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2010年4月10日 (土)

木村拓也元選手の抜けた穴

Cdsc0250 7日に亡くなった木村拓也ジャイアンツ内野守備走塁コーチをしのび、昨年の現役引退後に木村拓也が抜けた後のジャイアンツを考えてエントリーしようとした(タイミングを逃してエントリーせず)ものに新たに加筆したものをエントリーします。

 

(写真:昨年1123日に行われたジャイアンツのファンフェスタで現役引退の挨拶をする木村拓也さん)

木村拓也さんが現役引退を表明したのは昨年の日本シリーズでジャイアンツが日本一を勝ち得たその日の試合後だった。敗戦処理。はそのニュースを、ビールかけなどの祝勝会を終えたジャイアンツナインをゲストに迎えていた日本テレビ系の番組で知った。札幌ドームでの観戦を終え、真駒内にあるホテルでジャイアンツ日本一達成のエントリーを編集しながらテレビを観ていた。その番組に出演していた小笠原道大は木村拓也さんの現役引退を予め聞いていたようだった。

日本シリーズにも六試合中、三試合出場していた木村拓也さんの現役引退は敗戦処理。もショックだった。そしてしばらくして敗戦処理。は土井正三さんの現役引退の時を思い出した。

V9時代を支えた名二塁手だった土井正三さん。長嶋茂雄監督になってジャイアンツが純血主義を打ち破って獲得したデーブ・ジョンソンが二年目の1976年に本職の二塁に回ったことで出番が激減したが、そのジョンソンがそのシーズン限りでジャイアンツを退団すると、再び息を吹き返したかのようにベテランの味で二塁のポジションを奪い返した。

ジャイアンツはその翌年の1977年にジャクソン・リンドというスイッチヒッターの二塁手をシーズンインしてから獲得したが日本の野球に適応できず土井のポジションは安泰だった。そしてその年が終了すると、その年限りでホエールズを退団した、二塁が本職のジョン・シピンを獲得した。翌年の1978年、ホエールズ時代に「ライオン丸」と呼ばれたヒゲをそり落としたシピン王貞治張本勲らとクリーンアップを組み、打率三割を記録する活躍を見せた。しかしシピンが試合で守ったのは三塁や外野の方が多かった。長嶋監督になってから外野から三塁にコンバートされて三年目の高田繁に衰えが見られたり、前年に大活躍して長嶋監督から「史上最強の五番打者」と絶賛された柳田真宏の成績下降の穴を埋めた。土井さんはといえば、入団二年目で当時は内野手だった松本匡史の追い上げがあったものの二塁手のポジションを守り通した感じだった。しかし、広岡達朗監督率いるスワローズとの激しいデッドヒートに敗れ、球団創立以来初優勝を果たしたスワローズの後塵を拝したシーズン後に待っていたのは球団から土井さんへの引退勧告だった。

球団は若返りに踏み切り、土井さんにもう一踏ん張りを期待するのではなく、コーチとなって第二の土井正三を育ててもらうことを希望したのだった。だが入団して二年を経た松本はオフに肩の手術を控えており、翌年の試合出場は覚束ない状況。翌1979年は土井さんの背番号6を継いだ篠塚利夫平田薫らの成長を期待したがすぐには土井さんの穴を埋めるほどにはならず、結局シピンを本職の二塁に戻した。篠塚が二塁のポジションをつかんだのはシピンの不調もあった1980年。

* あの有名な秋の伊東キャンプが行われたのは1979年のシーズン後。

篠塚は立派にV9戦士・土井正三さんの後のジャイアンツの二塁のポジションを守り通した。

木村拓也さんの現役引退にいたる経緯はわからない。本人が引き際を考えたのか、土井さんのように球団から引退勧告があったのかもしれない。実際原監督は一回目の監督の時にまだ現役続行を望んでいた川相昌弘に現役引退、コーチ就任を打診したことがある。余談だがその時は川相は原監督の意向をくんで現役引退を了承し、コーチ就任も内諾していたが原監督自身が退任することになり、川相は球団を出ることになった。

木村拓也さんが抜けたジャイアンツは土井さんの時のように若手を競わせるのかと思ったが二塁が本職のエドガー・ゴンザレスを獲得した。古城茂幸脇谷亮太はともに若手という年齢ではないが、ようやく格好がついてきた感じだし、中井大介も試合でどんどん使いたいところだ。坂本勇人が遊撃のポジションをがっちりつかみ、いずれ大田泰示を三塁で使いたいジャイアンツとしては中井を使うなら二塁で使いたいところ。しかしそうは言っても育つのを待てないのか、外国人の二塁手を獲得するジャイアンツ。

木村拓也さんが亡くなられてから、死を惜しむファンのblogをいくつか読んだ。さすがにことがことだけに贔屓球団の壁を越えて惜しむものが多い。ジャイアンツやカープのファンでない方のblogを読むと、現役時代の木村拓也さんに対する相手球団ファン目線での感想、評価に鋭いものが多い。木村拓也さんのようなタイプの選手の真髄は味方ファンよりむしろ相手チームのファンに嫌がられることで正当に評価されるのかもしれない。そしてそういう選手の穴はおそらく外国人選手では埋めることが出来ない。木村拓也さんがジャイアンツにトレードで入ってきたのは2006年のシーズン中だったが、それが元木大介が現役を引退した翌年というタイミングだったのは偶然ではなかったと思う。ああいう人材が必要だからシーズン途中であるにもかかわらずトレードで獲得したのだろう。

