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2010年1月 2日 (土)

下田武三コミッショナーの「新応援倫理三則」の元、大杉勝男の打席だけ鳴り物応援が認められた!?-【回想】敗戦処理。生観戦録-第11回 1984年(昭和59年)編

00 これまで当blogで毎月2日に交互に掲載していた 敗戦処理。が生観戦した野球場が53ケ所の観戦球場を出し尽くしたので当面 敗戦処理。が生観戦したプロ野球- my only one game of each year 主体にいくことにし、また新たに初めての球場で観戦したら臨機応変にはさむようにします。

1974(昭和49)に初めてプロ野球を生観戦した敗戦処理。はその後毎年、途切れることなく数試合から十数試合を生観戦しています。そこで一年単位にその年の生観戦で最も印象に残っている試合を選び出し、その試合の感想をあらためて書いていきたいと思います。年齢不詳の敗戦処理。ですが同年代の日本の野球ファンの方に「そういえば、あんな試合があったな」と懐かしんでもらえれば幸いです。

 

 

【回想】敗戦処理。生観戦録- my only one game of each year 11回 1984(昭和59)

 

 

1984年に生観戦した試合で印象に残っているのは3月24日に神宮球場で行われたスワローズ対ジャイアンツのオープン戦だ。公式戦開幕を約二週間後に控えたこの試合は前年限りで現役を引退した大杉勝男の引退試合を兼ねていた。

大杉はフライヤーズに入団し、張本勲らとともに打線の中心として活躍するがチームが東映から日拓ホームを経て日本ハムファイターズとなってチームカラーを一新する過程の中でスワローズにトレードされた。フライヤーズ時代は「駒沢の暴れん坊」と称されたチームカラーを地でいくような存在と思われていたがスワローズ移籍後はそれに丸みも加わり、ただプレーするだけでなくスタンドのファンの目を意識したパフォーマンスも随所に織り込ませるキャラクターでもあった。もちろん武闘派ぶりも健在で、1978年のジャイアンツ戦でジョン・シピンが味方投手に暴行を加えた乱闘事件では先頭に立って投手を守り応戦した。この乱闘シーンは当時結構印象的で語りぐさになった。また晩年には打席で相手捕手の、当時まだ若手だった達川光男が「このバッターは石ころみたいじゃけん、走れんから歩かせてもいいか」とつぶやいた(歩かせると思わせて実は勝負する)のに反応し、次の投球を見事に本塁打し、ベース一周してホームインする際に達川にお灸を据える意味でげんこつを加えたこともあった。通算486本塁打、2,228安打でなおかつ両リーグで1,000本以上の安打を放った紛れもない名打者だがこれらのエピソードのようにキャラも立っていた。

では、当日のスタメンを紹介しよう。

ジャイアンツ

()松本匡史

()河埜和正

()篠塚利夫

()原辰徳

()中畑清

()クロマティ

()吉村禎章

()山倉和博

()鹿取義隆

スワローズ

()岩下正明

()水谷新太郎

()若松勉

()マルカーノ

()杉浦亨

()スミス

()角富士夫

()八重樫幸雄

()荒木大輔

ジャイアンツは外国人助っ人のレジー・スミスが抜けているだけでほぼベストメンバーといえるオーダーだ。これが大杉の引退試合に花を添える意味だったのか、開幕二週間前だからこうなったのかは今では不明だ。なお中継ぎ、抑えとしての印象が強い鹿取義隆が先発しているがこれはこの年に新監督に就任した王貞治新監督の構想に鹿取の先発転向というのがあったからだ。後の王監督と鹿取の関係からは想像しがたいだろうが実は王監督の当初の構想には鹿取先発というのがあったのだ。

スワローズの方では主役の大杉はスタメンでは出なかった。前年まで大杉が守っていた一塁には新外国人のクリストファー・スミスが名を連ねている。このスミスという外国人は「ポスト大杉」としての期待よりも江川卓が旧クラウンライターライオンズからのドラフト指名を拒否して渡米していた時のルームメートという側面ばかり強調され、案の定これといった活躍は出来なかった。実際この試合でも一塁の守備で味方の足を引っ張った。

