一匹狼江夏豊、たった一人の引退式-【回想】敗戦処理。生観戦録-第12回 1985年(昭和60年)編
これまで当blogで毎月2日に交互に掲載していた 敗戦処理。が生観戦した野球場が53ケ所の観戦球場を出し尽くしたので当面 敗戦処理。が生観戦したプロ野球- my only one game of each year 主体にいくことにし、また新たに初めての球場で観戦したら臨機応変にはさむようにします。
1974年(昭和49年)に初めてプロ野球を生観戦した敗戦処理。はその後毎年、途切れることなく数試合から十数試合を生観戦しています。そこで一年単位にその年の生観戦で最も印象に残っている試合を選び出し、その試合の感想をあらためて書いていきたいと思います。年齢不詳の敗戦処理。ですが同年代の日本の野球ファンの方に「そういえば、あんな試合があったな」と懐かしんでもらえれば幸いです。
【回想】敗戦処理。生観戦録- my only one game of each year 第12回 1985年(昭和60年)編
1985年といえば日本のプロ野球での最大のトピックは「阪神タイガース、21年ぶりの優勝」だろう。ランディ・バース、掛布雅之、岡田彰布による三者連続バックスクリーンへの本塁打や、久々の優勝に狂喜乱舞した一部のファンがカーネル・サンダース人形を道頓堀川に投げ込んだ(昨年、24年ぶりに発見された!)事件などは今でもマスコミが時折「伝説」として語り継ぐ。
タイガースはこの優勝から、次の優勝までに18年の歳月を要した。その間、リーグ最下位に沈むこと10回、5位に終わること3回といわば「万年最下位」に近い状態だった。それがためか、1985年の優勝の前の、優勝できなかった20年間も低迷していたかのように誤解されることがあるが、この時期はジャイアンツのV9などがあり、タイガースはどちらかというと「万年二位」のイメージであった。事実、この間は2位6回を含む半分以上の12年、Aクラスをキープしていた。最下位に落ちたのは1978年の一度だけで、この時が球団史上初の最下位転落だった。
そして当時のV9巨人に牙をむいて先輩の村山実と共に立ち向かったのが江夏豊だった。ONを中心にした強力打線に一人立ち向かう黄金のサウスポー、江夏豊。しかしそのマイペースすぎる性格などがチームの和を乱しがちで、故障もあって本来の投球が出来なくなると、ホークスにトレードされ、その後も数球団を渡り歩くのだが常勝チームに一人牙をむく姿にロマンを感じたファンも多かったはずだ。
そんな江夏は1984年のライオンズを最後に現役引退するのだが、当時の広岡達朗監督が求める「管理野球」のスタイルに江夏が馴染まないのはこの年にトレードで入団してきた時点から懸念されていて、その通りの結果になった。江夏豊はどこまで行っても江夏豊でライオンズの鉄の管理の前でも自分を曲げなかった。江夏はライオンズに移籍することで9年ぶりにタイガース時代のチームメートであった田淵幸一と同じユニフォームを着ることになったがそろってこの年限りで現役を引退。田淵は翌春のオープン戦で盛大に引退セレモニーを行われたが江夏に関しては何もなかった。通算829試合登板、206勝158敗193セーブ、通算奪三振2987、通算防御率2.49という大投手の現役引退にしてはあまりにも寂しい扱いだった。
そこで文藝春秋社の雑誌「Number」編集部や江夏が所属する名球会などが中心に立ち上がり、あらためて引退セレモニーを行おうということになって実現したのが1985年(昭和60年)1月19日、東京都多摩市の多摩一本杉球場で行われた「江夏豊 たった一人の引退式」であった。最終所属球団からセレモニーをしてもらえなかっただけでなく、各所属球団の本拠地を使用することもままならず、江夏に何のゆかりもない東京の西の方にある、せいぜい高校野球の予選で使われる程度の球場での開催となってしまったのだ。ただ敗戦処理。にとっては幸運だった。地元だからである。
