日本人メジャーリーガー、ノモが凱旋登板【回想】敗戦処理。生観戦録-第23回 1996年(平成8年)編
これまで当blogで毎月2日に交互に掲載していた 敗戦処理。が生観戦した野球場が55ケ所の観戦球場を出し尽くしたので当面 敗戦処理。が生観戦したプロ野球- my only one game of each year 主体にいくことにし、また新たに初めての球場で観戦したら臨機応変にはさむようにします。
1974年(昭和49年)に初めてプロ野球を生観戦した敗戦処理。はその後毎年、途切れることなく数試合から十数試合を生観戦しています。そこで一年単位にその年の生観戦で最も印象に残っている試合を選び出し、その試合の感想をあらためて書いていきたいと思います。年齢不詳の敗戦処理。ですが同年代の日本の野球ファンの方に「そういえば、あんな試合があったな」と懐かしんでもらえれば幸いです。
【回想】敗戦処理。生観戦録- my only one game of each year第23回 1996年(平成8年)編
(写真:一回表にいきなり実現した野茂英雄vsイチロー)
1996年はこの年の日米野球。マッシーこと村上雅則の時代を別にすれば、現在に至る日本人メジャーリーガー誕生ラッシュの走りは野茂英雄。当時所属していた旧バファローズからロサンゼルス・ドジャースへの移籍の過程には問題があったものの野茂の大リーグでの活躍は日本で見守るファンの度肝を抜くとともに直近のストライキなどで今一つ盛り上がりに欠けていたMLBでも一躍大ブームになった。そんな野茂が日米野球にMLB選抜の一員として凱旋するというのだから、これは見逃す手はない。前売り開始と同時に、野茂の登板を勝手に第2戦と決めつけ、チケットを入手した。第1戦が金曜日で、試合開始から生観戦出来ないというのもあったが…。
そして当日、敗戦処理。の願い通り、野茂は第2戦の先発に回ってくれた。
全日本
(中)イチロー<BW>
(二)和田豊<T>
(右)松井秀喜<G>
(一)清原和博<L>
(指)大豊泰昭<D>
(遊)田中幸雄<F>
(三)小久保裕紀<H>
(捕)古田敦也<S>
(左)緒方孝市<C>
(投)木田優夫<G>
MLB選抜
(二)ノブロック
(中)フィンリー
(左)ボンズ
(右)シェフィールド
(捕)ピアザ
(一)ガララーガ
(遊)A.ロドリゲス
(指)フランコ
(三)シリーロ
(投)ノモ
この日は全日本が先攻。つまり、プレーボールになって即、野茂英雄VSイチローの対決が実現するのだ。野茂がメジャー移籍二年目ならば、イチローの方は年間200本安打の衝撃の大活躍から三年目。前年の阪神淡路大震災という逆境からブルーウェーブがリーグ優勝し、この年はリーグ二連覇とともに日本シリーズも制覇したメモリアルイヤーだった。
なお、写真に納めるのを忘れたが、この試合のスコアボード表記で野茂はノモと表示された。完全にMLBの選手として一目置かれた扱いである。ナイスだと思った。
英語と日本語による、一回表の守備につくメンバー紹介が行われ、八人の野手がすべてグラウンドに姿を見せてから、最後にノモが紹介されて東京ドームのマウンドに。この時、オーバーでなくスタンド360°からスタンディング・オベーションが起きた。
そして、ノモがマウンドであのトルネード投法といわれる独特のフォームで投球練習を始めると、今度は360°からカメラのフラッシュが!すぐに場内アナウンスでフラッシュをたいての撮影を注意するが、それでも若干減っただけ。
早くも場内のボルテージが極限近く沸騰するところに一番打者イチローが左打席に入ってプレイボール。ノモ対イチロー、ここに実現。
