平成第1号の本塁打を放ったのはこの人-【回想】敗戦処理。生観戦録-第16回 1989年(平成元年)編
これまで当blogで毎月2日に交互に掲載していた 敗戦処理。が生観戦した野球場が53ケ所の観戦球場を出し尽くしたので当面 敗戦処理。が生観戦したプロ野球- my only one game of each year 主体にいくことにし、また新たに初めての球場で観戦したら臨機応変にはさむようにします。
1974年(昭和49年)に初めてプロ野球を生観戦した敗戦処理。はその後毎年、途切れることなく数試合から十数試合を生観戦しています。そこで一年単位にその年の生観戦で最も印象に残っている試合を選び出し、その試合の感想をあらためて書いていきたいと思います。年齢不詳の敗戦処理。ですが同年代の日本の野球ファンの方に「そういえば、あんな試合があったな」と懐かしんでもらえれば幸いです。
【回想】敗戦処理。生観戦録- my only one game of each year第16回 1989年(平成元年)編
1989年(平成元年)の生観戦で最も印象に残っているのは4月8日に行われたこの年の公式戦開幕戦、ジャイアンツ対スワローズ戦を東京ドームで生観戦したことだ。
前回1988年(昭和63年)編では東京ドーム元年の初観戦に触れたが、この年はとにかくチケットが入手しづらく、東京ドームでのジャイアンツ戦はその後一試合を観戦するにとどまった。ドーム二年目のこの年も、いぜん「プラチナペーパー」であることに変わりはなく、そうでなくても競争率が確実に高い開幕戦のチケットなど手に入る訳はない-と敗戦処理。は勝手に決め込んでいた。記憶では開幕戦の前売り開始日は平日(金曜日)。当時はチケットぴあなどでの取り扱いはなく、球場や一部のプレイガイドでの発売のみだった。まだインターネットなどなかった時代だが、前売り開始初日には電話回線がパンクすることが必至でチケットぴあらは取り扱いを出来ないとの報道もあったと思う。
当時もうサラリーマンになっていて外回りをしていた敗戦処理。は開幕戦の前売り開始日に仕事で夕方に渋谷に立ち寄った。今は無き、東急文化会館の1階にプレイガイドがあり、ジャイアンツの東京ドームでの主催試合を扱っていたのでダメ元でのぞいてみた。
さすが、ジャイアンツの開幕カードだけは見事に売り切れている。前年限りで王貞治監督が退任し、再び藤田元司監督が返り咲いたが、人気低迷が囁かれていたジャイアンツであったがドームバブルは二年目も健在で前売り初日に sold out と思ったら、実は違った。
ジャイアンツの開幕カードのみ別コーナーに置いてあり、さすがにホームの一塁側、ライト側こそ残っていなかったが三塁側内野席の結構近い席が残っていたので敗戦処理。はためらわずに購入した。うれしさ半分、むなしさ半分だったことを今も記憶している。
スワローズ
(中)栗山英樹
(二)桜井伸一
(遊)池山隆寛
(一)パリッシュ
(右)広沢克己
(左)杉浦享
(捕)秦真司
(三)長嶋一茂
(投)尾花高夫
ジャイアンツ
(三)中畑清
(遊)勝呂博憲
(二)篠塚利夫
(左)原辰徳
(中)クロマティ
(一)岡崎郁
(右)駒田徳広
(捕)中尾孝義
(投)桑田真澄
両足に故障の不安を抱える主砲の原辰徳を外野にコンバートした藤田監督。前年に吉村禎章が選手生命も危ぶまれる大怪我をして外野のポジションが空いたと言うこともあったようだ。そして原が守っていた三塁には選手生命の晩年にさしかかっていた中畑清を一塁から再コンバートして刺激剤とし、勝呂博憲、川相昌弘らとのショートのポジション争いに敗れた岡崎郁を一塁に、駒田徳広をライトに回す布陣だ。そして前回の藤田政権で江川卓と並ぶエース格として君臨した西本聖をドラゴンズの中尾孝義と交換トレードした(他にジャイアンツから加茂川重治も加えて2対1のトレード)。中尾は山倉和博に変わり、開幕正捕手の座を射止めた。
西本は王前監督時代に投手コーチともめたりし、そのことがマスコミで取り上げられるようになるとコーチ批判などもしていたようだったが、藤田監督の復帰で気分一新で野球に専念するところであった。しかし藤田監督は選手の首脳陣批判を特に許さないタイプで西本放出で他の選手にも厳しさを植え付けたのではないかと当時言われた。
