東京ドームこけら落としの記念トーナメントで起きたとてつもない快挙-【回想】敗戦処理。生観戦録-第15回 1988年(昭和63年)編
これまで当blogで毎月2日に交互に掲載していた 敗戦処理。が生観戦した野球場が53ケ所の観戦球場を出し尽くしたので当面 敗戦処理。が生観戦したプロ野球- my only one game of each year 主体にいくことにし、また新たに初めての球場で観戦したら臨機応変にはさむようにします。
1974年(昭和49年)に初めてプロ野球を生観戦した敗戦処理。はその後毎年、途切れることなく数試合から十数試合を生観戦しています。そこで一年単位にその年の生観戦で最も印象に残っている試合を選び出し、その試合の感想をあらためて書いていきたいと思います。年齢不詳の敗戦処理。ですが同年代の日本の野球ファンの方に「そういえば、あんな試合があったな」と懐かしんでもらえれば幸いです。
(写真:東京ドーム開場記念のプロ野球トーナメントのオフィシャルプログラム。「ファン手帳」にトーナメントの日程表などが加えられた特別編集版)
【回想】敗戦処理。生観戦録- my only one game of each year第15回 1988年(昭和63年)編
前回1987年(昭和62年)編では後楽園球場最後の公式戦について触れたが、今回はその後楽園球場に代わってジャイアンツとファイターズの新しい本拠地となった日本初の屋内球場、東京ドームでの初観戦を振り返る。
何しろ日本で初めてのドーム球場である。「野球そのものが変わる」というイメージが増幅された。今でこそ東京ドームは本塁打が出易い球場とされ、左中間、右中間の膨らみが乏しいためにどちらかというと「狭い球場」という印象を持たれがちだが、旧後楽園球場も狭い球場だったため、「東京ドームになったら原辰徳や吉村禎章らの本塁打が激減するのではないか?」などとジャイアンツファンの間では不安な声が挙がったほか、既に当時浸透していたトランペットなどの鳴り物応援が屋内球場である東京ドームでは出来なくなるのではなどとの不安も挙げられた。応援に関しては当時、正力亨オーナーが「応援は今まで通りに出来るような設備になっていると聞いている」と発言し、ファンを安心させた。
資料によると、日本初のドーム球場、東京ドームの概要は以下の通り。
敷地面積112,435平方メートル(日本武道館の13倍)、建築面積は46,755平方メートル(旧後楽園球場の1.5倍)。両翼100メートル、中堅122メートル(ファイターズのファームの本拠地、鎌ヶ谷のファイターズスタジアムと同じ)、屋根の高さ61.99メートル。建設に携わった延べ人員50万人、総費用600億円。わかりやすく言えば、大きさは東京ドーム1個分。 ちなみに5月26日放送のテレビ朝日系「シルシルミシル」によると、東京ドームシティの1ヶ月の電気代は約1億円。消費税だけで500万円にも上る。同番組で電力会社からの請求書がモザイクなしで映されていた!
