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2010年6月 9日 (水)

仁志敏久が引退を表明。

Photo ジャイアンツとベイスターズでプレーし、今季はアメリカ独立リーグのランカスタレーでプレーしていた仁志敏久が現役引退を表明した。痛めていた右太ももが悪化。完治までに要する時間などを考え決断したようだ。

奇しくも本日(9日)発売の週刊ベースボール6月21日号(ベースボール・マガジン社刊)CULTURAL REVIEW では仁志の著書「反骨」(双葉社刊)が取り上げられているがまさに反骨魂そのものの野球人生だったように思えた、昔気質の職人がまた一人ユニフォームを脱ぐ。

(写真:ジャイアンツ時代の仁志。自ら最強だったと振り返る2000年撮影)

また一人、敗戦処理。好みの選手が一人ユニフォームを脱いだ。

昨シーズン、ベイスターズから戦力外通告を受け、戦いの場をアメリカ球界に求めていた仁志がたどり着いた先はアメリカ独立アトランティック・リーグだったが一シーズン終えずに引退となった。

アマチュア選手だけで出た最後の五輪となったアトランタ五輪出場の夢を捨て、逆指名でジャイアンツを選んだ仁志は当時の長嶋茂雄監督の構想で一年目から一番打者に抜擢され、従来の一番打者像とは異なる、積極的な好球必打の一番打者として頭角を現した。一年目からレギュラーのポジションをつかんだ。打撃もさることながら、打者の打球を予測し得るかのようなポジショニングなど堅実な二塁守備で長くジャイアンツのセンターラインを支えた。

ところが長嶋監督から原辰徳監督に代わると、歯に衣を着せぬ一部発言が監督に疎んじられたのか、徐々に歯車が狂ってくる。二年間の原ジャイアンツでは不成績に終わるも、次の堀内恒夫監督から再びキーマンと指名され復活を果たすが、再び原監督が返り咲いた2006年、自らの不振もあって出番が激減。ファーム暮らしが長くなった。

仁志は自らフロントに移籍を直訴し、とても釣り合うとは思えない小田嶋正邦との1対1の交換トレードでベイスターズに移籍した。結局ジャイアンツで11年、ベイスターズで3年プレーした。

仁志は前出の「反骨」では長嶋監督だけでなく、原監督のすばらしさにも触れているが原監督時代には自らの野球観と折り合いのつかない部分をつい親しい記者に愚痴ったりしてしまい、それが伝言ゲームのように他のメディアに流れて問題発言として表に出たようだった。

原監督一年目の2002年、シーズン全体を見ればジャイアンツが圧勝した年の様だったが、松井秀喜を除く主力選手が前後して故障で戦列を離れたりするシーズンだった。619日の横浜スタジアムでの対ベイスターズ戦。3対3で迎えた十一回表、ジャイアンツは無死一塁で投手の岡島秀樹の打順。ここで原監督は代打に桑田真澄を送った。野手を使い果たした訳ではなかったが、残っていたのが最後の捕手だったとか、足を痛めていた清原和博など帯に短したすきに長しのような感じで、原監督は代打に桑田を選んだ。桑田は送りバントと見せかけてバスターを決めて安打を放ち、無死一、二塁とチャンスを拡げた。一塁に出た桑田に代走鈴木尚広が送られた。この後、送りバントと敬遠策で一死満塁となって途中出場の仁志が決勝タイムリーを放つのだが、仁志は公式なヒーローインタビューなどとは別の場所で原監督の采配を批判したらしい。まだベンチに野手がいたのに、投手を代打に送られて野手のプライドやモチベーションを考えているのか?というのが仁志の言い分だったようだ。敗戦処理。も個人的には当時仁志と同じ感覚だった。

原監督はその試合に関して自著「選手たちを動かした勇気の手紙」(幻冬舎刊)で振り返っている。やはり投手を代打に起用したということが引っかかっていたようで翌朝、スポーツ新聞が気になったという。しかし原監督が気にしていたのは仁志が指摘したような懸念事項ではなく、相手のベイスターズ森祇晶監督に失礼だったのではないかと考えたようで、森監督のコメントを確認したかったのだ。同書のこの部分を読んで、敗戦処理。は「この人、どこかおかしい」と原監督に疑問を持ち始めたきっかけとなった。

意見、考え方としては仁志に同調できるが、組織論として考えて仁志が影で監督を批判するということは許されることではない。原監督と仁志の間に溝が出来たとしても不思議ではない。その点では敗戦処理。は仁志を擁護するつもりはない。もちろん原監督の考え方を正当化するつもりもない。読売グループの人事異動で監督の座から外されることになる2003年シーズンや、再び人事異動で復職した2006年以降も、時々選手のプライドとかをい考えず、使い捨てのごとく選手をとっかえひっかえする原監督に敗戦処理。は批判し続けている。

