世紀の雪解け!?五輪正式種目化でプロアマ対決の壮行試合が実現-【回想】敗戦処理。生観戦録-第19回 1992年(平成4年)編
これまで当blogで毎月2日に交互に掲載していた 敗戦処理。が生観戦した野球場が55ケ所の観戦球場を出し尽くしたので当面 敗戦処理。が生観戦したプロ野球- my only one game of each year 主体にいくことにし、また新たに初めての球場で観戦したら臨機応変にはさむようにします。
1974年(昭和49年)に初めてプロ野球を生観戦した敗戦処理。はその後毎年、途切れることなく数試合から十数試合を生観戦しています。そこで一年単位にその年の生観戦で最も印象に残っている試合を選び出し、その試合の感想をあらためて書いていきたいと思います。年齢不詳の敗戦処理。ですが同年代の日本の野球ファンの方に「そういえば、あんな試合があったな」と懐かしんでもらえれば幸いです。
(写真:アマ日本代表チームを迎え撃った野茂英雄、古田敦也のソウル五輪バッテリー)
【回想】敗戦処理。生観戦録- my only one game of each year第19回 1992年(平成4年)編
前回1991年(平成3年)編では史上初の日韓野球について触れたが、1992年も日韓野球同様、画期的な試みに当たる試合を観戦したのでそれについて記す。
現在五輪において野球は前回2008年の北京大会を最後に種目から除外されているが、正式種目となったのは1992年のバルセロナ大会からであった。その前に1984年のロサンゼルス大会から非正式種目として公開競技で行われていたが、この年のバルセロナが初めて正式種目としての開催であった。当時はアマチュアのみの参加であったことからアマチュアによる日本代表チームへの壮行試合という形でプロ十二球団選抜とのエキシビションマッチが3月のオープン戦の時期にアマ野球の聖地、神宮球場で行われることとなった。
法政大学時代に東京六大学史上最多の48勝を挙げた住友金属の山中正竹監督率いるアマ全日本メンバー(この時点ではまだ五輪での代表メンバーが絞り込まれていない)には「ミスターアマ野球」杉浦正則を始め、投手陣には西山一宇(NTT四国、後にジャイアンツ)、小桧山雅仁(日本石油、後にベイスターズ)、渡辺正和(東京ガス、後にホークス)、杉山賢人(東芝、後にライオンズ他)、伊藤智仁(三菱自動車京都、後にスワローズ)、前田勝宏(プリンスホテル、後にライオンズ他)、鶴田泰(駒澤大、後にドラゴンズ)ら錚々たる顔ぶれ。野手にも三輪隆(捕手、神戸製鋼、後にブルーウェーブ)、佐伯貴弘(内野手、大阪商大、今季からドラゴンズ)、大島公一(内野手、日本生命、後にブルーウェーブ他)、小久保裕紀(内野手、青山学院大、現ホークス)、仁志敏久(内野手、早稲田大、後にジャイアンツ他)、佐藤真一(外野手、たくぎん、後にスワローズ他)、真中満(外野手、日本大、後にスワローズ)と後にプロ野球で活躍するメンバーが揃っていた。
一方のプロ選抜は当時ジャイアンツの二軍監督だった町田行彦が監督を務め、1984年のロサンゼルス大会、1988年のソウル大会を経験したメンバーを中心に若手主体で組まれた。野茂英雄(旧バファローズ)、古田敦也(スワローズ)の黄金バッテリー再現の期待があった他、正田耕三(カープ)、小川博文(ブルーウェーブ)、鈴木貴久(旧バファローズ)らが参加。ただしアマ側から参加を強く要請されていた当時ライオンズの秋山幸二は体調不充分を理由に球団を通じて辞退した。
