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2009年4月 2日 (木)

おめでたいシーンにニアミスばかりの敗戦処理。が目撃出来た2000本安打達成の瞬間-【回想】敗戦処理。生観戦録-第7回 1980年(昭和55年)編

これまで当blogで毎月2日に交互に掲載していた 敗戦処理。が生観戦した野球場が48カ所の観戦球場を出し尽くしたので当面 敗戦処理。が生観戦したプロ野球- my only one game of each year 一本でいくことにします。1974(昭和49)に初めてプロ野球を生観戦した敗戦処理。はその後毎年、途切れることなく数試合から十数試合を生観戦しています。そこで一年単位にその年の生観戦で最も印象に残っている試合を選び出し、その試合の感想をあらためて書いていきたいと思います。年齢不詳の敗戦処理。ですが同年代の日本の野球ファンの方に「そういえば、あんな試合があったな」と懐かしんでもらえれば幸いです。

 

 

 

【回想】敗戦処理。生観戦録- my only one game of each year 第7回 1980(昭和55)

いきなりの話で恐縮だが、敗戦処理。はおめでたいシーンの生目撃を微妙に逃すことが多い。当コーナーの第4回で取り上げた様に王貞治の756号本塁打は生観戦予定の前日に達成されてしまったし、清原和博の2000本安打もやはり生観戦予定の前日に達成されてしまった。田中幸雄の2000本安打に至っては当日の仕事の都合でその瞬間に東京ドームには間に合わず、1999本目と2001本目と2002本目を目撃出来たのに2000本目だけ生で観ることが出来なかった<苦笑>

また、ファイターズのリーグ優勝の瞬間を生で観たことはあるが、ジャイアンツの優勝の瞬間を生で観たことがない。逆にジャイアンツ戦で相手球団の優勝が決まる瞬間を日本シリーズを含めれば三回も生で観させられている。そんな敗戦処理。が唯一、2000本安打の瞬間を球場で生で目撃出来たのが今回取り上げる1980(昭和55)の生観戦。ジャイアンツ栄光のV9戦士、柴田勲の2000本安打達成の瞬間だ。

1980年-第一次長嶋茂雄政権最後の年となってしまったこの年はジャイアンツにとって大きな世代交代の変革期であった。大問題となってまで江川卓を獲得した前年は何と5位に低迷。長嶋監督になって二度目のBクラス低迷ということでチームとしてもかなりの危機感を持った。そこでシーズン終了後にはまだこれからという若手を静岡県の伊東市に集めてしごく、「伝説の伊東キャンプ」を実施。江川卓、中畑清、西本聖、山倉和博、篠塚利夫…ら、後に中心選手となる若手が徹底的に鍛えられた。

そして1980年。開幕当初こそ柴田勲と、再び外野に復帰した高田繁による一、二番コンビでスタートしたが、前述の伊東キャンプでスイッチヒッターを本格的なものにした松本匡史や、淡口憲治らに取って代わられる。そして助っ人として三年目を迎えたジョン・シピンにも衰えが見えてくると篠塚利夫が取って代わるという感じだった。しかし、成長したとはいえ若手は若手。まだまだミスが多く、開幕三連敗を皮切りになかなか貯金が出来ないシーズンであった。

また柴田以外にV9時代のエース堀内恒夫もこの年の6月2日に通算200勝を達成するがもはや堀内も先発ローテーションから外されており、やっとたどり着いたという感じだった。

長嶋監督は前年、前々年と二年続けて優勝を逃し、「結果」が求められる状況の中でも次世代の若手の成長に賭ける選択をし、ベテランに補完させる形でペナントレースを戦っていった。優勝争いとは縁遠いレベルで…。

そんな中、柴田の通算2000本安打が近づいてくると、柴田をスタメンで使い続けるようになっていった。柴田もそれに応え、コツコツと安打を重ねていくが1999本となって王手をかけた途端にプレッシャーからか、バットが振れなくなった。1999本目の安打を放ってからの無安打は10打席を超える深刻なものになった。

記録達成前日の試合では同点で迎えた九回表無死一塁という場面で柴田に打席が回ってきた。極度の不振を考えたらとりあえず送りバントの指示が出ても不思議でなかったが、長嶋監督は柴田にフリーに打たせた。結果はフルカウントまでいったが空振りの三振だった(三振を喫した投球の間に一塁走者が二盗成功)。そんなこんなで16打席連続無安打の状態で8月7日のスワローズ戦を迎えた。場所は神宮球場である。

ジャイアンツ

()中畑清

()篠塚利夫

()ホワイト

()王貞治

()シピン

()柴田勲

()山倉和博

()河埜和正

()藤城和明

スワローズ

()パラーゾ

()角富士夫

()若松勉

()スコット

()杉浦亨

()船田和英

()大矢明彦

()渡辺進

()酒井圭一

注目の柴田の第一打席を迎える前に試合は大きく動いた。ジャイアンツの先発、藤城和明が一回裏に杉浦亨の3ランと大矢明彦のタイムリーで4失点してしまった。3ランのきっかけは一死後の二番打者、角富士夫への四球がきっかけだったし、3ランのあとにさらに1点を加えられたのは3ラン直後の船田和英への四球が響いている。藤城の存在はいわばローテーションの谷間を埋める存在であったが、一回から崩れては話にならない。

