« やっぱりダル! | トップページ | ホームアドバンテージ?-東京ドームでの日本シリーズ »

2009年11月 2日 (月)

ライオンズ対ジャイアンツ-あの伝説の日本シリーズを生観戦!!-【回想】敗戦処理。生観戦録-第10回 1983年(昭和58年)編

198301 これまで毎月2日には当blogで 「敗戦処理。が生観戦した野球場」と「【回想】敗戦処理。生観戦録」をほぼ交互に掲載してきた。先月3日には52ケ所目の観戦球場に当たる富山市民球場での生観戦が実現した。しかし今月はまさに日本シリーズの時期。富山市民球場に関しては来月に回すこととし、1983年に生観戦した日本シリーズに関して「敗戦処理。が生観戦したプロ野球- my only one game of each year 」で書いていく。

 

1974(昭和49)に初めてプロ野球を生観戦した敗戦処理。はその後毎年、途切れることなく数試合から十数試合を生観戦しています。そこで一年単位にその年の生観戦で最も印象に残っている試合を選び出し、その試合の感想をあらためて書いていきたいと思います。年齢不詳の敗戦処理。ですが同年代の日本の野球ファンの方に「そういえば、あんな試合があったな」と懐かしんでもらえれば幸いです。

 

 

 

【回想】敗戦処理。生観戦録- my only one game of each year 第10回 1983(昭和58)

 

10月31日付の当blog これぞ、頂上決戦!! で四度目の日本シリーズ生観戦で初めてジャイアンツが日本シリーズで勝つ試合に巡り会えたことに触れたが、今回は初めてジャイアンツが出場する日本シリーズを生観戦した時のことを書く。

 

前回の当コーナーで、1974年から本格的に日本のプロ野球を観るようになった敗戦処理。が9年目で初めてプロ野球最高の大舞台、日本シリーズを観戦する機会に恵まれたと書いたが、翌1983年には贔屓チームであるジャイアンツが出場する日本シリーズを生観戦することが出来たのだ。

この年のジャイアンツの相手はライオンズ。前年にドラゴンズとの日本シリーズを制し、「西武ライオンズ」として所沢の新チームになって四年目で初めて日本一に輝いた新興勢力ライオンズと老舗ジャイアンツとの間での日本シリーズということでマスコミは「盟主対決」などとあおっていた。実際、ジャイアンツはこの年の翌年に球団創立50周年を迎え、トロイカ体制下で指揮官としての帝王学を学んでいる王貞治助監督を満を持して監督に就任させ、節目の年に日本一になることでV9以降薄れていた自称「球界の盟主」としての輝きを復活させようと目論んでいた。秋に行われる読売新聞社主催の日米野球を日本シリーズの勝者vs(前年の)ワールドシリーズの勝者との対戦に組んだのもその一環だった。そしてその前年に当たるこの年の日本シリーズで、ジャイアンツOBの広岡達朗、森昌彦が指揮し、経済界のみならず球界にも隠然とその地位を築こうとする堤義明オーナー率いるライオンズに敗れる訳にはいかないという事情が見え隠れしたシリーズだった。

だが、そんなスポーツ紙や週刊誌が喜びそうな背景をまるっきり忘れさせるくらい、1983年のライオンズとジャイアンツの日本シリーズは試合内容そのものでファンを満喫させた。第七戦までもつれ込み、内三試合がサヨナラゲームという盛り上がり。七試合合計の両チームの得点が同じだったと言うことでも接戦続きだったことがうかがえた。

敗戦処理。はこの日本シリーズの第四戦を後楽園球場で生観戦した。その試合のチケットを得るために前売り開始初日の朝に始発で新宿に向かい、某プレイガイドに並んだのだった。当時まだチケットぴあでは日本シリーズのみならずプロ野球のチケットを扱っておらず、ジャイアンツファンにとって、後楽園でのここ一番の試合のチケットを得るには後楽園球場の前売り券発売所か、指定プレイガイドに朝から(あるいは徹夜して)並ぶしかなかったのだ。

生観戦した第四戦を振り返る前に、第一戦から第三戦までを簡単に振り返る。

藤田元司監督、王助監督、牧野茂ヘッドコーチによる「トロイカ体制」最終年のジャイアンツは入団三年目を迎えた原辰徳が「巨人の四番」としての地位を確立し始め、長嶋茂雄前監督「ミスターチルドレン」であった江川卓、西本聖、山倉和博、中畑清、篠塚利夫、松本匡史らが充実期で黄金時代再来を予感させていた。