なお設立から2003年まではジャイアンツのみならずファイターズも本拠地として利用していた。基本的に日程はジャイアンツ優先で組まれていたが、ジャイアンツにしろファイターズにしろ(間にロードゲームを挟むこともあり)六連戦が最長だったが、人気アイドルグループKAT-TUNが昨年、八日間連続してコンサートを開演。記録を更新した。西岡剛の姿が目撃されている。
当時はその存在そのものが画期的だったこともあり、野球界だけでなく社会的な話題となった。今にして振り返ればすごいと思うのは、今ならドーム球場内では禁煙(もっともほとんどの球場では最近では分煙でごく限られたスペースでしか喫煙できないが)というのは当たり前だが、「日本初のドーム球場」関連ニュースが多くのメディアで報じられるなかで、「ドームの中は禁煙」ということが完成、稼働前に一般のファンの前に広く浸透していたことだ。
そんな東京ドームだが、まず出来たての3月18日、ジャイアンツ対タイガースのオープン戦でスタート。前シーズン限りで現役を引退した江川卓の引退セレモニーを兼ねた試合で江川が始球式のマウンドに立ち、現役時代のライバルだった掛布雅之が打席に立ち、江川が山鳴りのボールを投げ、掛布が型どおりに空振りした。江川がこの「最後の一球」であり(東京ドームにとっての)「最初の一球」のために再び右肩の禁断の部分に針治療を施すかどうか注目されたが、結果はとても前年までローテーション投手だったとは思えないよろよろ球だった。その後、プロボクシング世界ヘビー級タイトルマッチ、マイク・タイソン対トニー・タッブス戦などを経てプロ野球公式戦開幕を前に十二球団によるトーナメント大会が東京ドームで行われた。(ちなみに美空ひばりの復活コンサートが東京ドームで行われたのは4月11日)
十二球団で行ったのはもちろんジャイアンツだけでなくファイターズも新しい東京ドームを本拠地にしたため、十二球団すべてが日本初のドーム球場に慣れておく必要があったからだ。冒頭の写真は当時の選手名鑑の定番、ファン手帳社が発行していたファン手帳にトーナメントの日程表などを加えた特別編集版だ。トーナメントのスポンサーにはサッポロビールがなっている。
時あたかもビール各社による「ドライ戦争」が熾烈を極める時期だった。アサヒビールが発売した「アサヒスーパードライ」が大成功したため、各社が追従した時期だ。アサヒビールはジャーナリストの落合信彦を起用したCMをテレビで大量に露出していたが、サッポロビールは吉田拓郎をイメージキャラクターに起用した。このプログラムのど真ん中のページにも吉田拓郎出演の広告が掲載されている。サッポロビールでは別途、「いかにもドライそのもの」という理由で人選された広岡達朗のCMも話題になった。ちなみにキリンビールはジーン・ハックマンを起用し、CMソングは鈴木雅之が歌い、タイトルは「Dry・Dry」 そのまんまだった。サントリーはマイク・タイソンを起用した。
公式戦になったらチケット入手が容易でないことは想像できたため、敗戦処理。はこのトーナメントで東京ドーム初体験を果たそうと考えていた。仕事が休みになる4月2日の土曜日に準決勝が組まれていたのでその試合の前売りを購入した。
準決勝に駒を進めたのはライオンズ、カープ、そして東京ドームを本拠地とするジャイアンツとファイターズ。第一試合のカープ対ライオンズ戦でタイトルの通り、とてつもないことが起きた。
ライオンズ
(三)石毛宏典
(右)平野謙
(中)秋山幸二
(一)清原和博
(左)安部理
(捕)伊東勤
(遊)田辺徳雄
(二)辻発彦
(投)郭泰源
カープ
(右)山崎隆造
(二)正田耕三
(遊)高橋慶彦
(一)小早川毅彦
(左)ランス
(中)長島清幸
(三)ジョンソン
(捕)達川光男
(投)北別府学
非公式戦とはいえ、公式戦開幕間近の時期にライオンズの郭泰源がカープを相手にノーヒットノーランを達成したのである!敗戦処理。の37年にわたる野球生観戦の中でも唯一のノーヒットノーランである。
郭は1985年に公式戦でファイターズを相手にノーヒットノーランを達成していた。ライオンズの強力投手陣の一角を担い、絶好調だと相手は手も足も出ないという印象があったが、この試合では時に四球を出すなど、手も足も出ないという圧倒的な感じとは異なり丁寧に投げていた感じだった。
