初めて日本シリーズを生観戦!!-【回想】敗戦処理。生観戦録-第9回 1982年(昭和57年)編
これまで当blogで毎月2日に交互に掲載していた 敗戦処理。が生観戦した野球場が51ケ所の観戦球場を出し尽くしたので当面 敗戦処理。が生観戦したプロ野球- my only one game of each year 主体にいくことにし、また新たに初めての球場で観戦したら臨機応変にはさむようにします。
1974年(昭和49年)に初めてプロ野球を生観戦した敗戦処理。はその後毎年、途切れることなく数試合から十数試合を生観戦しています。そこで一年単位にその年の生観戦で最も印象に残っている試合を選び出し、その試合の感想をあらためて書いていきたいと思います。年齢不詳の敗戦処理。ですが同年代の日本の野球ファンの方に「そういえば、あんな試合があったな」と懐かしんでもらえれば幸いです。
【回想】敗戦処理。生観戦録- my only one game of each year 第9回 1982年(昭和57年)編
1974年から本格的に日本のプロ野球を観るようになった敗戦処理。だが9年目で初めてプロ野球最高の大舞台、日本シリーズを観戦する機会に恵まれた。この年の前年にジャイアンツとファイターズによる日本シリーズという、敗戦処理。にとってはこの上ない好カードになったが、この時は生観戦のチャンスを得ることが出来なかった。この年はジャイアンツとの激しいデッドヒートを制して逆転優勝したドラゴンズと、前後期二シーズン制のパ・リーグで後期優勝のファイターズをプレーオフで下した前期優勝のライオンズとの日本シリーズであった。
ドラゴンズといえば近藤貞雄監督が率いる通称「野武士軍団」。谷沢健一、大島康徳、中尾孝義、田尾安志といった個性豊かで野武士にたとえられる集団をよくまとめた。象徴的だったのは9月28日のドラゴンズ対ジャイアンツ戦。江川卓相手に九回表終了時点で2対6とリードされていながら九回裏に怒濤の猛反撃を見せ、江川から4点を奪い6対6の同点とし、十回裏に江川をKOし、角三男から大島のサヨナラ安打で逆転勝ちした。この試合後、2位のドラゴンズに優勝マジックが点灯した。
ライオンズは西武になって四年目。広岡達朗監督、森昌彦コーチを招聘してチームの体質改善を図っていた。広岡監督の「管理野球」は選手らの食生活にまで及び、玄米食主体の菜食主義を徹底した。西鉄ライオンズ時代からの生え抜きのベテラン、東尾修や大田卓司、タイガースで一世を風靡したスター選手、田淵幸一ら主力選手は当初広岡式に反発したが、徐々に取り込まれていった。一方広岡式に異を唱えたのは、管理をされるライオンズの選手ばかりではなかった。パ・リーグ前年の覇者、ファイターズを率いる大沢啓二監督は親会社の日本ハムの営業活動をも否定されるかのような菜食中心の広岡式を快く思わなかった。主に大沢監督側が仕掛ける口撃にマスコミも飛びつき、「ブタさんチームとヤギさんチームの戦い」などとたとえられたが、実は両監督同士は仲が良く、マスコミへの話題作りのための舌戦であったことが後にわかった。
当時高校生だった敗戦処理。は授業が午前中で終わる水曜日に行われる、日本シリーズ第四戦のチケットを購入した。雨で順延などがあれば、曜日がずれるリスクなど考えずに<苦笑>。ちなみにこの当時は日本シリーズは全試合デーゲームで行われていたのだ。そのチケットはもう手元にないが券面に「ライオンズ対セ・リーグ優勝チーム」と記載されていたことを記憶している。敗戦処理。にとって初めて西武ライオンズ球場を訪ねたのがこの試合だった。なお当blog5月31日付 初めて西武ドームで一塁側に入りました。 で西武ライオンズ球場、西武ドームで敗戦処理。は今年5月31日の観戦で初めてこの球場のライト側、一塁側に入ったと書いたが、よくよく記憶をたどると、初めてこの球場を訪れたこの日本シリーズ観戦がライト側だった。現在の席割りで内野自由席の最も外野寄りの位置。実際には外野のフェアゾーンに当たる席だった。つまりセンター後方の入口から入ってライトのポールを超えていない。言い訳になるが、だから一塁側に入った記憶がなかったのだろう。