堀内監督時代に復活の兆しを見せた仁志にとって原監督の復帰は皮肉だったろう。2006年には故障ではなく成績不振で二軍落ちも経験した。今年4月に亡くなられた木村拓也コーチがシーズン途中に移籍してきたのもこの2006年だった。

仁志が二軍選手として出場した2006年8月26日のファイターズ戦。袖ヶ浦市営球場という地方球場でのナイトゲームだった。一軍で実績のある選手がファームで調整する場合、遠征などには同行せず調整するケースもよく見られるが、仁志は同行していた。この試合、一塁走者の仁志は捕手へのファウルフライの間に二塁へタッチアップを試みた。地方球場故に照明がやや暗く、捕手が一瞬打球を見失い、慌ててスライディングキャッチしたので捕球で精一杯だった。その一瞬の隙を突いて仁志は一塁から二塁に走ったのである。見事な好走塁だと思ったが、ボールデッドだったという見解で無効で戻された。当時の吉村禎章二軍監督が猛抗議したが判定は覆らなかった。スタンドで観ていた敗戦処理。には審判団のタイムのポーズは気づけなかった。

自らに対する処遇に不満を持ちつつも、試合では全力でプレーする仁志。しかも地方球場での二軍の試合である。仁志が他球団に行くことがあっても、そこで戦力になると敗戦処理。はその時思った。

こういう仁志敏久という野球人を敗戦処理。は大好きである。

もう一つの仁志らしい<!?>エピソードを挙げておこう。大のタイガースファンで「アンチ讀賣」な友人が仁志に惚れたシーン。

2001年のタイガースの甲子園最終戦で相手はジャイアンツ。その年限りで現役を引退する和田豊のセレモニーが予定されており、和田はスタメン出場。一回裏の和田の打席の際、仁志がさりげなく二塁ベースよりに守備位置を変えたのをその友人は見逃さなかった。和田といえば、芸術的とも言える一、二塁間を狙い澄ましたように破る打撃が真骨頂。仁志は和田に花を持たせるために、敢えて和田のヒットゾーンを広めたのだろう。仁志の男気に、滅多なことではジャイアンツやジャイアンツの選手を誉めないその友人が試合後、感激して敗戦処理。にメールを送ってきた。

仁志はこれから先、どうするのであろう?

9日付け日刊スポーツでは「しばらくは野球界とは離れて、今までできなかった事をやりたい」と語っている。別の報道では「野球アカデミー」のようなものを設立したい意向をもっているというのもあった。

仁志と同じく、出場機会の現象で自ら移籍を志願した清水崇行はライオンズで現役を引退した後、系列の日本テレビの解説者に迎えられたが仁志は難しいような気がする。そもそも仁志がそれを望んでいるとも思えないが(原監督采配について、という意味でなく)独特の野球観に裏付けられた解説を聞きたい気もするが。

ところで仁志は前出の「反骨」で2000年のシーズンが最強だったと振り返っている。冒頭の写真はその2000年の日本シリーズ第一戦のものだ。「ON対決」と謳われた、王貞治監督率いるホークスとの一騎打ちだ。しかしその最強だったジャイアンツのナインの現役晩年は決して恵まれていないことに気付いた。この試合のスターティングメンバーを記しておく。

()仁志敏久 格下と思われる小田嶋とのトレードでYBへ。

()清水隆行 Lへ金銭トレード

()高橋由伸 ようやく復調の兆し見せるも、近年ケガばっかり

()松井秀喜 FAで堂々と移籍だが会見では「裏切り者と…」と卑下

()清原和博 その後故障続きで厄介払いのような形で自由契約。

()江藤智  豊田清FA獲得時に人的補償でLへ。

()二岡智宏 不倫騒動などで懲罰的にFにトレード

()村田義則 この時点では次期正捕手候補だったが阿部入団で押しやられる

()工藤公康 門倉健FA獲得時に人的補償でYBへ。

00年代に入って一時期ジャイアンツが低迷、というか迷走するがそれを象徴するかのような「最強」戦士達の末路である。仁志や清原和博に関しては自業自得という人もいるだろうが、彼らの犠牲が教訓となって近年の補強と育成のバランスを考えたチーム作りにつながっていると思う。いつか、何らかの立場で仁志がジャイアンツのユニフォームを着る日が来ることを待ちたい。

ご苦労さん、仁志敏久。

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