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2011年4月 2日 (土)

ガラガラのスタンドで観たイチロー-【回想】敗戦処理。生観戦録-第21回 1994年(平成6年)編

これまで当blogで毎月2日に交互に掲載していた 敗戦処理。が生観戦した野球場が55ケ所の観戦球場を出し尽くしたので当面 敗戦処理。が生観戦したプロ野球- my only one game of each year 主体にいくことにし、また新たに初めての球場で観戦したら臨機応変にはさむようにします。

1974(昭和49)に初めてプロ野球を生観戦した敗戦処理。はその後毎年、途切れることなく数試合から十数試合を生観戦しています。そこで一年単位にその年の生観戦で最も印象に残っている試合を選び出し、その試合の感想をあらためて書いていきたいと思います。年齢不詳の敗戦処理。ですが同年代の日本の野球ファンの方に「そういえば、あんな試合があったな」と懐かしんでもらえれば幸いです。

【回想】敗戦処理。生観戦録- my only one game of each year21回 1994(平成6年)

この年はあまり生観戦した試合が多くない。ブルーウェーブファンの友人に誘われてゴールデンウイークに訪れた千葉マリンスタジアムで友人が「このイチローってのがいいんだよ」と猛烈に奨めていたので何となく注目したが4月下旬のこの時点ではまだ、正直に言うと毎年何人かいる、開幕から勢いよく好成績を残す選手との印象しか持たなかった。しかしこの試合のイチローの打棒は200本を超える数の安打数を放つこのシーズンのイチローの姿そのものであった。

ブルーウェーブ

()イチロー

()福良淳一

()キャブレラ

()タイゲイニー

()平塚克洋

()小川博文

()本西厚博

()中嶋聡

()田口壮

()星野伸之

マリーンズ

()西村徳文

()平野謙

()愛甲猛

()ホール

()初芝清

()ミューレン

()堀幸一

()定詰雅彦

()南渕時高

()園川一美

マリーンズの先発が、イチローがこの年の通算200本目の安打を打つ相手投手の園川一美だったのも後から考えると象徴的だった。普通なら苦手としてもおかしくない左対左を全く苦にせずに右に左に打ち分けていた入団三年目のイチローにあっけに取られた。

プレイボール直後の第一打席こそ一塁フライに終わったが、第二打席以降は右中間二塁打、一塁内野安打、ライトオーバー本塁打、レフト線二塁打とまさに右に左に打ち分けた。しかし試合の方はこのイチローの本塁打による2点だけでブルーウェーブは大敗した。

マリーンズは一回裏に先頭の現監督、西村徳文が安打で出ると、平野謙が送った一死二塁から愛甲猛のレフト前安打で先制。三回裏には連打と死球の無死満塁から四番、メル・ホールのショートへの内野安打でまず1点。続く初芝清のショートゴロをショートの田口壮がタイムリーエラー。二者生還してなおも無死二、三塁。一死後、堀幸一が前進守備の二遊間を破り、再び二者生還。一挙に5点を追加し、6対0とリードを拡げた。

後に外野に転向してイチローらと十二球団ナンバーワンの外野守備の一角を担う田口だが、内野手時代はスローイングでのミスが目立っていた。田口は仰木彬監督の逆鱗に触れたのか、このイニングの途中にベンチに下げられ、サードの小川博文がショートに周り、サードにはこの年、タイガースから移籍してきた岡田彰布が起用された。

マリーンズは四回裏にも愛甲のタイムリーで1点を加える。7対0とし、完全にマリーンズペースに。七回表にブルーウェーブはようやくイチローの2ランで2点を返すが、マリーンズは七、八回にブルーウェーブ三番手の岩崎久則を攻め、七回に3点、八回に4点を加え、142で圧勝した。マリーンズファンでもブルーウェーブファンでもない敗戦処理。には七回に四安打を浴びて3点を加えられた岩崎を八回も続投させて四安打で4点をさらに加えられるのを観ていて、福岡から移動日なしで乗り込んできた六連戦の四戦目ということを割り引いても投げやりに感じられた。

1994年4月29日・千葉マリンスタジアム】

BW 000 000 200 =2

M  105 100 34× =14

BW)●星野、伊藤隆、岩崎-中嶋、高島

M)○園川、ハートリー-定詰

本塁打)イチロー4号2ラン(園川・7回)