ドラゴンズの本拠地、ナゴヤ球場でスタートしたこの年の日本シリーズはライオンズ打線が好調でドラゴンズ投手陣を粉砕する形で敵地で2連勝というスタートを切った。ドラゴンズの連敗が濃厚となった第二戦の終盤には地元のファンのイライラが頂点に達し、特に外野席のファンからのモノの投げ入れが激しくなり、ライオンズの右翼手、テリー・ホイットフィールドが浅めに守らざるを得ず、そのテリーの頭上を超える一打でドラゴンズに得点が入るという事態に発展したほどだった。そしてドラゴンズがライオンズの本拠地で一矢を報い、ライオンズの二勝一敗で迎えた第四戦を敗戦処理。は試合途中から観戦した。
この試合の両軍のスタメンを紹介しよう。
ドラゴンズ
(右)田尾安志
(中)平野謙
(三)モッカ
(一)谷沢健一
(捕)中尾孝義
(遊)宇野勝
(左)大島康徳
(二)上川誠二
(投)三沢淳
ライオンズ
(遊)石毛宏典
(二)山崎裕之
(三)スティーブ
(一)田淵幸一
(中)テリー
(左)大田卓司
(捕)黒田正宏
(右)立花義家
(投)松沼博久
* この当時、パ・リーグでは既にDH制を採用していたが、日本シリーズでは一切認められていなかった。
ドラゴンズは第一戦に先発させたエース格の小松辰雄が早々とKOされたのを皮切りに、第二戦先発の、この年16勝のサウスポー、今なら登録名が「裕次郎」になっていたかもしれない都裕次郎が一回表の先頭打者、石毛宏典の打球を足に受けて降板させられると中一日で第三戦の先発に起用されるなどローテーションが無茶苦茶になっていた。この試合の先発の三沢淳にしても、第二戦でリリーフで3イニングを投げて中二日での登板。
勝ちが先行したライオンズは第一戦に先発した兄やん こと松沼博久が中三日で先発。今なら中三日で先発というと強行先発という感じもするが当時はこれが普通。第一戦に先発するエース格の投手が中三日で第四戦と第七戦、最多で三回先発。その他は第二戦に先発した投手が中三日で第五戦に、第三戦に先発した投手が中三日で第六戦に先発という構想で、それ以外の先発ローテーション投手はリリーフに回ったりする。公式戦では先発ローテーション投手が中四日で投げるのが普通とされていた時代でライオンズは第一戦に松沼博久が先発した後、第二戦に杉本正、第三戦に高橋直樹を先発させていた。
敗戦処理。が到着したのはドラゴンズが2対1でリードしていた五回表のドラゴンズの攻撃中。後にファイターズで先発ローテーション投手として活躍し、ノーヒットノーランも達成する柴田保光がまだ駆け出しで、初めての大舞台への抜擢で舞い上がったか、セットポジションでとんでもないボークをしでかし、すぐに森繁和に代えられたところからだった。この回にドラゴンズが1点を追加して3対1としたものの、その裏にライオンズが三沢、二番手の堂上照、三番手の安木祥二を攻略して3対3の同点に追いついた。
その後はドラゴンズが早くも三試合目の登板となる小松で持ち直し、ライオンズも森からパームボールが売りの小林誠二につないで3対3の均衡を保っていった。特にドラゴンズとしては敗れると早くも王手をかけられるだけに危機感がスタンドまで伝わってきたが、小林のパームボールに打者の気合いも空回りという感じだった。
