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2010年12月26日 (日)

阪急南海巡礼の旅

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Dsc_0207 今年最後の日曜日。敗戦処理。は東京を離れ、関西に向かった。メインの目的は別にあったが、子供の頃、野球に興味を持ち始めた頃のパ・リーグを支えていた在阪老舗球団の跡地も回ることにした。

(写真上:阪急西宮ギャラリー。写真下:南海ホークスメモリアルギャラリー)

敗戦処理。が野球に興味を持ち始めた1973(昭和48)。ジャイアンツV9の最後の年であるとともに、パ・リーグが前後期二シーズン制を初めて導入した年だ。東京生まれの東京育ちである敗戦処理。はまず野球は巨人から入った。パ・リーグはオールスターや、ジャイアンツの日本シリーズの相手という位置づけだった。

この年のジャイアンツは優勝したというもののセ・リーグは大混戦でジャイアンツは最終戦で首位タイガースを破っての逆転優勝。130試合で66604引き分けという成績だった。そのジャイアンツと日本シリーズで対戦するのはパ・リーグで前期に優勝した南海ホークスと、後期に優勝した阪急ブレーブスによるプレーオフの勝者。野村克也が監督兼捕手で、四番を務めていたホークスがブレーブスをプレーオフで制してリーグ優勝となり、ジャイアンツと日本シリーズで対戦した。初めて興味を持った年の日本シリーズの相手を競ったホークスとブレーブスは敗戦処理。に強烈なインパクトを与えた。

そのホークスとブレーブスは1988年を最後に親会社が変わった。南海は大手スーパーのダイエーに、阪急は王手のリース会社、オリエントリースに身売り。当時のプロ野球チームの親会社と言えば、新聞社、鉄道、食品会社が大半を占めていたので流通業、リース会社の参入というのはインパクトがあった。ホークスが大阪を離れ、かつて西鉄ライオンズが本拠地にしていた平和台球場を本拠地にすると言う発表にも度肝を抜かれたが、ブレーブスの身売りが、今も名勝負と語り継がれるパ・リーグの優勝がかかったオリオンズと旧バファローズのダブルヘッダー、いわゆる「1019」の試合中に発表になったのも衝撃だった。オリエントリースが社名変更したオリックスはやがてブレーブスの名を捨てブルーウェーブと名乗り、ブレーブスの象徴とも言える西宮球場を離れ、神戸に本拠地を移した。南海、阪急共にかつての本拠地を離れることになり、ホークスのホームグラウンドだった大阪球場は当初スタンドの一部を残したまま住宅展示場になったが、再開発で巨大なショッピングモールとなった。また西宮球場も競輪場として活用されたが、阪急沿線の西宮北口駅周辺の再開発でショッピングモールとなった。それでもそれぞれの跡地に往時をしのぶギャラリーがあるというので関西遠征に合わせて見物することにしたのだ。

まず最初は西宮球場跡地。

西宮球場時代の最寄り駅、阪急神戸本線、阪急今津線西宮北口駅東口から直結する「阪急西宮ガーデンズ」

Dsc_0038 この巨大ショッピングモールの5階にブレーブス球団の記念の品々などが飾られているギャラリーがあるという。早速行ってみた。

このフロアにはシネマコンプレックスTOHOシネマズ 西宮OS」があり、その入口の脇に「阪急西宮ギャラリー」がひっそりとある。

Dsc_0028 ブレーブス球団黄金時代に活躍した幾人かの選手のユニフォームやトロフィー類があるのと、球団の歴史を文章にしたパネルと、野球殿堂入りしたブレーブス関連の人々のレリーフのレプリカが飾られている。入場無料はありがたいが係員がいるでもなく、記念品コーナーがあるでもない。パ・リーグで一時代を築いた球団の記念の展示にしてはいかにも寂しい。選手ゆかりの品といってもいわゆる「花の昭和44年組」山田久志、加藤秀司、福本豊くらいしかなく、黄金時代以前を支えた「米梶」西本幸雄監督、上田利治監督個人にまつわるものもない。

