敗戦処理。がファームの試合を観戦するきっかけになった試合!?-【回想】敗戦処理。生観戦録-第13回 1986年(昭和61年)編
これまで当blogで毎月2日に交互に掲載していた 敗戦処理。が生観戦した野球場が53ケ所の観戦球場を出し尽くしたので当面 敗戦処理。が生観戦したプロ野球- my only one game of each year 主体にいくことにし、また新たに初めての球場で観戦したら臨機応変にはさむようにします。
1974年(昭和49年)に初めてプロ野球を生観戦した敗戦処理。はその後毎年、途切れることなく数試合から十数試合を生観戦しています。そこで一年単位にその年の生観戦で最も印象に残っている試合を選び出し、その試合の感想をあらためて書いていきたいと思います。年齢不詳の敗戦処理。ですが同年代の日本の野球ファンの方に「そういえば、あんな試合があったな」と懐かしんでもらえれば幸いです。
【回想】敗戦処理。生観戦録- my only one game of each year第13回 1986年(昭和61年)編
今にして思えば、敗戦処理。がファームの試合に足繁く通うようになったきっかけの試合。初めてファームの試合を生で観たのがこの年の4月23日、当時の後楽園球場で行われたイースタン・リーグ公式戦、ファイターズ主催による対ジャイアンツ戦。
当時親交の深かった友人が敗戦処理。がジャイアンツとファイターズ双方を応援していることを踏まえて誘ってくれた試合だ。ジャイアンツでは前年のタイガース戦登板中にランディ・バースの打球を受けて左股関節を骨折して戦線を離脱していた槙原寛己が復帰登板する試合であるとともに、外国人枠の関係で二軍生活を余儀なくされていたキース・カムストックというスクリューボールが得意な左投手が投げる試合。一方のファイターズではこの年のルーキーだった田中幸雄が既に一軍級の投手から何本か本塁打を放っていて話題になっていた。
記憶というのはいい加減なものだ。
以前に敗戦処理。は当blogで初めてイースタンを観戦した時にジャイアンツの槙原から安打を放った田中雄を目当てにいったらネット裏でスコア係をしていたと書いたが、大違いでこの試合で槙原から2安打を放ったのだ。この二日前の報知新聞のウイークリーファームというコーナーで田中雄が特集されていて西本和人、高山郁夫、右田一彦、岡本光といった一軍経験のある投手から本塁打を量産している高校卒ルーキーがいて注目していたのだ。で、練習中に田中雄を探していたらネット裏でビデオを撮ったりスコアを付けている人の手伝いをしていたのを勘違いしたといったところか。
チームの先輩に同姓同名の田中幸雄投手がいたために新聞表記は「田中雄」とされ、長身の先輩が「オオユキ」、決して小柄ではないのに新人で格下だからか後のミスター・ファイターズは「コユキ」と呼ばれていたのだ。
その田中雄は「三番・遊撃」でスタメン出場。槙原からの安打を含む4打数3安打と存在感を示した。
(左)石井雅博
(遊)岡崎郁
(一)山本勝哉
(右)井上真二
(捕)山崎章弘
(二)鴻野淳基
(三)藤岡寛生
(投)槙原寛己
(中)栄村忠広
(右)早川和夫
(二)広瀬哲朗
(遊)田中幸雄
(左)佐々木正行
(中)嶋田信敏
(一)沖泰司
(三)渡辺浩
(捕)野村裕二
(投)佐藤誠一
【1986年4月23日・後楽園】
G 010 000 020 =3
F 010 001 000 =2
G)槙原、○カムストック、S広田-山崎
F)●佐藤誠、西村-野村
本塁打)岡崎1号、井上5号、野村1号
めったなことでは座れない、プロ野球のメッカ、後楽園球場のネット裏に座りたかったことと、カムストックの魔球?スクリューボールを少しでも近い位置で見たくてネット裏に座った。
前方にはスコアやビデオを撮っているファイターズ若手選手の
「今のがスクリュー?」「スクリューボールってスコアにはどう書くの?」なんていう会話が聞こえてくるし、後ろで専門的な会話が聞こえてくると思って振り返るとジャイアンツの吉田孝司コーチだったり、この日ナイトゲームをこの場所でするファイターズの間柴茂有、柴田保光(この夜、先発して勝利投手)がネット裏で観戦していたりと、「何か凄い場所に来ちゃったなぁ…」という印象が強かったのを今も覚えている。
その後、後楽園から東京ドームに両球団の本拠地が代わり、ジャイアンツはともかくファイターズは一軍本拠地でのファームの試合を主催しなくなった事を考えても貴重な体験だった。
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