復活桑田の力投に応えるMKアベック弾【回想】敗戦処理。生観戦録-第24回 1997年(平成9年)編
これまで当blogで毎月2日に交互に掲載していた 敗戦処理。が生観戦した野球場が55ケ所の観戦球場を出し尽くしたので当面敗戦処理。が生観戦したプロ野球- my only one game of each year 主体にいくことにし、また新たに初めての球場で観戦したら臨機応変にはさむようにします。
1974年(昭和49年)に初めてプロ野球を生観戦した敗戦処理。はその後毎年、途切れることなく数試合から十数試合を生観戦しています。そこで一年単位にその年の生観戦で最も印象に残っている試合を選び出し、その試合の感想をあらためて書いていきたいと思います。年齢不詳の敗戦処理。ですが同年代の日本の野球ファンの方に「そういえば、あんな試合があったな」と懐かしんでもらえれば幸いです。
【回想】敗戦処理。生観戦録- my only one game of each year第24回 1997年(平成9年)編
1997年はオシゴトが忙しかった年であまり多くの生観戦機会に恵まれなかったのだが、7月20日に神宮球場で観たスワローズ対ジャイアンツ戦を挙げる。この年のジャイアンツは前年にリーグ優勝を達成したにもかかわらず補強にどん欲で、まずこの年のFA戦線の目玉、清原和博を獲得。ついでマリーンズとの契約更新でこじれていた長身サウスポーのエリック・ヒルマンを金銭トレードで獲得。同じく契約更改で球団から提示された減額制限を超えた減額提示に不服でトレード希望を出してこじれていた旧バファローズの主砲、石井浩郎を石毛博史、吉岡雄二との交換トレードで獲得。右ひじの手術で前年一年間を棒に振った桑田真澄の復帰にもめどが付き、ドラフトでも即戦力と言われた亜細亜大学の入来祐作、秋田経法大付の小野仁、早稲田大学の三沢興一と即戦力の投手の獲得に成功。連覇に死角なしと思われた。しかし開幕すると開幕戦で三年連続完封勝利のエース、斎藤雅樹がこの年にカープからスワローズに移籍した小早川毅彦に三打席連続本塁打を浴びるなどスタートダッシュにつまずくと、その野村克也監督率いるスワローズが好スタートを切った。ジャイアンツは鳴り物入りで入団した清原の不振などもありなかなか浮上しない。そんな状況で迎えた神宮のゲームだった。この試合の前日までの状況ではスワローズが79試合を消化して49勝29敗1分けで勝率.628。二位のカープに8.5ゲーム差をつける堂々の首位。ジャイアンツは同じ79試合を消化して33勝46敗。勝率.418で最下位。5位のタイガースにすら4ゲーム差離され、首位のスワローズとは16.5ゲーム差…。
ジャイアンツ
(左)清水隆行
(二)仁志敏久
(中)松井秀喜
(三)石井浩郎
(右)広沢克己
(一)清原和博
(遊)元木大介
(捕)吉原孝介
(投)桑田真澄
スワローズ
(中)真中満
(二)辻発彦
(左)ホージー
(捕)古田敦也
(右)稲葉篤紀
(一)テータム
(三)池山隆寛
(遊)宮本慎也
(投)田畑一也
桑田は戦列に復帰したとはいえ、週に一回先発して五回から六回、投球数100球前後を目安に投げていた。今なら五体満足な投手でも不思議でないが、当時は「故障上がりだから仕方ないな…」という印象。開幕三戦目の東京ドームでの復帰登板で初回のマウンドに上がったときに、痛めた肘をマウンドにつけて復帰を噛み締めるポーズをしたのを覚えているファンも多かろう。
ちなみにこのポーズ。当時のチームメート、木田優夫がブルーウェーブに移籍してオープン戦でジャイアンツと対戦したとき、マウンドでまんまパクってジャイアンツベンチを爆笑の渦にした。周囲が騒ぐほど桑田が神格化されていないことを如実に表してしまった。
桑田を援護しようとジャイアンツは一回表に松井秀喜が田畑一也から先制2ラン。ライトスタンドの上段にライナーで突き刺さる打球だったと記憶している。スワローズも三回裏、この前年にライオンズから移籍してきた辻発彦がレフトスタンドに運ぶ2ランで2対2の同点に。
ジャイアンツは田畑から毎回走者を出すが追加点を奪えずにいたが、
五回表に元木大介の三塁を強襲するタイムリー二塁打で1点を勝ち越す。
桑田が六回まで96球を投げると、七回にジャイアンツが突き放す。先頭の松井がライトのフェンスを直撃する二塁打で出ると、四番の石井が猛打賞となる三本目の安打を放って一、三塁。一死後、六番に下がっている清原がセンターオーバーの3ランを放ち、盟友桑田の勝利投手の権利を強固なものにした。
