1990年代第1号の本塁打を放ったのはまさに当時最強チームのこの男-【回想】敗戦処理。生観戦録-第17回 1990年(平成2年)編
これまで当blogで毎月2日に交互に掲載していた 敗戦処理。が生観戦した野球場が54ケ所の観戦球場を出し尽くしたので当面 敗戦処理。が生観戦したプロ野球- my only one game of each year 主体にいくことにし、また新たに初めての球場で観戦したら臨機応変にはさむようにします。
1974年(昭和49年)に初めてプロ野球を生観戦した敗戦処理。はその後毎年、途切れることなく数試合から十数試合を生観戦しています。そこで一年単位にその年の生観戦で最も印象に残っている試合を選び出し、その試合の感想をあらためて書いていきたいと思います。年齢不詳の敗戦処理。ですが同年代の日本の野球ファンの方に「そういえば、あんな試合があったな」と懐かしんでもらえれば幸いです。
(写真:1990年の開幕戦を飾った「トレンディー・エース対決」。上が渡辺久信。下が西崎幸広)
【回想】敗戦処理。生観戦録- my only one game of each year第17回 1990年(平成2年)編
前回1989年(平成元年)編では開幕戦を生観戦したが故にその年の球界全体の第1号を目撃することが出来、それが平成新時代の第1号だったことにふれたが、翌1990年も開幕戦を生観戦した結果、1990年代の第1号本塁打を目撃することになった。
この年も両リーグ同時開幕となった(この当時はそれが当たり前だった。)4月7日、敗戦処理。はライオンズ対ファイターズの開幕戦を西武ライオンズ球場で生観戦した。もちろんこの時代はライオンズ球場はまだドームにはなっていない。
ライオンズはこの前年こそ旧バファローズ(Bu)と旧ブレーブスとの大激戦に僅差で敗れリーグ優勝を逃したがその前年までリーグ四連覇。実質的にリーグ最強チームであることは間違いなく、その年も優勝していればジャイアンツのV9に近づくのではとも言われていたほどだ。優勝を逃した森祇晶監督は堤義明オーナーへの報告の席上で「やりたいのならどうぞ」と屈辱的な言葉を受けながらも、チーム再建の道を選んだ。それだけにV奪回へのチーム全体の気持ちの高まりが並々ならぬものであることは容易に想像できた。
一方のファイターズは近藤貞雄監督の二年目。セ・リーグのドラゴンズ、ホエールズでの監督歴を終え、年齢も六十代に入っていたためユニフォームは卒業で評論家としての活動に専念するつもりだったそうだが、日本初のドーム球場を本拠地に持つチームから監督に招聘され、ユニフォーム復帰を決意した。
監督就任時には当時の年齢63歳にちなみ、背番号を63とし、毎年、年齢とともに背番号も一つずつ大きくするというプランを披露していたが二年目のこの年も背番号は63のままだった。余談だが日本初のドーム球場を本拠地に持つもう一つの球団でも1988年の王貞治監督退任の後任候補に挙がったという。近藤本人が生前語っていたところによると、正式オファーはなかったそうだが。一応近藤監督はジャイアンツOBであり、74人いる「巨人軍歴代四番打者」の一人(第12代。2試合)。
両チームの栄えある開幕投手はライオンズが初の大役となる渡辺久信で、ファイターズは入団二年目から三年連続となる西崎幸広。今のダルビッシュ有同様、他に誰がいるの?というくらいの大本命。
渡辺久はもちろん前年の活躍の実績を買われての大抜擢であったが前年の優勝争いの最後の修羅場となったバファローズとのダブルヘッダー第一試合で、既にその試合で2本の本塁打を放っていたラルフ・ブライアント相手にワンポイントリリーフしたものの決勝本塁打を浴びて一球の怖さが身にしみ、成長が見込まれていた。
ファイターズ
(中)鈴木慶裕
(右)島田誠
(左)ブリューワ
(指)ウインタース
(一)大島康徳
(三)中島輝士
(遊)田中幸雄
(捕)田村藤夫