Dsc_0031 しかし唯一遊べるのが1983年当時の西宮北口駅周辺を再現したジオラマ。スコアボードに往年の人気マスコット・ブレービーの動画が流されている。

Dsc_0011 別モニターで球場のカメラ視点になったりブレービーの画像を楽しめる。ちなみにスコアボードは当時のブレーブス対ライオンズ戦を再現している。

Dsc_0032 ぶれていてお恥ずかしいがライオンズ打線に田淵幸一の姿が無く、四番に大田卓司が座っている。田淵は怪我でもしていたのだろうか、気になるところだ。

いささか期待外れな感もあり、拍子抜けの感じでギャラリーを後にし、次なる目的地、阪神甲子園球場に向かう。

Dsc_0099_2 実はこれが本日のメインで、タイガースの本拠地にして高校球児の聖地である甲子園球場のグラウンドに、タイガースファンでも元高校球児でもない敗戦処理。が立つことが出来る機会を得たので一も二もなく飛び出してきたのだが、これに関しては甲子園歴史館見物と共に後日単独でエントリーを立てようと思うのでここでは割愛する。

続いてはホークス。球団移転後も住宅展示場になりながらかつてのホームグラウンドをしのばせる体裁を残していたが阪急より先にショッピングモールに。甲子園から向かった敗戦処理。は大阪市営地下鉄千日前線他の なんば から歩いたがもちろん本当の最寄り駅は南海電鉄の なんば 駅。駅から直結するなんばパークス9階に「南海ホークスメモリアルギャラリー」が今もある。実はこの場所を訪ねるのは二回目。ただ前回四年前は7階から9階への移転途中で展示量が少なかった。

Dsc_0206 往時を知るファンに親切なのは当時の大阪球場のピッチャープレートの位置ホームベースの位置にそれぞれの表示があること。

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Dsc_0201_2 忙しなく歩いていたら見過ごしそうな表示ではあるが、モールの2階通路になっているところにあるので訪ねた人は見て欲しい。ちなみにホークスOBの江本孟紀はかつてこのピッチャープレートの場所で選挙演説をしようとしたら所有者から断られたそうだ。

9階まで上がってみる。こちらも「阪急西宮ギャラリー」同様無人のスペースで記念品の販売もない。

Dsc_0220 ただこちらはホークス球団関係の表示に限られている。

もはやよく知られている話だが、南海ホークスの歴史を振り返るギャラリーなのに、ここには一切野村克也に関する表示がない。投手、打者、野手と分けた歴代の選手の写真に野村克也の写真はない。野村と近い年代ではエースの杉浦忠さんはもちろんのこと、広瀬淑功、大沢昌芳(後の啓二=大沢親分)などはあるが、野村はない。球団の末期では河埜敬幸定岡智秋あたりでも登場しているのにだ。

これには諸説有り、監督兼選手を解任された1977年に野村が記者会見を開いて、球団の大功労者である靏岡一人元監督に自分は斬られたと名指しで発言していわば喧嘩別れの形で球団を去ったので球団側がその存在を無かったことにしたい意思の表れだとする説と、本人サイドがその件を含め、ホークス時代を良く思っていないので自分の名前を出さないよう強く申し入れたという説。敗戦処理。は後者の説と睨んでいるが。

ただ単に写真がないくらいなら、肖像権の問題とか何となく推測出来るが、

Dsc_0227 球団の歴史コーナーでは三冠王を獲得したことも書かれていないし、

Dsc_19730228 1973年の優勝の時も、優勝した事実は書かれているが監督の名前がない。

Dsc_19590226 例えば1959年(昭和34年)の優勝の際には監督の名前が表示されているし、

Dsc_0229 野村監督退任後の低迷期ですら監督の名前が出ているのに…。

1977年の解任に後の沙知代夫人が絡んでいる事も有名だが、そうした機微を頭に入れながら見物すると、味わい深い展示と言える。

なお今回初めて気がついたが、もう一人削除されている選手がいる。

別所毅彦さんだ。

ジャイアンツに強引に引き抜かれたエースだが、これまたその恨みか、本人サイドの意向なのか…。ただギャラリーでエンドレスに流れているビデオでは別所さんは当時のエースとして登場している。