オフの清原獲得時にはその三年前に同じFA制で移籍してきた落合博満がはみ出る形になった。落合は三年契約を満了していたが、ジャイアンツは落合との契約延長と清原獲得を両立させようとしていた。だが、清原獲得イコール清原を正一塁手と考えるジャイアンツの方針に落合は自由契約を申し出る。清原獲得で保険扱いされてプライドを傷つけられたのだろう。落合は自由契約となり、ファイターズに入団する。保険を失ったジャイアンツは前述の通り石井が獲得可能と見るや、石毛、吉岡を出して石井を獲得するのだが、保険がきいたのか、不振の清原に変わって石井が四番に入るケースが目立った。ただし石井も旧バファローズと契約でこじれた体調の不充分さから常時出場が出来ず痛し痒しだった。
桑田がノルマを果たした後はルーキーながら安定した投球を見せていた三沢が登板。点差もあったので最後まで投げ切らせようとしたが、最終回にスワローズの反撃に会い、あと一人まで行きながら持ちこたえられず木田のリリーフを仰いだ。三沢から反撃の本塁打を放った小野公誠はプロ初打席初本塁打だった。小野は2008年に引退したが現役最後の打席も本塁打で、最初も最後も本塁打だった。
【1997年7月20日・神宮球場】
G 200 010 400 =7
S 002 000 002 =4
G)○桑田、三沢、S木田-吉原
S)●田畑、山本、広田、川崎、野中-古田
本塁打)松井25号2ラン(田畑・1回)、辻2号2ラン(桑田・3回)、清原15号3ラン(広田・7回)、小野1号2ラン(三沢・9回)
試合後、球場を出てJR千駄ヶ谷駅に向かう敗戦処理。の前を横切るかのように、車の通りの激しいスタジアム通りに飛び出す女性がいた。酔っぱらっているのかと周囲を唖然とさせると、信号待ちしている車のブラインドが下がり、サングラスをした桑田の姿が。サングラス姿を晒す当たり、顔見知りのファンなのか、衆人環視の中でその女性は桑田にプレゼントを渡していた。
ジャイアンツはこの試合に勝って、それでもスワローズとの対戦成績は5勝12敗。開幕戦の小早川三連発から、徹底的にカモにされた。前年の1996年には首位のカープと11.5ゲーム差離されながら逆転優勝し、長嶋茂雄監督が発した「メークドラマ」が流行語大賞に選ばれたりもしたが、この年はシーズン半ばにしてそれ以上のゲーム差を広げられた。余談だが「メークドラマ」と「メークミラクル」を混同している人が少なくないようだが、前者は1996年に長嶋監督が発したフレーズだが後者は、その「メークドラマ」の時の最大ゲーム差である11.5ゲーム差を超えたときにその事を指摘された当時の渡邉恒雄オーナーが「『メークドラマ』を超えた?まだ『メークミラクル』があるだろう」と答えたのが流布されたものだ。
両リーグはこの翌日で前半戦を終了し、オールスターゲームへ。24日の第二戦ではこの日と同じ神宮球場でセントラルの四番松井と、七番の清原がやはりアベック弾。特に清原は二回と四回に二打席連続本塁打と、球宴後の公式戦再開後に復活の期待をふくらませたが、結局この時が一番盛り上がった様な感じだった。ただ敗戦処理。としては当時ファイターズのエース級だったキップ・グロスが一人でMKにアベック弾を打たれたので心中穏やかではなかったが…。
この年、スワローズはリーグ優勝を果たし、日本シリーズでも東尾修監督が率いるライオンズに勝ち、日本一になった。一方でジャイアンツは4位に落ち、この年から三年間、優勝から遠ざかる。
もう一度この日のスタメンを観て欲しい。
スワローズは野村ID野球の円熟期という時代だったが、四番の古田が後に兼任監督を務めたのを始め、外国人選手と今も現役の選手を除き、引退後はコーチになっている。田畑はコーチでなくジャイアンツでスコアラーをやっているがいずれにせよ現役生活を終えても球界に残っている。
一方のジャイアンツのスタメン9人は大リーグでプレイを続けている松井を除けば皆、現役生活を終えているがジャイアンツで現役生活を終えたのは元木大介だけである。拙blog5月6日付エントリー おめでとう!小笠原道大が2000本安打達成 でも触れたように三顧の礼を持って迎えられた選手であってもジャイアンツで選手生活を全う出来る例は少ないのだ。1990年代をスワローズの時代とくくる向きも多いようだが、この試合のメンバーを比較するとむべなるかなと思える。
【参考資料】
1997ファン手帳(ファン手帳社刊)
‘97プロ野球12球団全選手百科名鑑(日本スポーツ出版社)
読売新聞1997年7月20日付、21日付
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント