後楽園球場、最後の公式戦-【回想】敗戦処理。生観戦録-第14回 1987年(昭和62年)編
これまで当blogで毎月2日に交互に掲載していた 敗戦処理。が生観戦した野球場が53ケ所の観戦球場を出し尽くしたので当面 敗戦処理。が生観戦したプロ野球- my only one game of each year 主体にいくことにし、また新たに初めての球場で観戦したら臨機応変にはさむようにします。
1974年(昭和49年)に初めてプロ野球を生観戦した敗戦処理。はその後毎年、途切れることなく数試合から十数試合を生観戦しています。そこで一年単位にその年の生観戦で最も印象に残っている試合を選び出し、その試合の感想をあらためて書いていきたいと思います。年齢不詳の敗戦処理。ですが同年代の日本の野球ファンの方に「そういえば、あんな試合があったな」と懐かしんでもらえれば幸いです。
(写真:後楽園球場最終年の風景。すぐ横に完成間近の東京ドームが…。2007年9月に野球体育博物館にて開かれた「企画展:後楽園スタヂアムと東京ドーム」にて掲出されたパネルを撮影)
【回想】敗戦処理。生観戦録- my only one game of each year第14回 1987年(昭和62年)編
導入部でも触れたように敗戦処理。が初めてプロ野球を生観戦したのは1974年(昭和49年)。場所は後楽園球場だった。それから13年が経ち、日本にも初めての屋内球場、東京ドームが完成し、この年限りで後楽園球場はその役目を終え、シーズン終了後に解体されることになっていた。
翌年からの稼働に向け、東京ドームの建設は着々と進んでおり、この年には後楽園球場の一塁側スタンド後方にドーム球場の外観がそびえる感じになっていた。10月18日、ジャイアンツがリーグ優勝を決めていたため、日本シリーズの舞台として、また惜別イベントも企画されていたが公式戦(ペナントレース)としては最後に後楽園球場が使用される日がやってきた。既にファイターズは後楽園球場での日程を終了させており、ジャイアンツの公式戦最終戦が後楽園球場での最後の公式戦となった。敗戦処理。は前日に行われた後楽園球場最後のナイトゲームに続き、日曜日のデーゲームとして行われた最終戦を生観戦した。最後のカードはジャイアンツ対カープ戦だった。
カープ
(遊)高橋慶彦
(右)山崎隆造
(二)ジョンソン
(一)小早川毅彦
(三)衣笠祥雄
(中)長嶋清幸
(左)ランス
(捕)達川光男
(投)白武佳久
ジャイアンツ
(二)鴻野淳基
(遊)岡崎郁
(中)クロマティ
(三)原辰徳
(右)吉村禎章
(一)中畑清
(捕)山倉和博
(投)西本聖
(左)松本匡史
既にリーグ優勝を決めていたジャイアンツは後楽園球場の試合だけでなく、公式戦の最終戦。カープとは10勝10敗5分けと五分で勝てばセ五球団に対し、すべて勝ち越すいわゆる「完全優勝」がかかっていた。そしてさらに日本シリーズに向けて、最後の実戦でもあった。
ただそんな中、カープの正田耕三と首位打者争いをしていた篠塚利夫はスタメンを外れていた。ここまでの篠塚は429打数143安打で打率.333でトップ。2位の正田は392打数130安打で打率.3316と僅少差で篠塚に迫っていて1打数1安打で追いつく状態だったが、手首の腱鞘炎で万全でないのと、直接対決では打席に立っても歩かされるのが目に見えているためか欠場。残る三試合にかけた(結局、この次の試合で代打に出てバントヒットを決めて打率トップに並んだ状態でシーズン終了。この年のセの首位打者は篠塚と正田)。また、この年にルー・ゲーリッグの連続試合出場記録を超えた衣笠祥雄は既に今シーズン限りでの現役引退を表明しており、試合成立の五回終了時にジャイアンツから花束が贈られることになっていた。
試合はジャイアンツの先発、西本聖が乱調で初回に山崎隆造に先制本塁打を浴びたのを皮切りに衣笠にも2ランを浴びるなど、四回途中でKO。衣笠に浴びた一発は武士の情けのような感じもあったが、この年、球界全体で衣笠の記録更新を後押ししていたような空気が漂っていた中、西本は敢然とシュート攻めをした数少ない投手だったので敗戦処理。は責める気にはならなかった。ただ心配なのは目前に迫った日本シリーズでの先発登板が大丈夫なのかという疑問だけだ。