先般亡くなられた、当時の鈴木俊一都知事の始球式で午後1時に試合開始した開幕戦は一回裏から動いた。走者一人を置いて四番、原がレフトスタンドに高々と2ラン。スワローズのエース、尾花高夫の出鼻をくじいた。原は三回裏の第二打席でも連続本塁打を放ち、変身原をアピール。この回は岡崎のタイムリーもあって4対1とリードを拡げた。
この日は両リーグ同時開幕。6試合の内、5試合がデーゲーム開催だったが、東京ドームの午後1時試合開始は一番早かった。そして原の第一打席の本塁打は平成元年のプロ野球第1号であり、したがって平成新時代の第1号でもあった。
尾花は四回までに被安打9という乱調で、五回表の打席で代打を送られた。当時のスワローズにおける尾花は同僚投手から抜きんでたエース。ジャイアンツファンとしては尾花をマウンドから降ろすことは勝利とほぼ同義語だ。敗戦処理。も一緒に観戦した仲間と祝杯を始めた。
結局桑田は中尾とのコンビネーションも良く、完投してソロ本塁打2本による2失点のみで6対2と快勝した。
【8日・東京ドーム】
S 010 001 000 =2
G 202 000 02× =6
S)●尾花、谷、宮本、加藤、岡-秦
G)○桑田-中尾
本塁打)原1号2ラン(尾花・1回)、杉浦1号(桑田・2回)、原2号(尾花・3回)、池山1号(桑田・6回)
ジャイアンツ打線は尾花KO後に登板したリリーフ陣を打ちあぐんでいたが八回裏に駒田のタイムリーで2点を追加。ここでスワローズも半ば諦めたのか、五番手には高校卒ルーキーの岡幸俊を送った。
原は翌9日の同カード第二戦でも1対3とビハインドの八回裏に同点2ランを放ち、勝利に貢献。もの凄いインパクトの開幕だった。最初の五試合で5本の本塁打を固め打ちしたほどだった。しかしその五試合目の試合で中畑が走塁中に負傷退場。いつしか岡崎が三塁に、駒田が一塁に戻った。原もいつの間にか例年どおりの成績に落ち着いていったが、ウォーレン・クロマティが長く打率四割台で打ちまくり、年間の規定打席数に到達した時点でもまだ四割を打っていた。一部ではこの年限りでの現役引退を示唆していたともされるクロマティが、その時点で欠場していたら日本プロ野球初の四割打者となっていたのだが当然そんなことはせず、リーグ優勝に向けて打線を引っ張り続けた。最終的に打率は.378になったが、文句なしのMVPだった。
ただ、傍から見ると文句なしのMVP選出と思えても、クロマティ本人は日本人選手である斎藤雅樹が日本記録になる11試合連続完投勝利を含む20勝を挙げていたため自分がMVPに選ばれるとは期待していなかったという。王前監督時代には中継ぎの便利屋的に使われていた斎藤の適性を藤田監督が見抜き、先発に転向し、なおかつ責任を持たせる意味で少々の事ではマウンドから降ろさなかったのが結果として斎藤の開花に結びついた。
この年のジャイアンツはリーグ優勝を果たし、旧バファローズ(Bu)との日本シリーズでも三連敗から四連勝し、日本一を達成。藤田監督は長嶋茂雄監督退任の翌年に続き、王監督退任の翌年にもチームを日本一に導き、名監督と賞賛されるようになった。そんなジャイアンツにとって万々歳の一年の最初の試合を生で観ることが出来たのは僥倖だった。
なお、この日の東京ドームでは夜にはファイターズ対ホークスの開幕戦が行われた。敗戦処理。は生観戦しなかったが、西崎幸広と山内孝徳の真っ向勝負となり、ルーキーの中島輝士がサヨナラ2ランを放った。テルシーはもっと活躍すると思ったのになぁ。
蛇足ながらそのファイターズ対ホークス開幕戦のスターティングメンバーを列記する。懐かしんでいただきたい。
ホークス
(中)佐々木誠
(遊)小川史
(二)バナザード
(一)アップショー
(右)山本和範
(左)岸川勝也
(指)若井基安
(捕)吉田博之
(三)坂口千仙
(投)山内孝徳
ファイターズ
(中)鈴木慶裕
(二)白井一幸
(指)イースラー
(左)ブリューワ
(一)大島康徳
(遊)田中幸雄
(右)中島輝士
(捕)田村藤夫
(三)古屋英夫
(投)西崎幸広
P.S.
なお、今回は平成新時代の第1号本塁打が出た試合を書いたが、次回は1990年代第1号本塁打の試合を取り上げる。
【参考資料】
読売新聞縮刷版1989年4月
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