延長戦突入の気配も感じられた九回表、ドラゴンズの主砲、谷沢の放った打球の放物線が一直線にセンター方向に飛んでいき、センターオーバーの勝ち越し本塁打となった。ドラゴンズはこの回にもう1点追加して5対3とするのだが、快晴の秋の夕暮れにライトスタンドから眺めた谷沢の打球の放物線の美しさは今も鮮烈に記憶に残っている。この当時、秋の夕暮れの西日がさしかかるグラウンドというのは野球界における秋の風物といっても過言ではなかっただろう。
* 特に後楽園と広島市民球場が情緒的に思えた。
ドラゴンズは2点リードの九回裏を牛島和彦で締めくくった。
【1982年10月27日:西武】
D 011 010 002 =5
L 001 020 000 =3
D)三沢、堂上、安木、○小松、S牛島-中尾
L)松沼兄、柴田、森、●小林、永射、松沼弟-黒田、大石
本塁打)谷沢1号(小林・9回)
これで二勝二敗の五分にこぎ着け、追う者の強みが発揮されるかと思ったが第五戦で先制の一打と思われる一塁線を破る打球が一塁塁審に当たって跳ね返り、先制のホームを踏むはずだった走者が挟殺プレーで刺されるという信じられないプレーで流れをつかみ損ね、第五戦、第六戦と連続でドラゴンズは落とし、ライオンズが日本一に輝くのだった。
ライオンズの黄金時代はこの年から始まった。
翌年には広岡、森コンビの古巣ジャイアンツとの壮絶な日本シリーズを制し、二年連続日本一。(次回の当コーナー-1983年編ではやはり日本シリーズを取り上げる。)一年おいて1985年には日本シリーズで猛打のタイガースに屈するも、この年のオフに広岡監督から森監督にバトンタッチ。ドラフトで清原和博を獲得し、翌年からの無敵ぶりは今さら書くまでもあるまい。
しかし、この年のライオンズナインのほとんどは初めての日本シリーズ。一方のドラゴンズもチームとしては8年ぶりの日本シリーズ出場。チームカラーもかたや「管理野球」で、かたや「野武士軍団」このように両チームのカラーがはっきりと分かれ、対照的なメンバーによる対戦は、贔屓チームが出ていない日本シリーズでも個人的には感情移入がしやすい。それはどちらか一方のチームを仮で応援して楽しむというのでなく、日本シリーズという大舞台を俯瞰で楽しむには、このように両チームのカラーがはっきりしていると楽しみやすいのだ。この年の三年後のタイガースとライオンズの日本シリーズなどはその最たるものであった。
ところでドラゴンズの方も、大島や谷沢以外はほとんどが日本シリーズ初体験だった。8年前のエース、星野仙一とその女房役、木俣達彦はこの年を最後にユニフォームを脱いだ。木俣は右の代打要員として日本シリーズに出場したが、投手コーチを兼任していた星野は選手としての衰えだけでなく、兼任コーチとして起用法などで近藤監督、権藤博投手コーチと相容れない面もあったため日本シリーズでは完全に戦力外であった。第六戦だったか、ラジオの中継でゲスト解説した江夏豊(当時ファイターズ所属)がもしも今年限りで現役引退するのならという前提で星野を日本シリーズのマウンドに立たせるべきだと力説していた。
そしてその江夏は翌年の春、ベテランの特権で公式戦開幕に合わせたマイペース調整をしていたが木俣の引退試合には沖縄から急遽駆けつけ、木俣の最終打席に登板する男気を見せた。
【参考文献】
NumberVideo熱闘!日本シリーズ1982西武-中日(DVD版)(文藝春秋刊)
ベースボール・マガジン社 スポーツ分冊百科 週刊プロ野球セ・パ誕生60年-9-1982年(ベースボール・マガジン社刊)
選手の登録名は1982年の「ファン手帳」(ファン手帳社刊)に基づいているので発刊後に改名、登録名変更があった場合には反映されていない可能性があります。
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コメント
