初めて生で観た江川卓のマウンド。-【回想】敗戦処理。生観戦録-第6回 1979年(昭和54年)編
これまで当blogで毎月2日に交互に掲載していた 敗戦処理。が生観戦した野球場が48カ所の観戦球場を出し尽くしたので当面 敗戦処理。が生観戦したプロ野球- my only one game of each year 一本でいくことにします。1974年(昭和49年)に初めてプロ野球を生観戦した敗戦処理。はその後毎年、途切れることなく数試合から十数試合を生観戦しています。そこで一年単位にその年の生観戦で最も印象に残っている試合を選び出し、その試合の感想をあらためて書いていきたいと思います。年齢不詳の敗戦処理。ですが同年代の日本の野球ファンの方に「そういえば、あんな試合があったな」と懐かしんでもらえれば幸いです。
【回想】敗戦処理。生観戦録- my only one game of each year 第6回 1979年(昭和54年)編
前回のこのコーナーで1978年のペナントレースで、ジャイアンツを追われた形で退団した広岡達朗監督率いるスワローズに優勝をさらわれたことを「ある意味節目の年」と書いたが、その年のオフにやらかしたのが「空白の一日」を正当化しての江川卓獲得であった。
大物政治家の名前がチラホラと出、プロ野球ファン以外の関心も集めて社会問題化した江川問題は結局ドラフト会議で正当に江川獲得の交渉権を得たタイガースに江川が入団して直ちにジャイアンツにトレードするという措置が取られ、ジャイアンツはエース級投手であった小林繁を放出して江川を獲得出来た。江川と小林の世紀のトレードが決まったのは春季キャンプ直前の1月末日。キャンプ地に移動するための集合場所、羽田空港に現れた小林が急遽球団事務所に呼び戻され、トレード通告を受けるという衝撃の展開であった。この瞬間、小林が悲劇のヒーローになり、江川が悪役という構図がはっきりした。この構図は二人がとっくに現役を引退した今日まで続いていると言っても過言ではない。一昨年にこの二人が焼酎のテレビCMで共演を果たして話題になったが、江川引退から二十年後にこのようなCM共演が成り立つこと自体がこの騒動の重さを物語っていると言えよう。
そんな訳で、この年の生観戦録は敗戦処理。が初めて「生江川」をスタジアムで観戦した試合を選んだ。7月19日の後楽園球場、ジャイアンツ対スワローズ戦。この年のオールスターゲーム前の最後の試合だった。
スワローズ
(右)杉浦亨
(三)角富士夫
(中)スコット
(一)大杉勝男
(左)福富邦男
(二)船田和英
(捕)大矢明彦
(遊)杉村繁
(投)尾花高夫
ジャイアンツ
(中)中井康之
(遊)河埜和正
(一)王貞治
(二)シピン
(右)山本功児
(左)柳田真宏
(三)中畑清
(捕)吉田孝司
(投)江川卓
スワローズの先発の尾花高夫は現在ジャイアンツの投手総合コーチ。この年から頭角を現すが、前の年に球団創立以来の初優勝を果たしたスワローズは、それが広岡達朗監督による「管理野球」の影響によるものであるのは明らかなのに、優勝という望外の結果を得て脱力感があったのか、「もう過剰な管理はまっぴら」という風潮が球団内に蔓延したようでチーム内の反広岡(というか従来の家族的球団風土の復活を願う)勢力が力を増し、ひずみが出たのか開幕から低迷。この約一ヶ月後には広岡監督がシーズン途中で退団するという事態になる。その後スワローズは再び万年Bクラスと低迷し、次に頂点に登り詰めるのは野村克也監督を招いてのID野球が開花する1990年代まで待たなければならなかったのだが、その間の期間、チームを支えていたエースが尾花だったのだ。このチームの体質は「国鉄スワローズ」時代の金田正一に始まり、松岡弘、尾花と好投を続けても勝ち星に恵まれない「悲運のエース」を輩出し続けた。
江川は球団が定めた一軍登板解禁となった6月のデビュー戦で好投したものの既に故人となったマイク・ラインバックの逆転本塁打で敗戦投手となって以来、なかなか「江川らしい」投球を続けられないでいた。江川のジャイアンツ入りが決まったのは2月1日のキャンプインの日だったが、野球協約で新人選手のトレードが認められるのは公式戦開幕後となっていたためキャンプではジャイアンツの一員として練習が出来なかった。その前一年間も法政大学を卒業して作新学院高校の職員という立場で野球浪人し、自主トレをしていたためプロ野球選手としてのトレーニングが不足しているのは明らかだった。6月2日のデビュー戦は当時のプロ野球公式戦のテレビ視聴率としては歴代最高をマークした。野球ファンの枠を超え、騒動が社会問題化したことで普段野球中継を観ない層がチャンネルを合わせた結果だろう。
余談だが一軍デビューに先駆けて、二軍戦で後楽園球場の試合に江川が登板することが決まった時、日本テレビが急遽その試合を生中継した。イースタン・リーグはこの年、ライオンズの埼玉移転で球団数が増えたことを記念してトーナメント大会を開いたのだが、その会場が後楽園。球団としても江川の予行演習にうってつけの機会と考えて登板させたのだろうが、系列の日本テレビもそれに飛びついた。4月17日のセ・リーグトーナメント一回戦第二試合、対オリオンズ戦を日本テレビは18時からの「ど根性ガエル」の再放送を休止して江川登板試合の中継に切り替えた。事情を知らずに「ど根性ガエル」目当てでチャンネルを合わせていた敗戦処理。はぶったまげた<苦笑>が、事情を知っていたファンは後楽園に駆けつけたようで約三万人の観衆を集めた。
閑話休題。
プロとしてのトレーニング不足は明らかで、登板した試合でも時折「怪物江川」の片鱗を見せるものの、まだまだという印象を相手球団やファンに与えていた感じだった。