もっとも江川は既に最盛期を終えていたが。

その江川と松沼兄こと松沼博久の先発で西武ライオンズ球場で行われた第一戦は江川がまさかの乱調で、初回に拙守などもあり先制点を与え、二回には「打倒巨人」の旗振り役でもあった主砲・田淵幸一にも一発を浴びるなど二回でKO。中盤以降の反撃も虚しく3対6で敗れた。続く第二戦は原が先制本塁打を放ち、西本聖が完封。一勝一敗で後楽園に場所を移すのだが、ここからが死闘の連続。

第三戦は槙原寛己と杉本正の先発。ジャイアンツ2対1のリードで迎えた六回表、テリー・ウィットフィールドの3ランでライオンズが逆転するが3対4の1点ビハインドで迎えた九回裏二死からジャイアンツが東尾修に対して篠塚、原、レジー・スミスの三連打で同点。マウンドに上がった森繁和から中畑がサヨナラ安打を放ち、ジャイアンツの二勝一敗とした。

そして、第四戦である。

この試合の両軍のスタメンを紹介しよう。

ライオンズ

()石毛宏典

()立花義家

()スティーブ

()田淵幸一

()大田卓司

(右)テリー

()山崎裕之

()伊東勤

()松沼博久

ジャイアンツ

()松本匡史

()篠塚利夫

()原辰徳

()スミス

()中畑清

()駒田徳広

()山倉和博

()鈴木康友

()江川卓

両チームとも、第一戦に先発した投手が中三日で先発している。この当時の状況を顧みると、先発ローテーション投手は中四日で投げるのが標準的だった。中三日で投げるのは特別な場合を意味し、例えば日本シリーズである。日本シリーズの日程は第七戦までいっても、三人の先発投手を中三日の間隔で先発させればまかなえるのであり、実際この当時の日本シリーズはその前提で先発ローテーションを組むことが多かった。この年に関しても第一戦から第六戦までは両軍の三人の先発投手が二度目の先発時には中三日の間隔で投げていた。前年に肩を故障したジャイアンツのエース江川は現在に至る先発投手中六日ローテーションのひな型を作った張本人だと敗戦処理。は思っているが、その江川でも日本シリーズでは中三日。またライオンズには当時の最年長投手の高橋直樹が38歳ながら先発ローテーションに組み込まれていたが、1982年と1983年の日本シリーズでは中三日で先発している。

当然、シーズン中より短い登板間隔で投げるのだから先発投手のスタミナが不足するのは明らかで、特にライオンズは積極的な継投をしてきた。当時の広岡監督は日本シリーズのローテーションを決める際、シーズンで活躍した投手の中で先発でしか機能しない投手を先発させ、リリーフでも使えそうな投手をリリーフに回していたフシがある。確執が噂されていたものの、エース的存在だった東尾が日本シリーズになるとリリーフに回るのは降格ではなく、試合展開に応じてオールマイティーに使える切り札的存在だったからだろう。また同じ理由で松沼弟こと松沼雅之もシリーズでは貴重な中継ぎ役という位置づけだった。一方のジャイアンツはあくまで江川、西本聖、槙原の先発三本柱を前面に打ち立てる野球。この年のストッパー角三男はシーズン中盤の故障リタイヤからは復帰していたものの信頼感は今ひとつ。ベテランの域に達していた加藤初をリリーフに回していた。

そんな訳で、江川の中三日先発も当然のことと思われファンとしても何の違和感もなかったのだが、とんでもないことが起きた。第一戦に不甲斐ないKOとなった江川がその二日後の移動日に投げ込みを行ったのだが、何を思ったのか197球も投げ込み、その影響がその二日後に当たる第四戦、さらには日本シリーズ全体に大きな影をもたらせたのだった。

一回表、先頭の石毛を打ち取った後、二番立花に一、二塁間を破られると江川は早くもマウンドから姿を消した。この時場内アナウンスでスパイクの修理云々といっていたが、それが別の理由であることはレフト側のジャンボスタンドに陣取っていた敗戦処理。にも連想出来た。

マウンドに戻った江川がこの回のピンチを切り抜けると、ジャイアンツ打線はその裏すぐに原の2ランで先制。続く二回裏にも女房役の山倉にソロ本塁打が出て3対0とエースを援護した。

ライオンズも本調子でない江川を攻め、三回表にすぐにスティーブ・オンティベロスのタイムリーでまず1点。五回表には二死二、三塁から田淵のタイムリーで同点に追いつき、さらに安打が続き二死一、二塁と江川を攻めたて、テリーもライト前に安打を放つがホームを狙った田淵がスミス、中畑、山倉と中継されたバックホームに刺され勝ち越しを逃した。