試合は何か静かな雰囲気の中、ジャイアンツ打線がスワローズ先発の荒木大輔を攻略し、主導権を握る。当時の荒木はまだ早稲田実業から入団して二年目で人気に実力が追いつかない状態だったがチームの功労者の引退試合の先発に抜擢されあたり首脳陣の期待が高かったことをうかがわせる。

大杉の出番は五回裏。ジャイアンツに5対1とリードされ、2点を返してなお一死一塁というところで二番手の加藤正の代打で登場した。

そしてこの時、球場の雰囲気が一変した。

当時の下田武三コミッショナー主導による、鳴り物応援規制の動きとの兼ね合いでこのオープン戦も両軍応援団は鳴り物応援を自粛していたのだが、球場側と話し合いがついていたようで、大杉の打席だけライトスタンドのスワローズ応援団からトランペットによるヒッティングマーチが演奏されたのだ。(筆者注.冒頭の画像は当時の下田武三コミッショナーによる新応援倫理三則を掲げたボード。ただし当エントリーで取り上げている試合で撮影したものではない。2001年5月撮影)

後に背番号8の後輩、広沢克己にも一時期受け継がれたこのヒッティングマーチは大杉の現役時代を知らない人でも聞き覚えがあるかもしれないが残念ながら音声を再現出来ないので紹介出来ない。ジャイアンツファンを含め、球場全体からの大歓声に送られて最後の右打席に立った大杉は鹿取の投球をフルスイングすると、三塁ゴロ併殺打に倒れた。大杉は守備にはつかず、花束をもらってベンチに退いた。

今ならさしずめ「鹿取、空気読め!」などとブーイングが飛びかねない結果だが前述のように鹿取もテストされる立場でそのような余裕はなかったのだろう。あの長嶋茂雄の公式戦最終打席が併殺打だったのと同じく、当時プロ野球歴代二位の通算266の併殺打を記録していた大杉らしいオチがついた打席となった。

だが、その次の回、大杉目当てで訪れたもののジャイアンツを応援している敗戦処理。と友人の目が点になるようなことが起きた。

六回裏のマウンドに鹿取ではなく、西本聖が上がったのだ。

先発テストをかけた鹿取は公式戦なら勝利投手の権利を得る五回まで投げてスタミナのテストも兼ね、六回からは江川卓と並ぶ二枚看板の西本聖がロングリリーフすることになっていたようだ。実際西本聖はこの試合最後まで投げきった。

「この回から西本を出すのなら、大杉の打席で西本を出せよ!」

敗戦処理。は王新監督の演出っ気の無さに呆れ、嘆いた。

「監督一年目だし、仕方ないか」同じく大杉目当てで来たジャイアンツファンの友人もつぶやいた。

このコーナーの前回1983年版でもふれたがこの年、1984年はジャイアンツにとって球団創立50周年の節目の年であり何が何でも優勝、そして日本一を奪回しなければならない年だった。長嶋監督でも思い通りの成績を挙げられなかったジャイアンツはその二の舞いを避けるため、王を引退してから三年間、藤田元司監督、牧野茂ヘッドコーチの元で助監督として帝王学を学ばせたほどだ。秋に行われる読売新聞社主催の日米野球は日本シリーズ優勝チームと前年のワールドシリーズ優勝チームのオリオールズの一騎打ちになるように組んだほどだ。そんな状況で監督として実戦経験を積む場でもあるオープン戦で相手球団の行事に花を添える余裕は無かったのだろう。

また前々回の1982年版でふれたように江夏豊は木俣達彦の引退試合に投げるために沖縄でのミニキャンプを中断してそれだけのために名古屋に駆けつけ、登板後再び沖縄に戻った。近年ではシーズン終盤の本拠地最終戦などで引退の花道を飾るケースが多いが、この当時は翌春のオープン戦で引退試合を行う慣例があった。そして対戦相手も花を添えるのが通例だったのだ。