地元と言いながら、敗戦処理。は初めてこの球場を訪ねた。ほぼ満員となった一塁側のスタンドに腰を下ろすと、グラウンドでは「Number」誌で評論活動をしていた瀧安治らが地元野球少年達に野球教室をしていた。よく見ると大人が混ざっている。この日のゲストであるビートたけしの関係でたけし軍団数名が野球教室に参加していた。
しばらくして地元の少年野球、多摩ファイターズと多摩市野球スポーツ少年団の試合が始まった。「いったい江夏はいつ出てくるのだろう?」と言う不安がよぎってくる。スタンドの一部に陣取ったタイガース私設応援団はしかたなく少年野球の応援を始めたほどだった。
二回表、多摩市野球スポーツ少年団の先頭打者が四球で出塁すると、守備側のベンチから監督らしき人物が出てくる。よく見るとビートたけしだ。
「私に一分だけ時間を下さい」
たけしは球審の前でこの年の前年の大晦日のNHKの紅白歌合戦で現役引退のためラストステージとなった都はるみ(後に復帰。)にアンコールを求めた鈴木健二アナウンサーの名台詞を真似してまずスタンドの客の笑いを取り、
「ピッチャー美空、いや江夏」
と、これまた同じ紅白歌合戦で世紀の言い間違いと言われた生方恵一アナウンサーの物まねで江夏登場を告げた。この時捕手もタイガース時代の相棒、辻恭彦に交代した。「ヒゲ辻」でなく「ダンプ辻」の方である。辻も前シーズン限りで現役を引退していた。江夏と辻、ともに最終所属球団のものではなく「阪神タイガース」のユニフォームで登場。
江夏は多摩市野球スポーツ少年団の打者をショートゴロに打ち取った。すると攻撃側のベンチから監督が出てくる。こちらは武田鉄矢だ。武田鉄矢も一言ギャグを言ってから「ピンチヒッター落合さん」と告げた。当時オリオンズで既に二年連続三冠王を達成していた落合博満がオリオンズのユニフォームを着て打席に登場した。守備陣も多摩ファイターズからたけし軍団に代わり、当時のパ・リーグ審判部長斎田忠利に代わった。セ・リーグの審判部長には断られ、パ・リーグの審判部長もリーグのマークの入った正式のユニフォームを着ず、ウインドブレーカー姿での登場という制約付きだった。
落合は浅いセンターフライを打ち上げた。打席終了後、マウンドの江夏の元に歩み寄り、握手してベンチに戻る。
その後は当時カープの高橋慶彦、当時ブレーブスの福本豊、当時カープの山本浩二、現役を引退して丸一年の大杉勝男、当時ホエールズの斎藤明夫の順で打席に入った。一人一打席対決で打ち終わったらマウンドに歩み寄り、江夏と握手するというパターン。1月という、自主トレをするにしてもユニフォームの着用を禁じている時期に落合、斎藤らは所属球団のユニフォーム姿で参加した。
そしてトリは名球会の江藤慎一。江藤はタイガース時代の全盛期の江夏にドラゴンズの主砲として対戦していた。江藤はオリオンズにトレードされるが1971年のオールスターゲームでは全パの四番打者としてあの伝説の「9連続三振」の一人に数えられている。
このあと、武田鉄矢が惜別の詩を読み、ファイターズ時代の恩師、大沢啓二元監督とタイガース時代の後輩、掛布雅之の録音されたスピーチが場内に流された。江夏はこの引退式のために駆けつけてくれた仲間の手によってマウンドで胴上げされ、花束を手に場内を一周した。
淡々とした構成で江夏豊の引退式はつつがなく終了した。
所属球団のいずれからも惜別の場を設けてもらえず、引退式開催が決まってからも甲子園、当時の後楽園を含め思い出の球場の使用を断られた男。そしてそれでもそんな男のためにわざわざ東京の西の外れの野球場まで駆けつけてくれたライバル達と、それを見届けに来た多くのファン。ささやかではあるが、暖かく皆で送り出した感じだった。
実はこの時、江夏の大リーグ挑戦が既に決まっていて、ミルウォーキー・ブリュワーズのスプリング・キャンプに参加することが決まっていた。あの野茂英雄がドジャース入りする十年前のことだ。