ジャイアンツ打線は二回途中に松沼兄を救援した松沼弟を打ちあぐんでいたが、六回裏二死から鈴木康友が相手エラーで出塁。打順は江川に回ったが代打を出さず、江川をそのまま打席に。その江川の打球が右中間を深々と破り、鈴木康が一塁から一気に生還してジャイアンツが4対3と勝ち越した。狂喜乱舞する敗戦処理。らジャイアンツファン(レフト側ジャンボスタンドでも九割以上はジャイアンツファン!)だったが冷静にグラウンドを観るとタイムリーを放った江川は当然に長打コースだったのに一塁に止まっている。そして藤田監督が出てきて江川に代走を送った。敗戦処理。はこの時初めて江川の異状が足だったことを知った。移動日の投げ込みについてはこの時はまだ知らなかったが、肩の異状だとばかり思っていたからだ。

エースがリタイヤしたとはいえ、六回を終わって4対3と1点リードしているのだから、残る3イニングを何とか守ればよいのだが、この年のストッパー角は故障明けで投げられるのかどうかもわからない。このシリーズの切り札加藤は前の日に3イニングも投げている。ジャイアンツベンチは鹿取義隆を二番手に送った。だが二本の安打と四球で二死満塁のピンチを迎えると、ジャイアンツはたまらず加藤を送った。加藤はこのピンチに代打の鈴木葉留彦をセンターフライに仕留め、ピンチを切り抜けた。だが、今の言葉で言う「イニングまたぎ」に当たる続く八回表に立花義家に逆転2ランを打たれてしまう。加藤はこの回もう1点失い、4対6とされてしまう。

逆転したライオンズは八回裏からストッパーの森を投入。九回表には定岡正二から山崎裕之がソロ本塁打を放ち、7対4とリードを拡げた。ジャイアンツは九回裏に二死から二人の走者を出して前日にこの森からサヨナラ安打を放った中畑に回したが、見逃しの三振でゲームセット。二勝二敗の五分に戻った。

198311月2日:後楽園】

L 001 020 031 =7

G 210 001 000 =4

L)松沼兄、松沼弟、S森-伊東、大石、黒田

G)江川、鹿取、●加藤、定岡-山倉

本塁打)原2号2ラン(松沼兄・1回)、山倉1号(松沼兄・2回)、立花1号2ラン(加藤・8回)、山崎1号(定岡・9回)

この後、続く第五戦は第二戦と同じ西本聖と高橋の投げ合いとなる。田淵が本塁打を放ち、二年前のファイターズとの日本シリーズから続いていた西本聖の連続無失点記録にピリオドを打ち2点を先行するが、ジャイアンツも七回に三番手の東尾から2点を返し同点に。そして2対2の同点のまま迎えた九回裏に森を攻めてヘクター・クルーズがサヨナラ3ラン。ジャイアンツが王手をかけた。

所沢に戻った第六戦、ジャイアンツに1点を先制されたライオンズが五回と六回に1点ずつ奪って勝ち越し、タイに持ち込もうとするが九回表二死から中畑に逆転2点タイムリーを浴びてしまう。一転してジャイアンツが日本一にリーチをかける状況となったが、その1点を守りきるために九回裏のマウンドにジャイアンツが送ったのは第二戦に続き第五戦も先発でひとりで投げきった西本聖。中一日だった。劣勢の展開で既に鹿取、加藤をリリーフで先に使っており、最後にこのシリーズをここまで引っ張ってきた西本に大役が回るのもひとつの流れかなと思ったが、相手の広岡監督はこれを敵将藤田監督の焦りと温情の混ざった判断ミスと思っていたというから恐れ入る。

九回裏のライオンズは一死から西本聖に四連打を浴びせ同点に。そして十回裏には江川を引っ張り出し、金森栄治のサヨナラ安打でこの死闘を制した。

雨で一日流れた第七戦。ライオンズがローテーション通りに松沼兄を先発させたのに対し、ジャイアンツは江川ではなく西本聖と心中する形をとった。既に三回失敗している江川より西本を選ぶ藤田監督の判断にジャイアンツファンは皆納得したことだろう。そして運命の第七戦、ジャイアンツが2点を先行するも、七回裏に西本聖が力尽きる。無死一、二塁のピンチに大田卓司の併殺コースの投ゴロを弾いて内野安打にして無死満塁にしてしまい、続くテリーに逆転の走者一掃二塁打を浴びてしまう。2対3。西本聖はこの回限りで降板。ライオンズが逆転勝ちでこのシリーズを四勝三敗で制したのだった。