エドガーという選手は今のところ可もなく不可もなくというか、なんだかいるのかいないのかわからない選手だが、木村拓也さんの志を継ぐ選手の芽を摘む存在になることだけは避けて欲しい。もちろんそれはエドガー自身の問題と言うより、使う方、即ち原監督や球団サイドに問われることである。

木村拓也さんが亡くなられた当日の試合で外野守備でダイビングキャッチを魅せた松本哲也のことを翌日のスポーツ報知が「キムタク魂受け取りました」と報じていたが敗戦処理。に言わせればとんでもない話。松本は木村拓也さんの魂を受け取る気があるのなら、もっと送りバントの精度を高めることだ。

そして同様に、もう木村拓也さんが現役でないのだから捕手二人制は極力避けて欲しい。木村拓也さんが亡くなられた日に先発で好投して勝利投手になった西村健太朗がマメが出来たために登録を抹消され、星孝典が8日に登録されてジャイアンツの選手登録(一軍入り)されている捕手は再び三人になった。三人いても昨年の9月のように捕手を使い果たすケースが出てこないとも限らないが捕手二人制は極力避けた方が良いと思う。木村拓也さんが緊急時にマスクをかぶったあの試合だって相手の攻撃を1イニング押さえたことより、ケガなどのアクシデントがなかったことを敗戦処理。は喜んだ。

現役を引退したとはいえ、37歳の若さで亡くなられたということはご家族など近親者の方の思いを察するに贈るべき言葉も浮かばないが、選手としての木村拓也さんが抜けた穴に苦しむ時期が遅かれ早かれジャイアンツに訪れることだろう。

 

かつての土井さんはコーチとして自分のポジションを継ぐであろう篠塚や平田らを鍛えたが、キムタク魂を継ぐべき後任を鍛えるべく木村拓也コーチは残念ながらいない。そもそも木村拓也コーチが健在だったとしても、今季のジャイアンツの二塁手は初めにエドガーありきだったのだが…。だからこそキムタク魂などという表現を安直に使って欲しくない。

相手先発が右投手と読んだ時のみとはいえ脇谷をスタメン二塁で使い始めたり、西村健の不測のアクシデントによるとはいえ二人しかいなかった一軍捕手を三人に戻すなどをしたのが木村拓也さんが亡くなられてからだということが、木村拓也さんの残したものの大きさに気付いたからであって欲しいのだが、どうなのだろうか…。

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コメント

にしたく様、コメントをありがとうございました。

> 「きょうは本当に良い日だ。タクヤ、19年間よくやったよ。日本一を置きみやげに引退しないか」
原監督の胴上げが終わって、私がベンチ裏に呼び出した時に、木村はもうその意味がわかっていたに違いない。彼は私の高校の後輩である。

う~ん、こういうドラマがあったのですね。

でもここだけを読んでいうのもナンですが、これって日本一を決めた試合当日にすべきことなのですかね?

てっきり引退が内定していて日本シリーズに臨んだのだとばかり思っていましたが。

> CSから日本シリーズにかけて木村コーチと大道選手は細いロープの上で、どのような去就もありえる立場にいたようです。

大道が第五戦で林からタイムリーを放った時に派手なガッツポーズをしたり、後に生涯最高の一打みたいなことを語ったのもそういう事情があったとうことなのでしょうね。

ということは「明日は我が身」という感じで豊田や谷も今シーズンに賭けている訳ですね。

投稿: 敗戦処理。 | 2010年4月11日 (日) 23時25分

昨年11月30日号の週刊ベースボールで巨人軍清武球団代表が隔週連載「野球は幸せか!」で、“タイトロープの上”というタイトルの文章を書いています。
 
巨人軍が7年ぶりの日本一を奪回した直後のことである。37歳の木村拓也と私は、喜びに沸く選手の群れから外れて、一塁ベンチ裏の練習場でベンチに並んで腰掛けていた。
「きょうは本当に良い日だ。タクヤ、19年間よくやったよ。日本一を置きみやげに引退しないか」
原監督の胴上げが終わって、私がベンチ裏に呼び出した時に、木村はもうその意味がわかっていたに違いない。彼は私の高校の後輩である。
(一部略)
「これから引退会見をしよう」と付け加えると、優勝の感激で真っ赤になっていた木村の目から、また涙が静かにあふれ出した。
(引用:「週刊ベースボール11月30日号」内P102「清武英利・野球は幸せか!」より)
 
 
これが、木村拓也コーチ引退の一部始終のようです。
この文章を全文読んでみると、CSから日本シリーズにかけて木村コーチと大道選手は細いロープの上で、どのような去就もありえる立場にいたようです。

投稿: にしたく | 2010年4月11日 (日) 13時45分

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