ジャイアンツは西本KOの後、角三男が四回の攻撃を抑えると、五回には江川卓、六回には桑田真澄、八回には鹿取義隆、九回にはルイス・サンチェと日本シリーズを見据えた調整登板を敢行。江川以降は無失点で敗戦処理。を安心させた。
ただ、打線はカープ投手陣の前に沈黙した。前述の篠塚を初め、吉村禎章、中畑清、原辰徳、ウォーレン・クロマティとプロ野球史上二度目となる五人の三割打者を並べた打線が白武と川端順の前に沈黙。特に川端は桑田とセの防御率一位を争っていたので援護したかったが逆に差を縮められた。
初回のクロマティの犠飛と四回の吉村の自身初の本塁打30本の大台に乗る30号ソロの2点に終わった。ただこの吉村の一発は後楽園球場最後の公式戦という郷愁ムードに観客だけでなく、審判員、両軍選手ともさいなまれてしまったのか、カウント2ストライク4ボールからの一発であった。かくいう敗戦処理。も見落としていたのだが、本来なら四球となるカウントで球審がフルカウントと勘違いし、吉村も気付かず。カープの阿南準郎監督は「7球目で四球だと知っていたが、(コールがないので)もうけたと思って何も言わなかった」そうだが、結果として裏目になった。
余談だが当時順風満帆に思えていた吉村だが、この翌年に札幌円山球場でのドラゴンズ戦で守備で打球を追って同僚の栄村忠広と激突。選手生命も危ぶまれる大怪我をしてしまい、復帰後はフル出場が叶わなかった。復帰後も代打などで活躍し、もちろん本塁打も放っていたがレギュラーとしてフルに活躍したのはこの年が最後。幸運<!?>の一打で野球人生ただ一度の30発の大台となった。
あまり知られなかったが、この年の吉村はプライベートでスキャンダルを起こし、一部のメディアから暴露されるなど、少なくとも「行いの良い」年ではなかったが、何故か強運だった。
もっとも、変なところで運を使ってしまったからかは定かでないが日本シリーズではライオンズに2勝4敗で敗れた。クロマティと川相昌弘の緩慢な中継プレーの隙を突く辻発彦の「伝説の好走塁」とシリーズ制覇直前の清原和博の涙が印象的なあの年だ。
ジャイアンツは2対5で敗れた。カープに負け越し、完全優勝を逃した。
【1987年10月18日・後楽園】
C 302 000 000 =5
F 100 100 000 =2
C)○白武、S川端-達川
G)●西本、角、江川、桑田、鹿取、サンチェ-山倉、有田
本塁打)山崎12号(西本・1回)、衣笠16号2ラン(西本・1回)、小早川24号2ラン(西本・3回)、吉村30号(白武・4回)
当時の後楽園球場ではブルペンが両翼のフェアとファウルの境のフェンスの奥にあり、投手交代が告げられると、フェンスが開き、リリーフカーに乗ってリリーフ投手が出てきた。今の横浜スタジアムに近いイメージだ。五回表のカープの攻撃が始まる時、リリーフカーがブルペンから出てくると、まず背番号で識別できるライトスタンドのジャイアンツファンからどよめきが起き、やがてスタンド全体を覆うようにどよめきが大きくなり、それに呼応するかのように場内アナウンスで「……に代わりまして、ピッチャー江川」とのコールが響き、大歓声が起きた。普段滅多なことではリリーフ登板をしない江川の登場にファンが大喜びするという構図。
敗戦処理。はこの二年前にも江川がリリーフ登板する試合を生で観た。八回裏に同点に追いついたジャイアンツが九回表のマウンドに江川を送ったのだった。その試合はこの日のような消化試合的なものではなかったので球場全体の空気が変わったのを肌で感じたが、この日の江川登板もそれに近いものがあった。そして結果的にこの登板が江川にとっての公式戦最後の登板になった。江川が日本シリーズ終了後に現役引退を表明したからだ。
この年の江川は先発ローテーション投手の一人として13勝を挙げていたから、まさかこの時点ではこれが江川の最後のマウンドになると予感したものはいなかっただろう。
江川の現役引退はあの入団時ほどではなかったがちょっとした騒ぎになった。だがその最後の登板はボールカウントを間違えても気付かないような、今でいうまったりとした試合の中での静かなマウンドだった。
振り返れば、いろいろな意味で観ておいてよかった試合だと思った。
【参考資料】
読売新聞縮刷版昭和62年10月(読売新聞社刊)
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