柴田は4点を追う二回表一死に第一打席を迎えたが四球。スワローズファンより多いジャイアンツファンからブーイングが出たのを覚えている。この回にスワローズの先発の、境遇としては藤城と似たり寄ったりだった酒井圭一が柴田から三者連続四球で満塁のピンチを作ってしまった。ジャイアンツは藤城に早くも代打、原田治明を送って犠飛で1点を返したが二回裏に登板した二番手の加藤初が1イニングに味方に3失策される不運も重なり、杉浦の二打席(2イニング)連続本塁打などで一気に5失点。1対9と一方的にされると、ジャイアンツファンの関心は柴田の2000本安打だけとなった。

四回表、先頭の柴田は酒井から左打席でレフト前にボールを運んだ。レフト寄りの三塁側内野席で観ていた敗戦処理。の近くで打球が弾むと、球場全体から大きな拍手が贈られた。2000本安打に王手をかけてから18打席目の悲願達成であった。

これで少しはジャイアンツ打線も活気づくと期待したら直後の山倉が三塁ゴロ併殺打。反撃どころかこの回も三人で終わってしまった。

柴田の2000本安打達成は当時で史上13人目の達成であった。あれから28年間。昨年4月に2000本安打を達成した金本知憲で37人目となった。ちなみに柴田はこの2000本目の安打で同時に当時史上15人目の通算3000塁打も達成した。

レフトの守備に付く柴田に「柴田コール」と大拍手が贈られたのはもちろんのことだったが、何せ1対9という試合だから、イニングが変わって柴田がレフトの守備位置に付く度に毎回「柴田コール」が起きる有様で、終盤には柴田の方から「抑えて、抑えて」というポーズをするほどだった。

試合の大勢を決めた二回裏の5失点に絡んだ三失策は中畑、篠塚、山倉によるもの。長嶋監督が「地獄の伊東キャンプ」で鍛えた若手達だったがこの年はまだ発展途上。世代交代期にV9戦士が節目の金字塔を達成した試合に発展途上の若手が足を引っ張る。長嶋第一次政権最終年を象徴するかの様なちぐはぐな試合内容だったと、今になって考えれば当てはめることが出来る。

柴田は翌年の1981年限りで現役を引退するが、最後の大舞台となったファイターズとの日本シリーズでは左投手主体のファイターズ相手に右打席から渋い安打を連発し、日本一を支えた。堀内はさらに二年長く現役を続け、1983年のシーズンを最後に現役を引退した。

1980年8月7日・神宮球場】

G 010 000 000 =1

G 450 000 10× =10

G)●藤城、加藤、浅野-山倉

S)○酒井、井原、鳥原-大矢

本塁打)杉浦11号3ラン(藤城・1回)12号2ラン(加藤・2回)

【参考文献】

日本経済新聞縮刷版1980年8月(日本経済新聞社刊)

 

 

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コメント

長緯様、コメントをありがとうございました。

> 第1次長嶋政権終盤は、この柴田の記録にあるような偉大なV9という遺産を、どう次の世代の選手に受け継いでいくかをいろいろ模索しながら苦戦していた。それだけに、逆に自分は親近感を感じました。そして日々のジャイアンツの試合にのめりこんでいった感がありました。

この年の前のオフに伝説の伊東キャンプが行われた訳ですが、開幕から当初は柴田、高田といったベテラン主体のオーダーでした。

後に長嶋監督が語ったところによると、若手に安直にポジションを与える訳でなく、なおかつベテラン達に自分たちの時代は終わったと痛感させるために敢えて先にベテランでスタートし、若手に抜かせるという発想にしたそうです。

先日4日に利府での試合を観戦したので来月はこの企画をお休みし、利府球場のリポートを書きますが、こちらの企画も80年代に突入しました。「あんなことがあったな」と懐かしんでいただければ幸いです。

投稿: 敗戦処理。 | 2009年4月 9日 (木) 23時27分

柴田勲の二千本安打の試合は神宮で大敗していた・・・という記憶があったのですが、実際に観戦されていたとは、またまたおソレイッタという感じです。

どこの紙かは忘れましたが、翌日の新聞では「柴田二千本安打!」「打てず守れず、巨人大敗!」という相反する見出しが並列して躍っていたのを思い出します。

第1次長嶋政権終盤は、この柴田の記録にあるような偉大なV9という遺産を、どう次の世代の選手に受け継いでいくかをいろいろ模索しながら苦戦していた。それだけに、逆に自分は親近感を感じました。そして日々のジャイアンツの試合にのめりこんでいった感がありました。

投稿: 長緯 | 2009年4月 6日 (月) 23時50分

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