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2009年2月 7日 (土)

追悼 山内一弘さん

01 山内一弘さんが今月2日に亡くなられていたことが判明した。現役時代には「シュート打ちの名人」と言われ、打撃三部門すべてでタイトルを獲得したことのある強打者で、通算2271本安打、396本塁打を記録した。引退後のコーチとしての熱烈指導ぶりは有名で、一度教え始めたらなかなか「やめられない 止まらない」から「かっぱえびせん」とも呼ばれた。

山内一弘さん、謹んでご冥福をお祈りいたします。

 

 

(写真:オリオンズ時代のユニフォーム姿で始球式に登場した山内一弘さん。2007年3月撮影)

敗戦処理。は山内さんの現役時代を知らない。知っているのはコーチ時代と監督、解説者時代。敗戦処理。同様に山内さんの現役時代を知らない世代、あるいはコーチ時代なども知らないさらに若い野球ファンにも、6日の各スポーツ紙での訃報を扱う紙面の大きさからその偉大さがわかるだろう。

熱心さという点で敗戦処理。が印象に残っているのは日本テレビの解説者をしていた頃のエピソード。全盛期のジャイアンツ西本聖が登板した試合で西本のシュートに対し、シュート攻略法を1イニング延々と解説したことがあった。たしかドラゴンズ戦だったと記憶しているがドラゴンズ打線が西本のシュートを打ちあぐねていると山内さんは「右打者ならこう左ひじをたたんで…」と放送席で身振り手振りで解説。テレビ画面がグラウンドと、熱演する山内さんを交互に切り替わっていたのも印象的だった。

この話だけを書くとしつこい性格だと思われるかもしれないが、その一方でおおらかな性格も垣間見られた。

ドラゴンズの監督をしていた1985年のこと。シーズン中の8月半ば。当時ライバルチームのジャイアンツの王貞治監督のお父さんが亡くなられた。王監督とはジャイアンツで同じ釜の飯を食ったことがある山内さんは「あともう少し、もう少しがんばれば、息子さんの胴上げを観ることが出来たかもしれないのに」と言うようなことをコメントした。この年、ジャイアンツとカープがこの時期に優勝争いのデッドヒートをくり拡げていたが、山内監督率いるドラゴンズは優勝争いの蚊帳の外にいたが。いくら自軍が蚊帳の外とはいえ、優勝争いの一方の球団に肩入れしているかのような発言で、山内さんは球団から注意を受けたという。たしかに杓子定規に言えば不謹慎かもしれないが、山内さんのおおらかな性格がうかがえるエピソードではないか。

ところで監督としての山内さんはオリオンズとドラゴンズを率いて優勝経験こそ無いものの通算成績が336313敗と勝率が五割を超えている!オリオンズでは1980年、1981年と当時の二シーズン制のパ・リーグで二年連続の前期制覇。ただプレーオフで勝てず日本シリーズ進出を果たせなかった。ファイターズファンとしては1981年のプレーオフが印象に強く残っている。

また2271安打の山内さんは名球会では入会資格に「昭和生まれ」との項目があるため、最年長となっている。名球会が「昭和生まれ」にこだわっているのは言い出しっぺの金やんこと金田正一が「昭和生まれ」限定にしておけば先輩の川上哲治さんらを入れずにすみ、1933(昭和8年)8月生まれの自分がトップに立てるという思惑だったからと言われているが、1932(昭和7年)5月生まれの山内さんの存在を見落としていたとも言われている<苦笑>

ちなみに名球会のツートップ、山内さんと金やんはオリオンズで前後して監督を務めている。金田監督が1978年まで務め、1979年から指揮を取ったのが山内さんだった。山内さんの監督一年目に入団してきたルーキーに現ドラゴンズ監督の落合博満がいた。ルーキー落合の打撃練習を見た新旧の監督はともに「この子はプロじゃ難しいね」と言い放った。これに対し落合は「オレみたいに社会人を経験している人間ならいいが、高校出てすぐの子が大物に烙印を押されたら、その時点で潰れてしまう。何を考えているのだ、この二人は?」と憤りを感じたという。落合が通算2000本安打を達成しても名球会入りを拒否したのはこの件があったからとも言われている。

そんな落合監督は日刊スポーツ6日付によると山内さんの訃報にこんなコメントを寄せている。

「山内さんがドラフトで指名してくださったおかげで、私はプロに入ることができました。大きなきっかけをつくってくださった方です。ただただ、ご冥福をお祈り申し上げます」

大人ですね。絶妙です。

最後に、冒頭の画像は2007年のパ・リーグ開幕戦、マリーンズ対ファイターズ戦のオープニングセレモニーで、始球式に登場した山内さんの姿だ。

 

ベンチからマウンドまで歩く姿が、かなりたどたどしかったのを記憶しているが今回の訃報によると、グラウンドに姿を現す前までは車椅子に乗っていたという。当時のマリーンズは開幕戦では球団を支えたOBに始球式の大役をお願いする風潮があり、前年までには優勝監督だった金田元監督や村田兆治元投手が務めていた。元投手のOBばかりだったので打者の大物OBを、ということで毎日オリオンズ出身の山内さんに白羽の矢が立ったのだった。結果的に山内さんの最後の公の場での姿となった。

 

その瞬間を千葉マリンスタジアムで生で目撃出来た幸運に敗戦処理。は感謝したい。

 

そして、山内さんがもう少し若く、お元気であられたなら、

 

 

 

 

中田翔に指導をして欲しかった。 

 

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コメント

Mさん様、コメントをありがとうございました。

> マリンの開幕戦、私も見ました(と言うより一緒に見ましたね)
かなり足下がおぼつかない感じでした。

そうでしたね。

山内さんの登場シーンと、ズレータの満塁ホームランは忘れることが出来ません。

> もう一人はジャイアンツのOBで登場した土井さんを見たときでしょうか。

ジャイアンツの5000勝記念のセレモニーの時でしたね。

車椅子姿で登場したのも衝撃でしたが、二塁の守備位置まで行って、車椅子から立ち上がったのにも驚いたのを覚えています。

投稿: 敗戦処理。 | 2009年2月 7日 (土) 23時46分

マリンの開幕戦、私も見ました(と言うより一緒に見ましたね)
かなり足下がおぼつかない感じでした。
いずれやってくる老いを強烈に感じました。昔元気にテレビに映っている人だっただけに、非常に印象的でした。
もう一人はジャイアンツのOBで登場した土井さんを見たときでしょうか。

ご冥福をお祈りします。

投稿: Mさん | 2009年2月 7日 (土) 07時50分

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