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2011年7月12日 (火)

ライオンズクラシック2011と三原脩さんのこと

Cdsc_0245 今月9日からライオンズ恒例のライオンズクラシックがスタートした。ライオンズクラシック2011今年が西鉄ライオンズの初代監督、三原脩さんの生誕百周年に当たることから、三原脩さんの時代から連綿と続くライオンズの勝利のDNAを継承せよというコンセプトの元、三原脩という人物にスポットを当てるというもの。

ただ、この三原脩という人物、そもそもはジャイアンツの球団草創期のメンバーの一人であり、ジャイアンツで監督まで務めた人物。ライオンズ退団後も旧ホエールズや旧アトムズの監督を歴任したが、野球人としての最後のキャリアは日本ハムファイターズの球団代表。日拓から球団を買収した日本ハムの大社義規初代オーナーが球団運営を託した。

つまりライオンズ同様、ファイターズにとっても今日に至るまでの大恩人なのだ。

(写真:ライオンズクラシック初年度の企画で西武ドームで配布された、1958(昭和33)に西鉄ライオンズが日本シリーズでジャイアンツに三連敗から四連勝で日本一を決めた試合の西日本スポーツ1面の復刻版)

ライオンズ球団の初代監督としての三原脩さんの功績に関してはライオンズクラシックの特設サイトを参照していただくとして、そもそもはジャイアンツの球団草創期の主力メンバーの一人。日本で初めてプロとしての契約を結んだ選手であり、早い話が日本初のプロ野球選手である。ジャイアンツでは監督、総監督まで務めたものの退団。ライオンズ球団から監督として迎えられ、1956(昭和31)から1958(昭和33)までリーグ三連覇を果たし、古巣ジャイアンツとの日本シリーズをも三年連続で制した。1960(昭和35)には旧ホエールズ(現在のベイスターズの前身)の監督に就任し、前年には最下位だったチームをいきなり日本一に導いた。余談だがホエールズ、ベイスターズと続くこの球団の優勝はこの年と、「大魔神」こと佐々木主浩や、マシンガン打線といわれた打線の爆発で権藤博監督の下で日本一になった1998(平成10)の二度しかない。その後も旧バファローズや旧アトムズ(現スワローズの前身)で監督を務めた。

日本ハムの球団買収に当たっては三原さんは日本ハムと日拓の橋渡し的役割を果たし、買収成立に一役買ったと言われている。

1974(昭和49)に誕生した日本ハムファイターズでは球団社長を務め、大社義規初代オーナーから球団運営を任された。初年度は自身の娘と結婚した中西太を監督に就任させたが、二年間不成績で解雇し、後任に大沢啓二を指名した。ご存じ「大沢親分」である。三原&中西の義理の親子コンビはアトムズ時代の三原監督、中西打撃コーチというコンビに続いてだった。アトムズでは後に「小さな大打者」と呼ばれた安打製造器、若松勉の抜擢が評価されたが、ファイターズ球団ではめぼしい成果は見られなかった。

一見縁故優先の監督人事が故の不成績ととらえがちだが、球団買収の前年、1973(昭和48)に大社社長が畜産業界での長年の功績に対して紫綬褒章が送られた際の祝賀パーティーに同郷のよしみで出席していた中西から義父である三原を紹介された経緯があるので、三原中西体制は極めて自然なものであった。ただしかしこれを境に大沢新監督の下、旧東映フライヤーズの主力選手をことごとくトレードで放出し、球団のカラーを変えていき、1981(昭和56)のパ・リーグ優勝(二シーズン制の後期優勝、前期優勝の旧オリオンズとのプレーオフを制した)に結びつけていった。

ファイターズ球団の二代目監督としてパ・リーグ優勝も果たした大沢監督によると、三原球団社長とは一面識もなかったそうで、1975(昭和50)のオフ、ラジオ関東(現ラジオ日本)の解説者をしていた大沢はある日突然三原に「会いたい」と言われ、会いに行ったら監督就任要請を受けたそうだ。これまた余談だが、野球評論家としての大沢はこの1975(昭和50)の順位予想で主だった評論家の中でただ一人、長島茂雄が率いるジャイアンツの最下位を予想していた。大沢は何故自分に白羽の矢が立ったのかを結局知らなかったという。「監督を辞めたら聞いてみようか」と思っていたそうだが大沢監督退任後の翌1984(昭和59)26日、親分が真相を確認することなきまま三原さんはこの世を去った。

日本のプロ野球でゼネラルマネージャーという肩書きがついたOBは1995年のマリーンズの広岡達朗が最初で、それより前に根本陸夫がライオンズで管理部長という肩書きで球団の編成面を全面的に仕切ったのが1982年だったが、三原さんはそれより早く、選手OBとして球団代表、球団社長という肩書きでチームの運営を取り仕切っていた。もちろん昔はV9の川上哲治監督当たりはジャイアンツのオーナーが「大正力」こと正力松太郎から息子の正力亨に代わった時期には球団運営にまで権限を広めていたそうだが、公式に役職に就き、専念していたのは三原さんが最初だ。

球団代表、球団社長として初期のファイターズの礎を築いたのはもちろんのこと、球団を代表して出席した、かの「江川問題」の実行委員会では最後の最後まで正論をかざして巨人・江川卓誕生に抵抗したという。

ファイターズ球団がこのまま北海道のチームとしての歳月を重ねていくと、いつかは敗戦処理。のような後楽園球場からのファンはくたばり、ましてや日拓ホームフライヤーズ東映フライヤーズ時代の語り部などいなくなり、歴史上の出来事と一括りにされる時代が来るであろう。日本プロ野球初期の功労者、川上哲治と並び、赤バットの川上に対して「青バットの大下」と称された大下弘の名前は永く語り継がれても、ファイターズの前身の球団の選手だったことなど知らない人が多かろう。だが、日本のプロ野球はある日突然栄えたわけではない。有名無名を問わず幾多の先人達の多大な努力があって70年以上にわたり、継続しているのであり、これから先もそうでなければならないのである

ライオンズクラシックは素晴らしい試みであり、出来ればすべての球団がよい点も悪い点も含め球団史をファンとともに検証していくべきだと思うが、ファイターズもいつか実現して欲しい。三原脩さんも亡くなられ、大社義規初代オーナーも、大沢啓二元監督も亡くなられたが、中西太初代監督はご健在だ。セネタース時代の資料など既に散逸しているかもしれないが、これから先、さらに時を経れば、より資料の整理が困難になる。今ではパ・リーグの球団の親会社では日本ハムはロッテに次いで二番目に古いのだから、ロッテが前身の球団を含めて球団史を大切にするのを見習い、日本ハムもファンにわかる形でもうすぐ70年になる球団史を語り継ぐべきだと思う。

最後にライオンズクラシック2011におけるライオンズ対ファイターズ戦は89日から11日までの三連戦である。平日ナイトゲームであり、今のところ三原さんとファイターズ球団の繋がりに絡んだ企画があるのかないのか不明だが、何とか時間を取って試合を観に行きたいものである。

【参考文献】北海道日本ハムファイターズ球団史 ROADMAP to VICTORY 1973-2007(株式会社北海道日本ハムファイターズ)

P.S.

今日のオマケ

日本ハムファイターズとなって初年度の1974(昭和49)ファン手帳

Cdsc_19740252

Cdsc_19740250 右上に大社義規オーナーとともに「代表 三原脩」の名が。

Cdsc_19740250_2

 

 


7月13日追記
Neocino_I さんの指摘により、大下弘さんに関する記述の「黒バットの大下」を「青バットの大下」に修正。
失礼いたしました。つつしんでお詫び申し上げます。

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