王貞治がハンク・アーロンを超える756号本塁打を放った翌日の試合で…。-【回想】敗戦処理。生観戦録-第4回 1977年(昭和52年)編
これまで当blogで毎月2日に交互に掲載していた 敗戦処理。が生観戦した野球場 が48カ所の観戦球場を出し尽くしたので 敗戦処理。が生観戦したプロ野球- my only one game of each year 一本でいくことにします。1974年(昭和49年)に初めてプロ野球を生観戦した敗戦処理。はその後毎年、途切れることなく数試合から十数試合を生観戦しています。そこで一年単位にその年の生観戦で最も印象に残っている試合を選び出し、その試合の感想をあらためて書いていきたいと思います。年齢不詳の敗戦処理。ですが同年代の日本の野球ファンの方に「そういえば、あんな試合があったな」と懐かしんでもらえれば幸いです。
【回想】敗戦処理。生観戦録- my only one game of each year 第4回 1977年(昭和52年)編
1977年の日本プロ野球最大の話題はジャイアンツの王貞治が米大リーグ、ハンク・アーロンの持つ通算本塁打記録、755本を破るかどうかだった。王の前年までの通算本塁打数は716本。この年37歳になる王は前年も49本塁打で本塁打王に輝いており、ファンの関心は破るかどうかというより、いつ破るかであった。当の王自身、ちびっ子ファンの存在を引き合いに出してことあるごとに「夏休み中に達成出来れば…」という発言をしていた。
この年のジャイアンツは長嶋茂雄が監督に就任して三年目。一年目の屈辱の最下位から、二年目はリーグ優勝と転じ、三年目のこの年はリーグ連覇と日本一奪回が目標となっていた。前年のリーグ優勝に大車輪の活躍で貢献した投手の加藤初と、V9戦士の生き残りのベテラン、末次利光がそれぞれ病気と故障で長期離脱するアクシデントがありながら、開幕から好スタートを切ったジャイアンツはライバルのタイガースなどの不振もあり、開幕から独走態勢を整えつつあった。しかし肝心の王のバットからはなかなか本塁打が量産されない。夏休み中どころか、シーズン中の達成が困難なのではという声が聞かれるほどだった。
ところが、梅雨が明けた頃くらいから本塁打が出始め、急ピッチに量産し始めた。夏休み最後の後楽園でのホエールズ三連戦でまずタイ記録となる755号を放ち、9月に入ったがやはり後楽園でのスワローズ三連戦での記録更新に期待が集まった。
その頃、敗戦処理。の家では読売新聞を定期購読していたこともあって新聞販売員から9月4日のジャイアンツ対スワローズ戦の外野自由席券を入手していた。日曜日のナイトゲームである。スワローズ三連戦の最終日に当たる。
正直に言って、その試合までに打たないで欲しいという気持ちだった。それが当時中学生だった敗戦処理。の偽らざる気持ちだった。しかしここに来て急速に本塁打のペースを上げていた王は敗戦処理。の期待を裏切り、観戦予定の前日に当たる3日の土曜日、スワローズの鈴木康二郎から通算756号を放ってしまった。
余談だがこの世紀の一瞬は、当時生放送されていない。この当時のナイトゲーム中継は19時30分から21時前までで放送延長なしというのが相場だった。なおかつジャイアンツ主催試合を独占中継していた日本テレビ系列でさえ、人気刑事ドラマ「太陽にほえろ!」が放送される金曜日と、生中継の公開歌番組「紅白歌のベストテン」が放送される月曜日にはジャイアンツ戦を中継せず、夜の11PMを編成替えして「イレブンナイター」としてダイジェスト中継していた時代だった。しかしさすがにこの世紀の一瞬を逃すまいと、金曜日も「カックラキン大放送」と「太陽にほえろ!」を飛ばして中継を入れ、18時30分からのニュース番組など前後の時間帯でも王の打席のみ野球中継に切り替える態勢だった。しかしながら偶然だろうが、755号、756号とも19時前のニュース番組終了後と19時からの番組の間の時間帯に出てしまい、テレビでは生中継されなかったのだ。
閑話休題。
王に756号が出てしまおうが、9月4日のチケットを無駄にする気はない。ただ心配なのは、過熱過ぎるほどの狂想曲の中で記録を達成した翌日、王が試合を欠場するのではないかという不安が出てきたのだ。王だけではない。ジャイアンツナインにも相当の疲労があっただろう。何しろ長嶋監督はこの偉業達成を負け試合にする訳にはいかないとし、「755号と756号の出た試合は何が何でも勝つ」と明言しており、当時先発とリリーフに大車輪の活躍だったエース格の新浦寿夫をいつでも登板出来るように待機させていた。また、王が歩かされるケースを少しでも回避出来るように普段なら王の前の三番を打っていた張本勲を四番にし、王を三番に挙げた。もはや王ひとりの問題ではなく、チーム全体がこの偉業達成に向けて一丸になっていた。翌日の試合が、抜け殻になったような試合になっても不思議でないことは当時の敗戦処理。にも容易に想像出来た。
当日、後楽園に出向くと、入口で観客全員に記録達成記念のナボナが配られた。王が当時CMに出演していた亀屋万年堂のナボナがご祝儀として観客全員に配られたのだ。スターティングメンバーが発表された。
スワローズ
(左)ロジャー
(二)永尾泰憲
(中)若松勉
(右)マニエル
(一)大杉勝男
(三)船田和英
(捕)大矢明彦
(遊)水谷新太郎
(投)梶間健一
ジャイアンツ
(右)高田繁
(二)土井正三
(一)王貞治
(左)張本勲
(中)柴田勲
(遊)河埜和正
(三)リンド
(捕)矢沢正
(投)小俣進
よかった、王はいつも通り出ている!
