ライオンズ開幕戦で15年ぶりに再現されたもの…【回想】敗戦処理。生観戦録-第22回 1995年(平成7年)編
これまで当blogで毎月2日に交互に掲載していた 敗戦処理。が生観戦した野球場が55ケ所の観戦球場を出し尽くしたので当面 敗戦処理。が生観戦したプロ野球- my only one game of each year 主体にいくことにし、また新たに初めての球場で観戦したら臨機応変にはさむようにします。
1974年(昭和49年)に初めてプロ野球を生観戦した敗戦処理。はその後毎年、途切れることなく数試合から十数試合を生観戦しています。そこで一年単位にその年の生観戦で最も印象に残っている試合を選び出し、その試合の感想をあらためて書いていきたいと思います。年齢不詳の敗戦処理。ですが同年代の日本の野球ファンの方に「そういえば、あんな試合があったな」と懐かしんでもらえれば幸いです。
【回想】敗戦処理。生観戦録- my only one game of each year第22回 1995年(平成7年)編
1995年の生観戦で最も印象が残っているのは開幕戦だ。それも贔屓にしているジャイアンツでもファイターズでもなく、ライオンズ対ホークス戦を西武ライオンズ球場に観に行った。4月1日、まさに年度が変わった初日だ。ライオンズは前年までパ・リーグで五連覇。しかし森祇晶監督が日本シリーズで長嶋茂雄監督率いるジャイアンツに敗れたあと、辞任。引責辞任ではなく、球団との間の軋轢が原因と報じられた。そんな森監督を引き継いだのは元エースの東尾修新監督。堤義明オーナーによる大抜擢だった。一方のホークスも、ライオンズのフロントから引き抜いた根本陸夫を監督に据えていたが、「世界の王」こと王貞治を招聘。まだセ・パ交流戦の無かった時代。長嶋監督率いるジャイアンツと日本シリーズでON対決実現の期待が高まったが、実態は南海時代から通算して17連続Bクラスという長期低迷中だった。この両チームが常にパ・リーグの優勝争いを繰り広げるようになるのは1990年代の最後から。この当時は常勝ライオンズに立ち向かう弱小ホークスという感が否めなかった。ただ、王監督の招聘。ライオンズから左のエース工藤公康と、チームリーダー石毛宏典をともにFA移籍で獲得。現役大リーガー、ケビン・ミッチェルの獲得と期待感を高めた。この日も開幕戦とあって、試合開始の約一時間前に球場入りした敗戦処理。がレフトスタンドの後ろを通って、やや三塁寄りのネット裏の席に着くまで、ホークスファンの熱気に圧倒されそうだった。
予告先発はライオンズが郭泰源で、ホークスはライオンズから移籍してきた工藤公康。いやがうえにも盛り上がる。
ホークス
(三)松永浩美
(遊)浜名千広
(中)秋山幸二
(左)ミッチェル
(右)ライマー
(指)カズ山本
(捕)吉永幸一郎
(二)小久保裕紀
(一)藤本博史
(投)工藤公康
ライオンズ
(二)辻発彦
(中)佐々木誠
(右)ジャクソン
(一)清原和博
(指)デストラーデ
(遊)田辺徳雄
(三)鈴木健
(左)垣内哲也
(捕)伊東勤
(投)郭泰源
開幕セレモニーの始球式で、両軍監督が投手と打者で対決することになった。しかもお約束の空振りではなく、真剣勝負。
マウンドにこの時44歳の東尾修。左打席に54歳の王貞治。正直、これを観るだけでも来た価値があったというものだ。「さすがに内角ギリギリには投げないだろうな」などと考えながらグラウンドに注目すると、驚くべき光景が目に入ってきた。守備についているライオンズナインが守備位置を右寄りに移動を始め、「王シフト」を敷いたのだ!