九回127球、31人の打者に対し、奪三振こそ1つだったが、内野ゴロ10、内野飛球4(邪飛2を含む)、外野飛球10。四死球で出した6人の走者のうち、盗塁を試みた2人の走者を盗塁死にしたのも大きかった。終盤になるにつれ、スタンドの空気が重苦しくなるのを感じた。
一番の正田耕三から始まる最終回には二死を取った後、三番の高橋慶彦に三打席連続の四球を与えた時にはフルカウントからの微妙な投球が「ボール」と判定されると場内がざわついたが続く四番・小早川毅彦を真正面の投ゴロに仕留めると大歓声がわき起きた。記念のトーナメント大会での快挙に、試合終了後、直ちに郭に特別賞の50万円が贈られることが発表され、再びドームが沸いた。日本初の屋内球場での敗戦処理。にとっても初の生観戦でどんな野球を観られるか楽しみだったが、意外にも郭のノーヒット・ノーランという展開。カープの北別府学も好投し、見事な投手戦の様相だった。
続く第二試合のファイターズ対ジャイアンツ戦でも本塁打が出ず、「やっぱりドームでは簡単にはホームランは出ないな」との印象を持った。
【1988年4月2日・東京ドーム】
L 010 100 000 =2
C 000 000 000 =0
L)○郭-伊東
C)●北別府、紀藤、津田-達川
本塁打)両軍ともなし
なお、この日の準決勝第二試合ではジャイアンツがファイターズを7対1で下し、翌3日の決勝戦はジャイアンツが4対0でライオンズを下して優勝を決め、優勝賞金700万円を獲得。シーズンに弾みを付けた。大会MVPは郭ではなく、打率.417、4打点、勝利打点2のジャイアンツのウォーレン・クロマティで賞金300万円を獲得した。ちなみに郭は敢闘賞200万円を獲得した。決勝で敗れたライオンズの森祇晶監督は「まぁ、巨人のための大会のようだものね」と皮肉たっぷりのコメントを残した。
それもそのはずだ。通常なら公式戦開幕を一週間後に備えたこの時期は各球団にとって最後の実戦調整の時期。それがトーナメント大会開催となれば、負けたチームはそこで終わりなのである。そこで負けたチーム同士で急遽練習試合が組まれることが多くなり、この日の東京ドームでも正規の準決勝二試合終了後にホエールズ対ブレーブスの練習試合が組まれた。
トーナメントを観た観客はそのまま観戦出来る。一応全席自由という形に変わった。審判員も三人体制(当時は線審を含む六人体制)の非公式試合。佐藤義則と大門和彦の先発で行われた試合ではブレーブスが0対3と3点のビハインドで迎えた四回表、ようやくお目当てのものを観ることが出来た。ブレーブス打線の主軸、ブーマー・ウエルズ、石嶺和彦が東京ドームのレフトスタンドに豪快なアーチを連続した。準決勝第二試合のファイターズ対ジャイアンツ戦の八回表にジャイアンツの鴻野淳基がレフトに放った大飛球が前年までの後楽園球場の感覚ではスタンドインという感じだったのにフェンス際で捕球され、なかなかホームランが出にくいと感じさせたがブーマー、石嶺の連発には「ホームランバッターが芯で捕らえれば、広くなったドームでも本塁打は出る」とファンを安心させた。さすがにこの時「空調が…」などと思ったものはいなかっただろう。
そしてドームでのこの日初の本塁打も出たとあって、トーナメント終了後に激減していたスタンドからこの回のブレーブス攻撃終了後にさらに客足が減り始めた。と、思ったらブレーブスはこんな審判員が三人しかいない練習試合に山田久志を登板させた。帰ろうとドームの観客席の通路の階段を上がっていったファンが急に戻り始めたのが印象的だった。山田は2イニングを無失点に抑え、パラパラのスタンドを感動させた。一日の勤務時間以上も長く東京ドームに滞在した敗戦処理。だったが最後にいいものを観させてもらった。
だが、敗戦処理。にとってこれが生で観た「阪急ブレーブス」の最後であったし、山田や福本豊の現役としての姿もこの時が結果的に最後になった。
【参考資料】
1988年4月3日付報知新聞
サッポロビールプロ野球トーナメントオフィシャルプログラム(ファン手帳社刊)
プロ野球70年史 歴史編(ベースボール・マガジン社刊)
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