また、アマ・プロ交歓試合と銘打たれたこの試合の名誉団長にはジャイアンツの監督を辞めてホークスの監督になる前の王貞治が選ばれ、試合前には背広姿でグラウンドに顔を出していた。
王はこの前の年からアマ日本代表チームに実技指導をしていた。なお試合はプロは木製、アマは金属バットを使用。3月7日、敗戦処理。は神宮球場のネット裏に陣取った。
アマ日本代表
(二)西正文(大阪ガス)
(右)佐藤真一(たくぎん)
(中)小久保裕紀(青学大)
(一)徳永耕治(日本石油)
(左)川畑伸一郎(住友金属)
(三)若林重喜(日本石油)
(指)佐伯貴弘(大商大)
(遊)仁志敏久(早大)
(投)鶴田泰(駒大)
プロ選抜
(二)正田耕三(カープ)
(遊)小川博文(ブルーウェーブ)
(左)森博幸(ライオンズ)
(指)西田真二(カープ)
(中)鈴木貴久(旧バファローズ)
(右)中島輝士(ファイターズ)
(一)大森剛(ジャイアンツ)
(捕)古田敦也(スワローズ)
(三)元木大介(ジャイアンツ)
(投)野茂英雄(旧バファローズ)
どちらも当時の所属先を表記。
試合は一回表、アマ日本代表の先頭西正文がプロ選抜の先発、野茂英雄からいきなりセンター前にクリーンヒット!神宮球場にどよめきが走った。これだけでも凄いのに西は野茂、古田敦也のバッテリーから二盗を敢行。これが古田の悪送球を誘い、西は三塁に進んだ。無死三塁。
あっという間にアマ日本代表はプロ野球界を代表するバッテリーをかき回して先制のチャンスをつかんだ。
ところが、ここで野茂の目の色が変わった。
壮行試合とはいえ、おめおめと先制点献上などご免と思ったのか、ここから野茂のストレートが唸りを上げた。ストレート一本で二番の佐藤真一、三番の小久保裕紀から連続奪三振。四番の徳永耕治に対して四球を与えたものの、五番の川畑伸一郎から三振を奪い、格の違いを見せつけた。
「さすがに野茂がその気になると…」先ほどはどよめいたスタンドからため息が漏れた。野茂は二回にも若林重喜、佐伯貴弘から三振を奪い、2イニング投げて5奪三振の無失点と貫禄を示した。実は敗戦処理。が野茂を生で観るのはこれが初めて。この時期にしてはど迫力だったが2イニングは物足りない感じだった。
一方のプロ選抜打線は一回裏に前述の秋山の代役として選ばれた感じの森博幸が鶴田泰から先制2ラン。三回裏には二番手の渡辺正和を攻めて正田耕三、小川博文、森の三連打でまず1点、続く西田真二にもセンター前のタイムリーが出てもう1点。さらに一死満塁と攻め立てて大森剛がライトオーバーの満塁本塁打。
大森はこの時入団三年目。慶應義塾大三年時に三冠王になって注目を集め、鳴り物入りでジャイアンツに入団したが結局大成出来なかった。
ルーキーイヤーの開幕戦で同点の九回裏、一打出ればサヨナラという場面で代打に起用され、デビュー戦でサヨナラ安打と思われた打球をスワローズの栗山英樹にダイビングキャッチする超ファインプレーで阻まれて運のない選手だと思ったが大森の本塁打で敗戦処理。の印象に残っているのはこの一発と1996年の日本シリーズで代打で放った同点本塁打くらいだ。あとは1995年にスワローズのテリー・ブロスに完全試合をされそうになった試合で広沢克己の代打で登場して死球で完全試合を阻止したくらいしか印象がない。
大森の本塁打で8対0。プロ選抜の空気を読まない大人げない攻撃に「やっぱりレベルが違うな…」という空気が漂ったが、終わってみればこの大森の一発がなかったらプロ選抜は、というかプロ野球界は大恥をかくことになっていたのだから野球はわからない。
