日本初のプロサッカーリーグ-Jリーグ開幕の日、敗戦処理。がいたのは国立競技場ではなく…【回想】敗戦処理。生観戦録-第20回 1993年(平成5年)編
これまで当blogで毎月2日に交互に掲載していた 敗戦処理。が生観戦した野球場が55ケ所の観戦球場を出し尽くしたので当面 敗戦処理。が生観戦したプロ野球- my only one game of each year 主体にいくことにし、また新たに初めての球場で観戦したら臨機応変にはさむようにします。
1974年(昭和49年)に初めてプロ野球を生観戦した敗戦処理。はその後毎年、途切れることなく数試合から十数試合を生観戦しています。そこで一年単位にその年の生観戦で最も印象に残っている試合を選び出し、その試合の感想をあらためて書いていきたいと思います。年齢不詳の敗戦処理。ですが同年代の日本の野球ファンの方に「そういえば、あんな試合があったな」と懐かしんでもらえれば幸いです。
【回想】敗戦処理。生観戦録- my only one game of each year第20回 1993年(平成5年)編
1993年といえば、日本初のプロサッカーリーグ、Jリーグがスタートした年だ。それまで日本のプロスポーツの中で圧倒的な人気を誇っていたプロ野球界にとっては大きな衝撃だった。当時から既にジャイアンツ戦の視聴率がどうの…などという話はチラホラ囁かれていた。プロ野球界は少しでも魅力的なプロ野球界にするため<?>に、それまで球団側が一方的に選手を指名出来るドラフト会議に逆指名制度を認め、選手にフリーエージェントの権利を認めるフリーエージェント制導入に急速に向かおうとしていた。実際、1993年秋のドラフト会議から大学生と社会人野球の選手を対象とした逆指名制度が導入され、フリーエージェント制も導入された。「開かれた野球界」への改革との一方でこれらの制度導入が特定の球団に有利に働くであろう事は当時から容易に想像出来ていたが、声が大きい人の意見が採用されるというか、ともかく導入された。そして藤田元司監督で1991年、1992年と二年連続でリーグ優勝を逃していたジャイアンツは起死回生の一打としてミスタージャイアンツ、ミスタープロ野球とも言われた長嶋茂雄を監督に復帰させた。長嶋は就任早々のドラフトで星稜高校の松井秀喜を抽選で引き当てて1993年のシーズンに臨んだ。
そんな1993年のシーズン。Jリーグの開幕戦は5月15日と決まっていた。10チームでスタートしたJリーグは翌16日に8チームによる4試合を組み、日本リーグ時代からの名門、ヴェルディ川崎対横浜マリノス戦のみをこの開幕日に対戦させて祝賀ムードを一層強くした。川淵三郎チェアマン(当時)が開会宣言をし、TUBEの前田亘輝が「君が代」を熱唱して華々しくJリーグ開幕をぶち上げていた時、同じJR総武線で数駅離れた水道橋駅からほど近い東京ドームで敗戦処理。はファイターズ対ブルーウェーブ戦を生観戦した。
1993年のファイターズといえば、大沢啓二監督が三度監督に就任した年で、当時無敵だったライオンズとシーズン終盤まで優勝争いを繰り広げた年だった。一方のブルーウェーブにとっては旧ブレーブス時代から長く続いた上田利治監督を引き継いだ土井正三監督の三年契約の三年目。したがってイチローはまだブレイクしておらず、あの200本安打は翌1994年。余談だが土井監督はイチローの能力を発掘出来なかった点で監督として酷評されがちだが、そのイチローの力を借りずしてこの年もAクラス入りを果たしたし、就任三年間を3年連続3位で全うしたのでもっと評価されても良い監督だ。ただ開幕ダッシュにつまづいての3位だったり、優勝争いに加わることのない3位だったりして当時のブルーウェーブファンを引きつけられなかった面はあったようだが…。
ブルーウェーブ
(中)柴原実
(二)福良淳一
(右)藤井康雄
(指)石嶺和彦
(左)高橋智
(一)トーベ
(三)飯塚富司
(捕)中嶋聡
(遊)小川博文
(投)長谷川滋利
ファイターズ
(二)白井一幸
(遊)広瀬哲朗
(三)片岡篤史
(一)シュー
(指)ウインタース
(左)田中幸雄
(右)小川浩一
(捕)田村藤夫
(中)鈴木慶裕
(投)柴田保光