今回訪ねた二球団のギャラリーは、当時の親会社が運営しているものである。できれば引き継いだ球団の親会社も、球団の歴史というものを買収前から連なるものと認識し、現在のホームグラウンドなどで常設で展示して欲しいくらいだ。新しい世代のファンに正しい歴史認識を持ってもらうことは重要である。

その意味ではかつて頑なに過去を否定していたライオンズ球団が近年「ライオンズ・クラシック」と謳って過去の歴史をリスペクトする企画を継続的に行っているのは(今さら…と言う気持ちもあるが)素晴らしいことと思う。今シーズンも期間中に西武ドームを訪ねたら太平洋クラブライオンズ時代の資料、写真などが展示されていた。

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その意味では近々ユニフォームなどをリニューアルするとか言っているオリックス・バファローズには阪急球団のみならず、近鉄球団の歴史を私達ファンや、後世のファンにも伝える義務があるという認識を持って欲しい。合併するや否や、旧バファローズの永久欠番を本人の許可を取って欠番でなくしたかと思えば、旧バファローズの権利であった野茂英雄の保有権にこだわり続けるという見事なまでのダブルスタンダードを発揮した球団に多くを期待しても無理かもしれないが、パ・リーグ最後の老舗球団であった近鉄、大阪近鉄バファローズの軌跡を振り返るスペースを設けない様であれば、大阪のチームなどと語って欲しくない。

若干の物足りなさはあったが、年の瀬に東京を抜け出して、一日をつぶして動き回っただけのことはあった。もちろんこの充足感は今回書かなかった甲子園球場訪問の占める比率が高いのであるが…。

P.S.

今日のオマケ

「南海ホークスメモリアルギャラリー」の外にある手形の中にこんなん見つけました。

Dsc_0238 やっぱりホークスと言えば欠かせない…。一応広瀬淑功、岡本伊佐美といった偉大なOB達とはちょっと離れた場所に展示されていた。

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コメント

キャプテンサイタマ様、初めまして。コメントをありがとうございました。

> だからこそ「クラシック」なのでしょう。

なるほど。仰る通りです。

ただ、「西武」になってから何年経っているの?というのがある訳です。

もちろん、アイディアはあっても、絶対に実現し得ない時期が続いていたからなのでしょうが…。

だからこそ、こういう時に書きたくなるのです<笑>。


これを機会に、また当blogに遊びにいらして下さい。

投稿: 敗戦処理。 | 2010年12月30日 (木) 19時44分

>(今さら…と言う気持ちもあるが)

だからこそ「クラシック」なのでしょう。

投稿: キャプテンサイタマ | 2010年12月29日 (水) 20時39分

やまちゃん様、初めまして。コメントをありがとうございました。

> 阪急ファンの間では、インケツの阪急があそこまで展示するとは思わなかった、という声もあります(かなり嫌味を込めてますが)。

ツイッターで私のフォロワーさんから、わざわざ行くところじゃないと言われました<苦笑>。

でも、先に言われても行っていたでしょう。

> 因みに、西宮球場のホームベースも、元あったところにあります。

おう! それは不勉強でした。どこにあったのだろう。

今度行く機会があったらぜひ見たいです。


あとは近鉄です。藤井寺の跡地とか、どこかに展示は無いのでしょうか?

情報提供ありがとうございました。年明けに甲子園と歴史館の事を書くつもりです。

よろしかったら、また遊びにいらして下さい。

投稿: 敗戦処理。 | 2010年12月28日 (火) 01時37分

西宮ガーデンズ、行かれたんですね。

阪急ファンの間では、インケツの阪急があそこまで展示するとは思わなかった、という声もあります(かなり嫌味を込めてますが)。因みに、西宮球場のホームベースも、元あったところにあります。

結婚する際(3年前)、本籍地をあの地にした私は、今年の年末にも訪れる予定です。

投稿: やまちゃん | 2010年12月27日 (月) 23時03分

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