プロ選抜二番手の清原雄一(ブルーウェーブ)が2イニング目の四回表に突如乱れて5安打に四球でこの回途中にKO。一気に5点を返されると五回には三番手の山田真実(旧バファローズ)が若林にレフトスタンドに豪快に運ばれ、六回には四番手の鈴木哲(ライオンズ)が三安打を浴びそれぞれ1点を失い、8対7と一点差に迫られた。
プロ選抜は八回裏に5イニング目に突入した伊藤智仁から代打の横谷彰将(ホエールズ)が2点タイムリーを放って10対7として今度こそ勝負あったかと思ったが、アマ日本代表はそれでも諦めず、九回表に逃げ切りに出てきた有倉雅史(ファイターズ)からいきなり徳永がソロ本塁打、さらに川畑、若林の長短打で無死一、三塁と同点の走者まで出し、併殺打の間に1点を返し一点差に迫る。二死走者無しとなったが三輪隆が四球を選ぶと代走の大島公一が二盗に成功。
ついに一打同点と迫る。2万人を超えた観衆はこうなるとアマ日本代表に肩入れし、有倉もアップアップだった感じだが何とか最後の打者を二飛に打ち取り10対9で辛勝した。
【1992年3月7日 アマ・プロ交歓試合 神宮】
アマ日本代表 000 511 002 =9
プロ選抜 206 000 02× =10
アマ)●鶴田、渡辺、伊藤、前田-高見、三輪
プロ)野茂、清原、山田真、鈴木哲、○鈴木平、S有倉-古田
本塁打)森博幸2ラン(鶴田・1回)、大森満塁(渡辺・3回)、若林ソロ(山田真・5回)、徳永ソロ(有倉・9回)
プロ側からすれば普段対戦しない金属バットというのもあったろうが放った安打(9本)よりはるかに多い15安打を浴びてしまい、とても「胸を貸した」という感じでは無かった。登板した投手で無失点だったのは先発の野茂と五番手で七、八回の2イニングをパーフェクトに抑えた鈴木平(スワローズ)だけであった。
この試合を報じた翌8日の日刊スポーツは一面で扱ったが大見出しが「プロ震えた」で小見出しが「歴史的アマ対決であわや屈辱」だった。当時、テレビ朝日の「ニュースステーション」のスポーツコーナーに出演して人気だった同紙の「マユゲの野崎です」こと野崎靖博編集委員は紙面で、プロ側がレベルの高い選手を数多く出場させられなかったことを批判。プロ側の代表30選手中、一流の技術の持ち主は野茂、古田、正田、西田の四人だけと断じた。この試合が正式に決まった1月16日の時点で通達を出し、各球団に主力選手拠出を求めるなどをしなかった吉國一郎コミッショナーの非も責めた。
敗戦処理。も全くその通りだと感じた。こんなに意義深い一戦である割にはお膳立てが不充分だったと言わざるを得なかった。
ちなみにアマ側から、三拍子揃っていて手本となる選手なので是非出て欲しいと言われていながら体調不充分を理由にメンバー入りを辞退したライオンズの秋山はこの日、松山市営球場で行われたカープとのオープン戦に途中出場。2三振に悪送球と散々だった。森祇晶監督は秋山のプレーに激怒したと報じられているが、森監督含め、ライオンズ関係者こそ、このアマ・プロ交歓試合に携わった関係者や神宮球場に駆けつけたファンから責められるべきだろう。
プロ選抜をあと一歩まで追い詰めたアマ日本選抜はこの年のバルセロナ五輪での大会では予選リーグを2位で通過。しかし準決勝で当たった台湾に2対5で敗れ、金メダルは夢に。台湾の投手は後に日本のタイガースでも活躍した郭李建夫だった。しかしアメリカ相手の3位決定戦では「7番・レフト」でスタメン出場の小久保が先制タイムリーを含む2本の二塁打と活躍。伊藤、杉山、杉浦の継投で8対3で快勝。銅メダルを獲得した。
【参考資料】
1992年3月4、7、8日付日刊スポーツ他
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