この試合、ジャイアンツは江川が喫した1失点が致命傷となり0対1で敗れたのだが、その1失点はスワローズの四番打者、大杉勝男に対する2ナッシングからの釣り球を右中間に運ばれ、長打となって一塁走者の生還を許したものだった。相手の四番打者とはいえ、高めの釣り球を長打されると言うことは球威不足とコントロールの甘さを物語っている。
また江川は、ジャイアンツのエースとして活躍する頃には打者としてもセンスを感じさせたが、この時期は投球以上にブランクを感じさせていた。打席に立つ度に三振の繰り返し。法政大学時代にクリーンアップを打っていた打棒を知っているファンを嘆かせたものだった。当時、打席の江川がバックネットにファウルを打っただけで大拍手が起きたことを憶えている(作新学院高校時代の甲子園のマウンドでは江川の快速球をバックネットにファウルした打者に拍手が贈られたことがあったが!)。この試合でも五回裏のジャイアンツの攻撃で、この年にブレークした「絶好調男」中畑清の三塁打から始まった一死一、三塁という同点のチャンスで打席に立った江川だったが、打撃まで手が回らない状態ゆえにスクイズのサインも出せず、スワローズサイドの術中にはまり、併殺打でチャンスを潰した。
この試合の江川は八回まで投げて1失点だったが7個の三振を奪うなど「江川らしさ」をやや見せた。八回裏に江川に代打が送られて降板となると、0対1でリードされているにもかかわらず長嶋茂雄監督は二番手に新浦寿夫を送ったが結局0対1で敗れた。長嶋監督は前の年まで先発にリリーフにフル回転だった新浦を先発一本に絞って堀内恒夫に次ぐエースとしての自覚を促し、来たる江川との二本柱を形成しようと目論んだはずだったが江川のプロ入り初白星がかかった試合で新浦を抑えに使うなど、「江川を勝たせるために新浦に骨を折らせる」起用法が目立つようになった。この試合もオールスター前の最終戦で総動員可能な状況ではあったが、1点ビハインドで投入された「エース」の気持ちはいかなるものだったか?
そしてスワローズも新進気鋭の「巨人キラー」を後押しするために九回裏の無死一塁、打者・王貞治という一発出れば逆転サヨナラのピンチに松岡弘を投入してピンチを切り抜けた。
エース松岡の救援で助けられた尾花も、万年Bクラスのチームで時にフル回転を強いられるようになる。後に入団した「甲子園のアイドル」荒木大輔が公式戦初登板した試合では荒木が勝利投手の権利を得る5イニングを無失点に抑えて1対0のリードで迎えた六回から尾花が登板してそのまま最後まで投げきって1対0で逃げ切って荒木にプロ入り初白星をプレゼントした。
【1979年7月19日・後楽園】
S 000 100 000 =1
G 000 000 000 =0
S)○尾花、松岡-大矢
G)●江川、新浦-吉田、笠間
本塁打)両軍ともなし
江川は二年目の1980年から「江川らしさ」を発揮しはじめ、セ・リーグの最多勝利に輝くが本当に本領を発揮したのはその翌年の1981年から。騒動以来、江川を庇い続け、この試合のように当時のエース格の新浦を巻き込んでまで江川の一本立ちを後押ししようとしていた長嶋監督の退任後である。
江川問題に関してこれから知りたい方には坂井保之氏の 深層「空白の一日」(ベースボール・マガジン社新書)や、本宮ひろ志氏の実録たかされ(BINGO COMICS)シリーズがオススメです。
【参考文献】
朝日新聞縮刷版1979年7月(朝日新聞社刊)
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コメント
にしたく様、コメントをありがとうございました。
> ぜひとも原監督の後には江川さんを、江川さんをよろしくお願いします!
というジャイアンツファンは、一部にすぎないのでしょうか。
どうなのでしょう?ファン人気ではいまだに高いのではないでしょうか。
現役を引退してから、一度もユニフォームを着ていませんよね。放送席からは熱い視線を送り続けているとはいえ、その辺がどうなのか…?
今さらではありますが、堀内さんの二年間を江川にチャンスを与えたかった気はしますね。あの二年間は(大袈裟にいえば)何もなかったようなものでしたから、それなら江川にと。
順当に行ったら次は吉村でしょう。週刊誌などで名が挙がるアノ人は無いと思いますよ。サプライズとしても、ソノ人ではなく、ソノ人と折り合いが良くなかったと言われている某監督の方が可能性が高いと思います。
当blogに何かと書く材料を提供してくれる原監督には長く長く監督をしてもらいたいと思っています。
投稿: 敗戦処理。 | 2009年3月 3日 (火) 23時39分
先日、ジャイアンツの宮崎キャンプを観に行き、スタジアムの玄関で選手の出待ちをしていると、江川さん率いる"うるぐす軍団"が出てきました。
選手を待っている我々G党は、「あれ?江川やない?」「あ!江川だ!」「江川さーん、次期監督お願いしますよぉ!」など、色んな声をかけた挙句、約半数が選手を待たずして満足して帰りました。
良くも悪くも、ジャイアンツファンに愛されている江川さん。
小学生の頃から「ザ・サンデー」で徳光さんと激論を交わしていたのを見ていたので、「それだけ言うなら監督を」と、第一次原政権の頃から僕は口にしています。
最近も「うるぐす」では解説が冴えに冴え、昨年の"メークレジェンド"を誰より早く予想し、的中させました。
ぜひとも原監督の後には江川さんを、江川さんをよろしくお願いします!
というジャイアンツファンは、一部にすぎないのでしょうか。
投稿: にしたく | 2009年3月 3日 (火) 13時53分