結果は東尾の初球をあまり足の上がらない一本足打法で果敢に打った打球はライトフライ。ほぼ真後ろから観た敗戦処理。には上がった打球の角度が一瞬現役時代の放物線とオーバーラップしたが打球は全く伸びがなく、ライトを守っているダリン・ジャクソンのグラブに収まった。
余談だが東尾監督はこの年のオールスターゲームでオール・パシフィックを率い、ここでも始球式対決を行い、オール・セントラルを率いた長嶋監督と対戦。その時はライト前安打を浴びた。長嶋が放った打球が鈍くライト前に弾んだ時、両軍ベンチの現役のオールスター選手の様子をテレビカメラがとらえたが、みんな嬉しそうだった。長嶋はファンだけでなく、プロ野球選手にとっても憧れのスターであると言うことが垣間見られたアトラクションだった。
試合開始。パ・リーグ開幕戦三試合共通のセレモニーとして一回の表、裏の攻撃時に監督がコーチスボックスに立つという申し合わせになっていた。一回表、王監督が三塁コーチに立った。初回の攻撃であれば、そんなに細かい動きはないということで本職のコーチでなくても良かろうという発想だったのかもしれないが、王三塁コーチは本人も予想し得ない大活躍を強いられることとなった。
郭泰源に対し、先頭の松永浩美が二遊間を破る安打。続く浜名千広は小細工なく引っ張り、ライト線に二塁打。いきなり無死二、三塁と郭を攻める。三番の秋山幸二は四球。無死満塁で打席には期待の新外国人、ケビン・ミッチェル。サンフランシスコ・ジャイアンツ時代の1989年には47本塁打、125打点の二冠王でMVPを獲得した大物は一方でトラブル・メーカーとの声もある札付きだったが、王監督就任に花を添える大物外国人助っ人を獲得したかったホークスは王がジャイアンツの助監督、監督時代にやはり気むずかし屋で有名だったレジー・スミスをうまく操縦していた実績を信じて獲得したのだった。
ミッチェルは軽くスイングした感じだったが、ボールはピンポン球のようにというより、ゴルフのドライバーのような感じであっという間にレフトスタンドに突き刺さった。何が何だかわからぬうちに、ホークスに4点が入った。初打席での満塁本塁打は1983年のジャイアンツの駒田徳広以来二人目だが、開幕戦での達成は初めて。奇しくも王はその双方を目にしたことに。
郭が立ち上がりでペースをつかむ前に先に攻略した感じだった。それでも本塁打で塁上の走者が一掃され、得てして投手がペースをつかみ出すものだが、この後もホークスの攻撃は終わらず、ケビン・ライマー、カズ山本が連続安打。吉永幸一郎が併殺打でようやくアウトを取ったと思ったら八番の小久保裕紀がタイムリー。九番の藤本博史がレフトスタンドに2ラン本塁打を叩き込み、7対0とした。藤本は後日、「九番打者の自分がまさか一回に打席が回り、本塁打まで打てて王監督に祝福されながらベース一周出来るなんて思わなかった」と語っていた。
一回表を終えてホークスが7対0でリード。一方的な試合になるかと思ったが、リードされた方の新人監督、東尾は肝が据わっているのか、開き直ったのか意外に冷静。郭を続投。ブルペンに誰も用意させなかった。
工藤も不安定。二回裏にライオンズは垣内哲也の3ランで3点を返す。二回で4点差なら、決して絶望的ではない。そして四回裏に打線が大爆発。
清原和博と、この年に日本球界に復帰したオレステス・デストラーデがともに外野フライに倒れた二死走者無しから、田辺徳雄がレフト前に運ぶと、鈴木健がセンターオーバーの二塁打で田辺生還。7対4。垣内四球のあと、伊東勤がレフト前に。鈴木が還り、7対5。この時、投球前にタイムをかけようとして認められなかった三塁の松永が中村稔三塁塁審と山崎夏生球審に抗議するも認められず。トップに返って辻発彦も二塁内野安打で垣内が二塁から一気に生還し、7対6。そしてとうとう佐々木誠の左中間を深々と破る二塁打で伊東と辻が還り、ライオンズは一気に大逆転。工藤はここでまさかのKO。ホークスは二番手に高山郁夫を投入。