村石太MAN様、お久しぶりです。コメントをありがとうございました。
> ウェーブで 村石太で検索しました。
日本シリーズの動画 たくさんあるますね。私の動画ベストの一つです
私のblogでは動画を扱っておりません。
技術がないことと、私自身のパソコン環境が動画に向いてないからです。
これからもよろしくお願いいたします。
投稿: 敗戦処理。 | 2010年6月 1日 (火) 23時54分
ウェーブで 村石太で検索しました。
日本シリーズの動画 たくさんあるますね。私の動画ベストの一つです
投稿: 村石太MAN | 2010年5月29日 (土) 09時13分
村石 太310号号様、コメントをありがとうございました。
藤沢投手、懐かしいですね。
ドラフトでの指名を何度か拒否の上、ドラゴンズに入団。新人王を獲得しましたが翌年は絶不調。そのコントラストが意外でした。
藤沢公也はこの年の日本シリーズでは第二戦で登板。先発の都裕次郎が一回表の先頭打者の打球直撃で降板するまさかのアクシデントの際に緊急登板して火だるまになってしまいました。
藤沢のプロ野球生活で唯一の日本シリーズ登板経験がこういうシチュエーションだったのは藤沢自身にとってアンラッキーでしたね。
投稿: 敗戦処理。 | 2009年12月20日 (日) 23時56分
1982年 中日ドラゴンズ スタメンメンバー 懐かしい ペンネーム 藤沢投手
投稿: 村石 太310号号(名古屋発) | 2009年12月19日 (土) 19時16分
長緯様、コメントをありがとうございました。
> 懐かしいポスターですね!よく写真を残されていたと思います。
いや、さすがに私が所有しているのではなく、↓を見物した時に展示されていたものを撮影したものです。
http://mop-upguy.cocolog-nifty.com/baseball/2009/08/diamond-dreams-.html
> おっしゃるようにジャイアンツが天王山の中日戦で6点差を逆転され、そして最後は横浜スタジアムで江川が3発食らって逆転負け。結局優勝を逃して以来、ショックで日本シリーズを見る気にならなかったからです。
確かにこのシーズンのジャイアンツの最後は「玉砕」という感じでしたね。壮絶でした。
当時私の周囲のジャイアンツファンの間では、仮にドラゴンズが公式戦の最終戦に敗れてジャイアンツが日本シリーズに駒を進めていたとしても、皆、燃え尽きていて0勝4敗になっていたのではないかなんて囁かれていたものでした。
> 贔屓球団が出ていないこの日本シリーズでも詳細に観戦記が残されている敗戦処理。さんは
まぁ俯瞰で観る楽しさ(半分は負け惜しみですが)もありますよ<笑>。
投稿: 敗戦処理。 | 2009年9月 5日 (土) 03時11分
懐かしいポスターですね!よく写真を残されていたと思います。
小生、この年の日本シリーズはあまり記憶がありません。
自分も高校生で勉強に忙しかった・・・というわけではなく、おっしゃるようにジャイアンツが天王山の中日戦で6点差を逆転され、そして最後は横浜スタジアムで江川が3発食らって逆転負け。結局優勝を逃して以来、ショックで日本シリーズを見る気にならなかったからです。
結局西武が優勝だったのですか(笑)。
それは冗談ですが、パシフィックのプレーオフではファイターズが惜敗し、セは近藤ドラゴンズが制するという、贔屓球団が出ていないこの日本シリーズでも詳細に観戦記が残されている敗戦処理。さんは本当の野球ファンと思います。
贔屓球団の勝敗だけに一喜一憂している自分も見習わなければならないです。
投稿: 長緯 | 2009年9月 2日 (水) 20時45分