結局この試合は九回裏途中で降雨コールドとなったがジャイアンツが11対5で大勝した。しかしスワローズでは後に一塁も守ることになる杉浦亨が鹿取、西本聖から1本ずつ本塁打を放って気を吐いた。

1984年3月24日・神宮球場】

G 003 021 032  =11

S 010 020 002X =5

(九回裏無死・降雨コールド)

G)○鹿取、S西本聖-山倉、村田

S)●荒木、加藤正、立野、宮城、尾花-八重樫

本塁打)杉浦1号(鹿取・2回)、スミス1号2ラン(鹿取・5回)、杉浦2号2ラン(西本聖・9回)

結局この試合で鳴り物応援が為されたのは大杉の打席だけだった。その後結局下田コミッショナーの鳴り物応援規制はなし崩しとなったが、それでも応援にあまり乗り気でない客が応援団らに強要されることが減ったそうなので一定の効果があったようだ。

パとセ、両リーグで活躍した大杉は前述のように両リーグで1,000本安打以上放っていたが本塁打はパで287本塁打を放っていたがセでは199本。両リーグで200本塁打以上という金字塔を逃した。試合後の挨拶で大杉自身がそのことに触れ、「両リーグ200本塁打まで、あと一本だったのが心残りですが、みなさんの夢の中で打たせてもらいたいと思います」と挨拶し、ファンの涙を誘った。

前述したように翌1985年にスワローズに入団して大杉の背番号8を受け継いだ広沢克己に対し、大杉のような右の大砲になって欲しいとの願いを込めてスワローズの応援団が一時期広沢の打席で大杉のヒッティングマーチを流用していた時期があった。広沢が打者として本当に本領を発揮するのはスワローズに野村克也監督が就任して「ID野球」を叩き込まれてからと言っても過言でも無かろう。スワローズが野村監督の下で初めて優勝するのは1992年だったが、その年の4月30日、大杉勝男は肝硬変で亡くなった。47歳の若さだった。

そしてその翌日、大杉の古巣スワローズは東京ドームでジャイアンツ戦を行い7対6で辛勝したが、試合途中から広沢の打席で大杉のヒッティングマーチを演奏し、九回表の攻撃ではイニングを通して大杉のヒッティングマーチを演奏し続け、「かっとばせー、大杉」と連呼し徹した。

敗戦処理。がこの試合を生観戦したのはある理由で悩み、落ち込んでいる旧友との再会のきっかけにしたかったからだった。敗戦処理。とその友人はともにジャイアンツファンなのだが、友人は大杉の大ファンでもあった。残念ながらその友人とも結局再び疎遠になってしまい、現在では辛うじて年賀状のやりとりだけになってしまっている。

大杉はファイターズにも在籍していたが敗戦処理。がファイターズファンになった時にはもうスワローズに移籍していて、選手として味方になったことはなかったがあのキャラクターゆえ、どこか憎めない、そんな希有な存在だった。その後プロ野球選手全般に言えることだが、トレンディ、だとか今で言えばイケメンだとか、だいぶ選手のスタイルが変わってきてかつての大杉のような、強面のプロ野球選手自体が少なくなったような気がする。清原和博は晩年こそ番長と呼ばれたが、あのドラフト会議での涙に象徴されるようにどこか子供っぽさを残していた。かくなる上は中田翔に何とかその路線で一人前になって欲しいと思っているのだが…。

【参考文献】

朝日新聞縮刷版1984年3月(朝日新聞社刊)

読売新聞縮刷版1984年3月、1992年5月(読売新聞社刊)

選手の登録名は1984年の「ファン手帳」(ファン手帳社刊)に基づいているので発刊後に改名、登録名変更があった場合には反映されていない可能性があります。

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