しかし、試合は案の定ジャイアンツは今一ピリッとしない。先発の小俣進(長嶋終身名誉監督に付き添っているあの方です)がスワローズに一回表に1点を奪われると、中盤にも2点を追加され、0対3と劣勢。特にチャーリー・マニエル(現フィリーズ監督)が小俣から放った本塁打は右中間のスタンドを超えて場外に消えていった。度肝を抜かれたことが今も印象に残っている。
その後ジャイアンツは八回裏に1点を還して1対3とするが、スワローズも新人のサウスポー梶間健一から、これまた先発とリリーフにフル回転していた安田猛につないで逃げ切りを図っている。左投手から左投手につなぐ継投の前に、ジャイアンツはこの年の大活躍で長嶋監督から「巨人軍史上最強の五番打者」と呼ばれた柳田真宏など左の打撃陣を使えない。肝心の王も一安打を放ったものの二つの三振と震わない。敗色濃厚と思われた最終回にドラマが起きた。
河埜和正が四球を選んだものの、既に二死。打席には八番の矢沢正。ファウルで粘った後の八球目をフルスイングした打球がレフトスタンドに飛び込み、同点になったのだ。このまさかの一打で試合の形勢は変わった。新浦が十回表を抑えると、十回裏ジャイアンツは高田繁と土井正三が連打で無死一、二塁のチャンスをつくり、打席には王。そして王が、何とライトスタンドにサヨナラ3ラン本塁打!!
過熱する756号狂想曲にひとまずピリオドを打ったその翌日に、休養どころかサヨナラ本塁打。これこそ王貞治の真骨頂であると敗戦処理。は思った。大記録達成の試合を生観戦出来なかったのは残念だったが、一日違いのチケットを持っているファンにもきちんと期待に応える王貞治の凄さを感じさせた試合だった。
そしてこの翌日、王は首相官邸を訪れ、当時の福田赳夫首相(福田康夫前首相の父)から国民栄誉賞を受賞する。王が国民栄誉賞の最初の受賞者であることはよく知られているが、より正確に言えば、王の功績を政府として讃えるために制定されたのが国民栄誉賞であるから、「王が国民栄誉賞を受賞した」というより「王によって国民栄誉賞が制定された」といった方が王と「国民栄誉賞」について触れるには妥当だと思う。
蛇足だが週刊ベースボール11月3日号(ベースボール・マガジン社)の読者アンケート企画で、「王貞治監督の監督生活で、最も印象に残っていることは?」というのがあった。誌面に最も大きく掲載されたのは
「あれだけ苦戦しながら日本代表を世界一に導いたというのが印象的に残っているし、文字通り王監督が『世界の王』になった瞬間だと思うので」
というWBCを指したものだった。
この投稿者が何歳なのか知るよしもないが、本塁打の記録に関して日本の国内リーグの通算記録とアメリカ大リーグの記録を比較することがナンセンスだと思っていてWBC優勝によって初めて「世界の王」になったと言いたいのであれば、敗戦処理。的には残念ではある。この狂想曲当時、もちろんインターネットなどは存在しなかったが、たしかに一部では比較に対する疑問の声もあったのは事実だろう。しかしアメリカ大リーグの関係者、ファンにサダハル・オーの存在が刻まれたのはまさしくこの時であり、それだけでも充分に「世界の王」なのであるからだ。少なくとも敗戦処理。はそう確信している。
【1977年9月4日・後楽園】
S 100 001 100 0 =3
G 000 000 012 3×=6
S)梶間、●安田-大矢
G)小俣、西本、○新浦-矢沢
本塁打)ロジャー18号(小俣・1回)、マニエル35号(小俣・6回)矢沢2号2ラン(安田・9回)、王41号3ラン(安田・10回)
【参考文献】
朝日新聞縮刷版1977年9月(朝日新聞社刊)
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