(二)白井一幸
(投)西崎幸広
ライオンズ
(二)辻発彦
(右)平野謙
(中)秋山幸二
(一)清原和博
(指)デストラーデ
(三)石毛宏典
(左)吉竹春樹
(捕)伊東勤
(遊)田辺徳雄
(投)渡辺久信
余談だが渡辺久は2008年にライオンズの監督に就任して、グラウンドで評論家・西崎幸広から取材を受けると、たまたま近くを通った若手選手を呼び止め、「俺と西崎さんはな、球界を代表するいい男でな、投げ合う時は『トレンディー・エース対決』なんて呼ばれたんだ。今で言うイケメンだ」と自慢話をしたという。
前回の平成第1号のまさに再現だった。ライオンズの主砲、清原和博がファイターズのエース、西崎幸広との第一打席の対決でいきなりレフトポール際に打ち込んだのだ。
(写真:1990年代第1号は大本命の清原和博!豪快にはじき返し、打球の行き先を見つめる清原)清原は前年のジャイアンツ、原辰徳同様に二打席目も連発。
二回り目は清原に続いてオレステス・デストラーデも打った瞬間にわかる特大のアーチを描き、西崎はめった打ちという感じだった。
その後七回裏には秋山幸二も西崎からソロ本塁打を放っており、AKB48ならぬAKD砲が開幕からそろい踏みを果たしたのである。
西崎はこの七回までで降板。八回裏にはドラフト1位ルーキー(野茂英雄の外れ1位)酒井光次郎が登板するがダメ押しの1点を加えられ、ファイターズは2対6で完敗した。
【7日・西武ライオンズ球場】
F 000 100 010 =2
L 202 000 11× =6
F)●西崎、酒井-田村、若菜
L)○渡辺久-伊東
本塁打)清原1号2ラン(西崎・1回)、清原2号(西崎・3回)、デストラーデ1号(西崎・3回)、ウインタース1号(渡辺久・4回)、秋山1号(西崎・7回)、ブリューワ1号(渡辺久・8回)
記録によるとファイターズの外国人助っ人、マット・ウインタースとトミー・ブリューワも本塁打を放っているのだが全く記憶にない。とにかくエース西崎を立ててライオンズの重量打線にまともに跳ね返された試合としてしか印象に残っていない。
なにしろライオンズは強かった。そしてファイターズは弱かった。この当時、年に数回、ライオンズ球場ないし東京ドームでこの対戦を生観戦したが、いい思い出がほとんど無い。東尾修が投げていたから1988年だったと思うが、ライオンズ球場の試合で1点ビハインドの九回表に田村藤夫のポテンヒットで同点に追いつき、打撃不振から九番を打たされていた古屋英夫が逆転本塁打する劇的な勝ち試合を生で観たが、古屋の打球が左中間スタンドに飛び込んだ時、感動して涙が出たのを覚えている。
これ以上ない開幕戦快勝となったライオンズは勢いを付けてシーズンを快走。五球団すべてに勝ち越す完全優勝でパ・リーグを制した。そして日本シリーズでもジャイアンツを四タテ。桁違いの強さを見せつけた一年だった。そしてこの年から、森監督が退任する1994年まで5年連続でパ・リーグ全球団に勝ち越す完全優勝を続ける。森監督を先頭にライオンズナインはライバルチームとの戦いだけでなく、稀代の名将に対し、あまりにも配慮のない冷酷な言葉を浴びせたオーナーらとも戦っていたのだ。開幕戦のファイターズはまともにその面当てを受けたことになった。
【参考資料】
読売新聞縮刷版1990年4月
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コメント
はじめまして
この頃の西武球場はHRが出ると花火が打ちあがった記憶があります。
また広告が他の球場に比べると極端に少なくてNHK放送向きだな~ と思って見ていました。
近年の西武ドームは広告だらけになってしまいました。まるで田舎から出てきた純朴な少女が悪い男に騙されて、酒や化粧を覚えていくような様子ですね。
では、またコメントさせて頂きます。
投稿: れみちち | 2016年9月 2日 (金) 21時39分