イチローは、この日の5打数4安打を加えても打率はまだこの時点では.329でパ・リーグの7位とこの時点ではまださほど目立った存在ではなかった。

それにしても、ゴールデンウイーク初日というのにこの日の千葉マリンスタジアムはガラガラだった。翌年にはイチロー見たさで、東京ドーム、千葉マリン、西武ライオンズ球場での土休日のブルーウェーブ戦は三塁側スタンドを中心に大観衆で埋まるようになるのだが、この日はその気配すらなかった。概算発表と言われていた当時の発表で20,000人だった。この日は甲子園球場のタイガース対ジャイアンツ戦の55,000人は別格としても、横浜スタジアムのベイスターズ対スワローズ戦が28,000人、岐阜長良川球場のドラゴンズ対カープ戦が29,000人の観客動員を記録し、同じパ・リーグでも東京ドームのファイターズ対ホークス戦に40,000人、藤井寺球場の旧バファローズ対ライオンズ戦に24,000人が集まっており、六球場で最低だった。

この日の園川一美は味方打線の大量援護に守られた感もあったが、イチローに本塁打を浴びた七回まで投げて堂々の勝利投手。イチロー以外には合計で三安打しか打たれなかった。

園川はこの年、21試合に登板して76敗、防御率4.22と先発ローテーション投手としては平凡な成績に終わるが、日本プロ野球初の年間200安打を達成したこの年のイチローの、200本目の安打を打たれたことで、その映像が何度も何度も繰り返し再現されて有名になってしまう。

しかし園川という投手は折に触れて話題のシーンに出てくるケースが多い。

古くはあの1019」、旧バファローズとのダブルヘッダー第二試合の先発。また金田正一監督時代の1990年、ライオンズ戦でライオンズの走者のホームスチールを阻止しようとして投球動作をやめてボークと判定され、金田監督がこの判定に激高して高木敏昭球審に暴行を加え、退場処分になる事件があった。言わずとしれた400勝投手の金やんには投手を見る目は誰にも負けないという自負があったからか、抗議に対して判定を変えない球審を許せなかったのだろう。暴言を吐いただけでなく暴行も加えた結果、金田監督に三十日間出場停止、制裁金百万円が科された。この処分内容だけでもひどい抗議だったことが想像できるだろうが、当時の堀新助パ・リーグ会長は「強姦、殺人、死体遺棄にあたる」と評したことからも凄惨なシーンだったことがうかがえよう。

また同じく金田監督時代には珍プレー集の類の番組では必ず取り上げられる(昨年の年末にフジテレビで放送された特番でも取り上げられていた!)、オリオンズと旧バファローズとの試合で背中に死球を受けたジム・トレーバーが激高して投手に向かって突進し、大乱闘になり、ほとぼりが冷めて輪がとけたと思ったらトレーバーがオリオンズベンチに向けて再突進。足がもつれて転倒したところで金田監督の蹴りを受けるというシーンがあるが、事の発端とも言える死球をぶつけたのが園川だった。

そして1996年には晴れて開幕投手に選ばれたのだが、開幕投手の人選に関して何と対戦相手のホークスの王貞治監督からクレームを受けたのである。当時からパ・リーグは予告先発制度を採用していたが、この年の開幕戦に限っては先発投手の予告だけでなく、先発オーダーも予告することになった。しかも投手とオーダーを同時に発表するというものだった。これは一年間の公式戦で唯一、相手の先発投手が発表になる前にオーダーを組まなければならないことを意味する。その事に気付いていた当時のマリーンズの江尻亮監督はホークスがマリーンズの先発を小宮山悟か伊良部秀輝、右投手を予想すると読んで裏をかいて園川を抜擢したのだ。それに対して王監督は「うちもなめられたものだ。開幕投手には“格”ってものがあるだろう。開幕試合は特別のものだよ」と毒づいたのだった(開幕投手・園川は味方打線が二回に5点を援護し、4回まで無失点の好投だったが五回に2失点し、なおも二死満塁というところで、勝利投手の権利を得る直前に降板したがその後の継投策が奏功し、マリーンズはホークスを6対4で破った)。

当時「持っている」という言葉があれば、園川は間違いなく持っている投手と呼ばれていただろう。

【参考資料】

1994ファン手帳(ファン手帳社刊)

「夢の畑でポチがなく」(玉木正之著、講談社刊)

「江川の四試合」(工藤健策著、総合法令出版)

1994年4月30日付読売新聞

1996年3月30日付日刊スポーツ

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