役に近い視点で、素人にも分かりやすいコメントをされていました。
残念ながらそのラジオ中継を聴くことは出来ませんでした。ただ解説者の場合は、他に実況アナウンサーがいてアナウンサーの問いかけに答えるというスタイルでしょうが、エントリーでは言葉足らずで表現できませんでしたがこの日の桑田は他に司会者がいない状態で自分で進行役を務めていました。
共演者の甲野氏は寡黙な武術家という感じで語るより実演してみせるという感じの方でしたのでジョークを時折交える桑田の巧みさに感心しました。
> 個人的には、解説→他球団のコーチ→巨人監督という道程を歩んでほしいです(笑)
お気付きでないかもしれませんが、実はジャイアンツ出身で他球団のコーチになる人は意外に少ないです。
V9時代より後のジャイアンツの出身者で、ジャイアンツで現役生活を終えた選手に限定すると、引退後に他球団で監督、コーチをした人が何人いるでしょうか?
すぐに思いつくのは
加藤初(ライオンズコーチ)
二宮至(ドラゴンズコーチ)
西本聖(タイガースコーチ)
くらいでしょうか?
山本功児や落合博満は他球団で監督を務めますがジャイアンツで引退していません。
桑田が他球団の指導者という形で再びユニフォームを着る時が来るか、桑田なら可能性が高い様な気もしますね。
投稿: 敗戦処理。 | 2008年10月19日 (日) 22時39分
前にラジオのゲスト解説を担当された際に、ソフトに、現役に近い視点で、素人にも分かりやすいコメントをされていました。
例えば、
「(スタンド上段へのホームランについて)今、阿部くんは外角低めにミットを構えてましたが、上原くんのボールは外角高めに行きましたよね。力む場面だから球が浮いちゃうんですよ。だから、あんな簡単にスタンドに運ばれちゃうんですよ。」
「(ピッチャーの足元にに打球が直撃し)あれぐらいなら意外と痛くないものですよ。ただ、降板したり試合が終わったら、痛みがくるものです。」
個人的には、解説→他球団のコーチ→巨人監督という道程を歩んでほしいです(笑)
投稿: にしたく | 2008年10月18日 (土) 20時10分