勝ったライオンズも、敗れたジャイアンツも、この死闘というべき日本シリーズを経験したことでプロ野球選手としてのステータスが上がり、これからこの両チーム中心のペナントレースが続くのではないかという声も出た。しかしこの翌年、両チームとも三位に終わっている。特に前述のように王新監督体制で球団創立50周年のメモリアルイヤーを迎えたジャイアンツにとってこの年のV逸のダメージは大きかった。後年、ONのNに続き、Oの方までも追われるように監督の座を奪われることになるのだから、歴史のアヤはわからない。

そして一方のライオンズは敗戦処理。が生観戦した第四戦で初めて捕手に伊東勤を起用した。過去三戦はベテランの黒田正宏と大石友好の併用であったが、突然21歳、入団二年目の捕手を抜擢したのだ。以後第七戦まで伊東が先発マスクをかぶり続ける。結果的にこの大舞台の経験を最も活かせたのは伊東に他ならないのではと敗戦処理。は思った。この年以降の両チームの優勝回数を考えると、そう思えてならないのである。

だが、良い意味でジャイアンツ中心に日本の野球界が動いていた最後の時期と思えるこの時代の日本シリーズの名勝負を、その1/7ではあるが、生観戦出来たのは敗戦処理。にとっては良い体験であった。敗戦処理。がジャイアンツの日本シリーズの試合を生で観戦したのはこの試合を皮切りに今年までの37年間で四試合。ジャイアンツが逆転で敗れること三度。今年の第一戦で初めて勝った。しかしそんなことより、日本のプロ野球界で最高の大舞台を生で味わうことには、勝敗という結果以上のものを味わえたと、それぞれの観戦時の帰路に感じられたのも確かだ。

【参考文献】

NumberVideo熱闘!日本シリーズ1983西武-巨人(DVD)(文藝春秋刊)

選手の登録名は1983年の「ファン手帳」(ファン手帳社刊)に基づいているので発刊後に改名、登録名変更があった場合には反映されていない可能性があります。

|

« やっぱりダル! | トップページ | ホームアドバンテージ?-東京ドームでの日本シリーズ »

コメント

長緯様、コメントをありがとうございました。

> いやぁ、初めて観戦したジャイアンツの日本シリーズの試合が83年の第4戦とは、自分とまったく一緒ですね!

おぉ、そうだったのですか。

長緯さんには球場で何度となくお世話になっていますが、その話は知りませんでした。

> ともあれ、大一番を生で観戦したというのは、その時は贔屓チームの勝ち負けに躍起でだったのですが、後になってその結果がどうあれファンにとって財産になってきますね。

本当にそうですね。

最近、強く感じます。

> #スコアがL対Lになってますので、できましたら直していただければ(^^;)

これは失礼しました。こっそり治しておきます。

投稿: 敗戦処理。 | 2009年11月 3日 (火) 17時10分

いやぁ、初めて観戦したジャイアンツの日本シリーズの試合が83年の第4戦とは、自分とまったく一緒ですね!敗戦処理。さんのプロ野球に対する造詣の深さは自分と比べるのも失礼ですが、こういう一致点がありますとなんとなくうれしいです。

3塁側のジャンボスタンドにいらしたんですね。自分は外野席奥で立ち見で、長い試合で大変したが、席をとっておいていただければと思いました・・・冗談です(笑)。

今日本シリーズ只中ですが、やはりこの時期になりますと、この年の「盟主をかけた争い」を思い出します。このシリーズのあと、87年、90年(圧倒的な4タテ・・・)とジャイアンツはライオンズに完敗し、ライオンズが盟主としてこの間君臨し強さを誇ったのを思い出します。その伏線を冷静にこの83年の試合から感じ取ってらっしゃる敗戦処理。さんはすごいです。

ともあれ、大一番を生で観戦したというのは、その時は贔屓チームの勝ち負けに躍起でだったのですが、後になってその結果がどうあれファンにとって財産になってきますね。

そういえば安価で買えた「ファン手帳」もなくなりましたね。

#スコアがL対Lになってますので、できましたら直していただければ(^^;)

投稿: 長緯 | 2009年11月 2日 (月) 22時16分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/38724/30690989

この記事へのトラックバック一覧です: ライオンズ対ジャイアンツ-あの伝説の日本シリーズを生観戦!!-【回想】敗戦処理。生観戦録-第10回 1983年(昭和58年)編:

« やっぱりダル! | トップページ | ホームアドバンテージ?-東京ドームでの日本シリーズ »