当時のファイターズ打線は近年の打線のつながりを重視する攻撃に近く、この日も、後に大リーグ入りするブルーウェーブの先発、長谷川滋利の立ち上がりを攻め、一回裏に白井一幸、広瀬哲朗の連続安打でチャンスをつかみ、一死後、四番のリック・シューが三遊間を破る安打で先制。さらにマット・ウインタースが四球を選んで一死満塁とし、田中幸雄の中犠飛で2点目を挙げた。ファイターズは二回裏にも一死から安打で出た鈴木慶裕を白井一のバントで送った二死二塁から広瀬のライトオーバーのタイムリー二塁打で1点を追加。序盤にして3対0とファイターズが優位に立った。
ブルーウェーブは四回表に反撃開始。先頭の石嶺和彦が内野安打で出塁すると、高橋智が左中間を破る二塁打で無死二、三塁。ケルビン・トーベの一塁ゴロの間に石嶺が生還。これはファイターズにとって計算内だったろうがこの打球をシューが失策してなお無死一、三塁とピンチが続いていた。飯塚富司の右犠飛で1点差とされ、さらに中嶋聡にセンター前に運ばれて一死一、三塁と同点のピンチ。しかしここで小川博文のレフトフライでホームを狙ったトーベをレフトの田中幸の好返球でホームで刺し、ピンチを切り抜けた。
田中幸は前年の1992年を故障で棒に振った。開幕戦に代走で出た1試合のみの出場。大沢監督は就任に当たってチームリーダーに広瀬を指名。前年まで準レギュラー的扱いだった広瀬にショートのポジションを任せ、田中幸には「広瀬の守備を背後から見て参考にせよ」とレフトに回していた。
ファイターズは六回裏に一死からウインタースと田中幸の短長打で二、三塁とすると、小川浩一の左犠飛で1点を加え、4対2とした。ブルーウェーブの先発、長谷川はこの回限りで降板。七回から売り出し中のルーキー左腕、金田政彦を投入。
一方のファイターズ先発の柴田保光も七回表まで投げ終え、2失点で降板。4対2とリードを保ち、八回からこちらも売り出し中のルーキーストッパー、山原和敏を投入した。
しかし山原に好調時の面影はなく、先頭の柴原実にレフト前に運ばれると、一死後、藤井康雄にライトに特大の本塁打を浴び、あっという間に4対4の同点。ファイターズベンチはすぐに山原を見限り、三番手に芝草宇宙を投入。4対4のまま試合は推移する。
そして延長戦突入もちらついた九回裏。続投する二番手の金田からファイターズは先頭の田村藤夫がセンター前に運んで無死一塁。鈴木の代打、五十嵐信一がバントで送った一死二塁。白井一はあっさりと左中間を破り、田村を迎え入れてファイターズがサヨナラ勝ちを果たした。5X-4。山原、金田とともに順調にチームの戦力になっていった両ルーキーに一球の怖さを思い知らせた試合だった。
【1993年5月15日・東京ドーム】
BW 000 200 200 =4
Fs 210 001 001× =5
BW)長谷川、●金田-中嶋
Fs)柴田、山原、○芝草-田村
本塁打)藤井6号2ラン(山原・7回)
前述のようにサッカーJリーグの歴史的一日。帰路に同じJR総武線を利用する敗戦処理。はサヨナラ勝ちを確認すると早めに帰り支度をと準備したが、ヒーローインタビューでの白井一の一言に胸を打たれた。
「今日からサッカーも始まりましたけど、野球も頑張りますので、これからも応援よろしくお願いします!」
昨今と比べると通り一遍の問答が多かったヒーローインタビューで白井一が声高らかに野球ファンを熱くさせる一言を最後に残した。
当時の概算発表で30,000人のファンが東京ドームに足を運んでいたことになっているが、実際はもっと少なかっただろう。だがサッカーが歴史的一日を迎える日であるにもかかわらず東京ドームに足を運んだ野球ファンは白井一の一言に勇気づけられたことだろう。
そして、東京ドームの倍といってもいい59,626人の大観衆に見守られた国立競技場では横浜マリノスがヴェルディ川崎を2対1で下していた。
【参考資料】
1993ファン手帳(ファン手帳社刊)
Numberが見たスポーツと世相1980~2010 Sports Graphic Number Plus April 2010 文藝春秋刊
日刊スポーツ1993年5月15日付、16日付
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