冒頭の写真をもう一度見て欲しい。初回の先頭打者だからもちろん塁上に走者がいないのだが、ネット裏やや三塁寄りという座席から撮影して、ノモのユニフォームの背中が見えるのである。ノモ自身、イチローとの勝負に渾身の力を振り絞っているのがわかる。結果は二遊間を破るセンター前安打でイチローにこの打席は軍配が。
ノモは結局3イニングを投げ無失点。松井秀喜をフォークで三振に仕留めるなど3つの三振を奪った。日本時代「平成の名勝負」とも言われたライオンズの主砲、清原和博との対決はショートライナー。
試合の方は全日本の先発、木田優夫から三回裏にMLB選抜が三連打で先制すると、五回には二番手の小宮山悟から前年、日本でチームメートだったフリオ・フランコが左中間に本塁打を放つなどで2点を追加した。
フランコはマリーンズでプレーしたときの同僚である小宮山に敬意を表して打席でヘルメットを脱いで小宮山に一礼。フレンドリーな雰囲気を漂わせながら初球を鋭く振り抜いた。フランコはマリーンズ時代、あまり初球から打ちに行くスタンスではなかったのだがそこを逆手に取ったフランコの頭脳的な一発だった。
MLB選抜は続く六回にも三番手の西口文也からアンドレス・ガララーガの2ランで2点を追加。5対0と一方的にリードを拡げた。
やられっぱなしだった全日本だが、七回表に四番清原が二番手のデニー・ネイグルからレフトスタンド中断に突き刺さる一発を放ち、溜飲を下げた。清原はライオンズの選手としてこの日米野球に出場していたが、オフのFA市場での移籍が確実視されており、この試合の翌日の日刊スポーツでも「来季の本拠ドームで堂々1周」と書かれている。
それでも1対5と全日本が不利であることに代わりはなかったが、この裏に登板した四番手の河本育之が1イニング11球、すべてストレート系のボールで勝負してくれたのも小気味よかった。ホアン・ゴンザレスに一発こそ食らったが、清々しい印象が残った。
【1996年11月2日】
全日本 000 000 100 =1
全米 001 022 10× =6
全日本)●木田、小宮山、西口、河本、赤堀-古田、伊東
全米)ノモ、○ネーグル、メサ-ピアザ、I.ロドリゲス
本塁打)フランコ1号(小宮山・5回)、ガララーガ1号2ラン(西口・6回)、清原1号(ネーグル・7回)、ゴンザレス1号(河本・7回)
ノモが投げた3イニングだけでお腹いっぱいになるような試合だったが、それだけでも充分に元が取れる試合だったと思う。次の1998年の日米野球ではその年に年間の本塁打記録を更新したサミー・ソーサの本塁打を生で観る機会に恵まれたり、2000年には佐々木主浩が凱旋登板したり、2002年にはイチローが凱旋出場したのを生で観たが、この年のインパクトには叶わない。
なお、この試合の翌日、日米野球が行われる年恒例の、パ・リーグ東西対抗とのダブルブッキングがあってセ・リーグ選抜対MLB選抜となったのだが、この第二戦に登板した西口と赤堀元之が予告先発と発表されている。18時6分に試合開始して2時間21分に終わった試合だったが、その日のうちに静岡に移動したのだろうか…?
最後に余談だが、この試合に「六番・遊撃手」として出場してノモから右中間に二塁打を放った田中幸雄だが、シリーズの途中で負傷し、松井稼頭央が途中から日米野球に加わった。途中参加の松井の詳しいプロフィールがMLB選抜サイドに渡るのが遅れMLB選抜のダスティー・ベーカー監督らに「あのMATSUIは誰だ?」と不思議に思われた。当初からメンバーに入っていた松井秀喜と区別する意味で松井稼頭央が「リトルMATSUI」と呼ばれ、注目を浴びるきっかけとなったのだ。
【参考資料】
1996ファン手帳(ファン手帳社刊)
読売新聞1996年11月3日付
日刊スポーツ1996年11月1日付、3日付
日米野球交流史(ベースボール・マガジン社刊)
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