江夏は挑戦し、残念ながら夢を叶えることが出来なかった。ブリュワーズのユニフォームを着てオープン戦にも出場したが結果を残せなかった。しかし江夏の果敢な姿勢は球団を動かし、不合格がほぼ決まってから当時の大リーグを象徴する様な存在のレジー・ジャクソンとの対決の機会を与えられた。
江夏はその後、どこの球団にも所属していない。
1993年にファイターズの監督に大沢啓二が復帰すると、春季キャンプに臨時コーチとして請われた。江夏にとって唯一のコーチ稼業であった。しかしその期間が終了した後に、覚醒剤取締法違反で逮捕された。当時の取り調べで江夏は常習に関しては強く否定したが、これは現役引退後、初めて指導の機会を提供してくれた大沢監督やファイターズ球団に迷惑がかからないようにとの思いがあったからだと思われた。また裁判では国民栄誉賞を受賞したカープ時代の同僚、衣笠祥雄が情状証人として出廷した。衣笠は引退式にも現役選手として参加予定であったが直前に養父が亡くなられて参加できなかった。
後にプロ野球マスターズリーグ創設に伴い、東京ドリームスの投手として、そして監督として元気な姿を見せてくれるがNPB復帰は未だ果たしていない。それどころか、1月12日付エントリー東尾修、野球殿堂入りで感じたことでも触れたようにあれだけの実績にもかかわらず野球殿堂入りを果たしていない。
ある意味で江夏豊らしいと言えば、これ以上ない、らしい引退セレモニーだったと時間の過ぎた今なら振り返ることが出来るが、江夏自身の身から出た錆という面もあるにせよ、寂しさを感じた。しかしタイガース時代、そしてカープ時代には宿敵という感じでジャイアンツの前に立ちはだかり、一転してファイターズではチームを優勝に導いてくれたヒーローとして輝いた江夏豊の日本での最後の式典にスタンドの片隅で参加できたことは一ファンとして光栄の極みだった。この年の公式戦観戦の中に思い出深いものがいくつかあるのだが、1985年の観戦の中でのonly one game は「江夏豊 たった一人の引退式」である。
【参考文献】
「Sports Graphic Number 118」(文藝春秋社刊)
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コメント
江夏豊氏は、
元は阪神の生え抜きだし、それに当時の地元も兵庫県だったんだから、
どうせ当時の時点でトレードで放出されるんなら、南海ホークスじゃなくて阪急ブレーブスに行ってほしかったな~?!
阪急だったら当時は山田久志が絶対的のエースだったから、
阪急黄金期の功労者だった山田氏と引き換えでトレードしたら逆の立場で山田氏は阪神の主力として益々有名になってたし阪神を少し早く優勝させてたし、あの江川騒動の煽りで小林繁氏が来ることはなかったし、片や江夏氏も阪急の赤のユニフォームが水に合ってたし、阪急の第2期の黄金時代の当事者の一人になってたかもしれなかったから、
正に、江夏氏が南海に移ったのは、
ある意味、伝説的な失敗という転換だったというのが妥当な見解だね!?
投稿: クロダリング49号 | 2020年3月18日 (水) 20時51分
山田 宜崇様、コメントをありがとうございます。
返信が遅れ、申し訳ありません。
> 幼少時代より江夏豊にあこがれ、阪神ファンとなった私は、ファンを代表して当時の阪神関東応援団長と共に一本杉球場のマウンドで江夏投手に花束を手渡ししたことは一生の思い出です。
江夏豊投手、夢をありがとう。
それはそれは!
そういう方に拙blogを読んでいただき、かつコメントまでいただき、ありがたい限りです。
江夏投手には、本当に夢を見させてもらいましたね。
私としてはファイターズを優勝に導いてくれた大恩人です。
投稿: 敗戦処理。 | 2016年6月 5日 (日) 23時21分
幼少時代より江夏豊にあこがれ、阪神ファンとなった私は、ファンを代表して当時の阪神関東応援団長と共に一本杉球場のマウンドで江夏投手に花束を手渡ししたことは一生の思い出です。
江夏豊投手、夢をありがとう。
投稿: 山田 宜崇 | 2016年5月26日 (木) 14時34分