ホークスも直後の五回表に浜名、秋山の長短打で無死一、三塁。ここで再びミッチェル。ホークスファンが盛り上がるが、三塁ゴロ。第一打席であの一発を見せつけられたライオンズは前進守備とはいかず、同点と引き替えに併殺を仕留めた。
8対8のまま迎えた八回裏。ホークスの三番手、下柳剛から安打の田辺と四球の鈴木を一、二塁に置いて伊東がライトオーバーの二塁打で二者生還。10対8として、王者ライオンズの底力をまざまざと見せつけた。
初回に7失点した郭はその後立ち直り、八回二死まで力投。二番手の橋本武弘がマウンドに上がっていた。九回表もカズ山本、吉永と左打者が続くので続投していた。橋本はカズ山本を二塁ゴロに打ち取り、続く吉永も右中間のフライに…と思ったらライトのジャクソンとセンターの佐々木が交錯。打球は右中間を転々とし、吉永は三塁へ。
それでも二点差なので、小久保、藤本と右打者が続くところで抑えの潮崎哲也をつぎ込む万全の継投。当時は昨今のように投手をイニング単位でつなぐのではなく、右打者には右投手、左打者には左投手を手堅くぶつけるのが主流という感じで特にライオンズの潮崎と杉山賢人、鹿取義隆のサンフレッチェは盤石と見られていた。
潮崎はこの年入団二年目でパ・リーグの本塁打王に輝く小久保を三振に仕留め、あと一人。しかしここで藤本がレフトのポール際に本塁打。土壇場で10対10の同点に追いついた!
勢いに乗るホークスは十回表、続投する潮崎から先頭の浜名がレフト前、続く秋山が流し打ちで一、二塁間を破り無死一、二塁。ミッチェルの五打席目を迎えた。潮崎は緩急を織り交ぜ、というよりほとんど緩い球ばかり投げるが、ミッチェルは釣り球に手を出さず選んで四球。無死満塁とチャンスを拡げた。このあたりの冷静さはさすがだと敗戦処理。も唸ったものだった。
ここでホークスが左打者が三人続くことになるので、ライオンズは杉山を投入。しかしライマーはレフトへ犠牲フライ。ホークスは再び11対10と勝ち越した。しかもバックホームがダイレクトにホームまで戻ってくるのを見て二塁走者の秋山だけでなく、一塁走者のミッチェルもタッチアップ。なおも一死二、三塁とした。「この外人、すげえ」敗戦処理。は再び唸った。結局この回は一点止まりだったが、チェンジになって王監督がミッチェルを退けて守備固めをしようとすると、ミッチェルは「俺は大丈夫だ」と言わんばかりの表情で王監督に守備続行を訴えているようだった。
最後は九回裏から登板の木村恵一が抑え、大乱戦は11対10でホークスが制した。
【1995年4月1日・西武ライオンズ球場】
H 700 010 002 1 =11
L 030 500 020 0 =10
H)工藤、高山、下柳、○木村-吉永
L)郭、橋本、●潮崎、杉山-伊東
本塁打)ミッチェル1号満塁(郭・1回)、藤本1号2ラン(郭・1回)、垣内1号3ラン(工藤・1回)、藤本2号2ラン(潮崎・9回)
壮絶な試合の割には試合時間は3時間21分。密度の濃い試合だった。
こんな素晴らしい勝ち方をするホークスだったが、この年は5位に終わってファンの期待を裏切った。翌年は最下位に落ち、堪忍袋の緒がきれた一部のファンから、特に監督である王をターゲットに過激な抗議がなされた。ライオンズと共に毎年優勝争いをするようなチームに変貌するのはまだ先のこと。
強烈なインパクトを残したミッチェルは翌第二戦でも本塁打を放つなど、本領発揮だったが、次第にもう一つの顔があらわになり、5月以降は試合を休みがちになり、無断帰国をして周囲を呆れさせた。その後一度は再来日したが、また帰国してしまった。
1987年のボブ・ホーナーといい、このミッチェルといい、あまりにレベルが違いすぎると、器に収まりきらないのだろうか?とにもかくにも、お腹一杯な開幕戦生観戦だった。
【参考資料】
1995ファン手帳(ファン手帳社刊)
プロ野球人名事典2003(森岡浩編著、日外アソシエーツ刊)
1995年4月2日付読売新聞
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