初めて生で観た甲子園球場での伝統の一戦…【回想】敗戦処理。生観戦録-第25回 1998年(平成10年)編
これまで当blogで毎月2日に交互に掲載していた 敗戦処理。が生観戦した野球場が55ケ所の観戦球場を出し尽くしたので当面 敗戦処理。が生観戦したプロ野球- my only one game of each year 主体にいくことにし、また新たに初めての球場で観戦したら臨機応変にはさむようにします。
1974年(昭和49年)に初めてプロ野球を生観戦した敗戦処理。はその後毎年、途切れることなく数試合から十数試合を生観戦しています。そこで一年単位にその年の生観戦で最も印象に残っている試合を選び出し、その試合の感想をあらためて書いていきたいと思います。年齢不詳の敗戦処理。ですが同年代の日本の野球ファンの方に「そういえば、あんな試合があったな」と懐かしんでもらえれば幸いです。
【回想】敗戦処理。生観戦録- my only one game of each year第25回 1998年(平成10年)編
(写真:試合開始直前の甲子園球場のスコアボード)
1998年、敗戦処理。は初めて甲子園球場での伝統の一戦を観る機会に恵まれた。今も当時も東京に住んでいる敗戦処理。としてはドーム球場以外の「遠征」には雨天中止というリスクを考えると慎重にならざるを得ない。当時はまだ十二球団の本拠地完全制覇を目標にしており、福岡ドーム、大阪ドーム、グリーンスタジアム神戸の観戦を済ませ、あとは甲子園球場とナゴヤドームと広島市民球場であった。甲子園球場と広島市民球場は雨天中止となると、試合のチケット料金は払い戻しされても交通費は戻らない。しかし意を決して、当時甲子園球場に隣接していた甲子園都ホテルの「野球観戦付き一泊プラン」に申し込んで、4月25日(土)のタイガース対ジャイアンツ戦を生観戦出来ることになった。席はライトに近い一塁側内野席。当時はブルペンが現在の神宮球場のように内野のファウルゾーンにあり、目の前にタイガースの投手達がいた。もちろん一塁側なので四方八方タイガースファンに囲まれての観戦。周りはこんな人達ばかりである。
ジャイアンツ
(三)ガルベス
(左)清水隆行
(一)石井浩郎
(中)松井秀喜
(二)ダンカン
(右)高橋由伸
(遊)川相昌弘
(捕)村田真一
(投)チョ・ソンミン
タイガース
(中)坪井智哉
(二)和田豊
(三)ハンセン
(左)平塚克洋
(一)大豊泰昭
(右)桧山進次郎
(捕)山田勝彦
(遊)星野修
(投)クリーク
※ ガルベスはいわゆる偵察要員。一回表の打席には代打、元木大介が入り、そのまま三塁の守備についた。
試合が始まってまず驚いたのは、目の前のタイガースのブルペンで、複数の投手が既にピッチを上げて投球練習をしていたこと。この当時既に観客席からブルペンを観ることが出来ない球場が多くなっていたが、観客だけでなく登板中の投手からも見えてしまう投球練習。試合開始早々に本腰を入れた投球練習を始められたらマウンドの投手はどういう気持ちになるのか?それとも当然の備えなのかなと不思議に思っていたら、意外と早く必要性がやってきた。
タイガースの先発、左投手のダグ・クリークは一死から清水隆行に安打を打たれ、三番の石井浩郎を打ち取ったものの四番の松井秀喜、五番のマリアーノ・ダンカンに連続四球を与える不安な立ち上がりで、六番の高橋由伸を迎えた。すると早速タイガースファンから激励の声というかヤジが飛んだ。「初球気をつけな、アカンで」。高橋はこの年、ルーキー。開幕スタメンを果たしそのままレギュラーとなって活躍したが開幕一ヶ月足らずでその特徴が宿敵チームのファンにまで浸透しているとは…。
しかしそのファンの激励が届かなかったのか高橋は初球をセンター前にはじき返してジャイアンツは幸先良く2点を先制した。
驚いたのはこの後、ベンチから吉田義男監督と木戸克彦バッテリーコーチが同時に出てきてクリークに早くも見切りを付けたのだ。
後からわかったのだが、クリークは当時KO続きで、この試合がいわばラストチャンスだったようで制球の不安定さから早々に見切りを付けられたようだ。後日、クリークは二軍落ちし、代わって後にジャイアンツでもプレイしたダレル・メイがローテーションに加わった。
二番手はルーキーの山岡洋之。なんとか山岡は川相昌弘を二ゴロに打ち取ったが、名手・和田豊がお手玉し、二死満塁。八番の村田真一がライト前に運んでさらに2点。ここで投手のチョ・ソンミンを打ち取ればまだよかったのだが、チョ・ソンミンもライトにタイムリーで5対0。
この回二打席目となる元木大介もライト前安打で6対0となると、タイガースベンチは山岡を諦めて早くも三番手のベテラン・古溝克之を送ったが、古溝も清水、石井に連打を浴びてジャイアンツは一回表に9点を挙げた。
これが東京ドームなら諸手を挙げて大喜びできるのだが、前述の通り四方八方をタイガースファンに囲まれている甲子園球場の一塁側内野席。感情を表に出さぬよう必死に我慢した<苦笑>。
これだけでもお腹いっぱいなのに、ジャイアンツは二回表も攻撃の手をゆるめない。
古溝に対して、一死から高橋と川相が連続二塁打、村田真は三塁打と縦横無尽にジャイアンツナインがダイヤモンドを駆け巡り、タイガースファンのイライラが最高潮に達する中、打席には投手のチョ・ソンミン。この時点で11対0。普通なら投手が打席に立ったらもう打たないところだが、チョ・ソンミンはファウルで粘った末、しっかりとライトに犠牲フライ。しっかりと12点目を入れた。
報道によるとこのイニング、一塁側タイガースベンチ後方のスタンドから発泡スチロール製容器に入れられたどんぶり飯がグラウンドに投げられたという。くわばらくわばら。
チョ・ソンミンはジャイアンツが1996年に獲得した韓国籍の投手だが、当時23歳と若かったことと先々、韓国球界とのパイプを太くしたいとの深謀もあって異例の8年契約を結んだ。FAで獲得した広沢克己や清原和博との契約が5年契約。FA取得一年前のオフに松井秀喜に対してジャイアンツが提示したのが7年契約といわれているから、いかにその契約が長かったかがわかるだろう。
入団二年目の1997年にはシーズン途中からクローザーとして1勝2敗11セーブと結果を出し、この年は先発投手として期待され、一時はチームの勝ち頭になるなど活躍してオールスターのメンバーにも選ばれたが、この時既に右肘を痛めており、オールスターでの登板が致命的になったようでその後は故障に泣かされた。2000年には当時の韓国の人気女優で、「韓国の藤原紀香」と例えられることもあったチェ・ジンシルさんとの結婚も話題を呼んだ(2004年に離婚)。結局契約を一年残して2002年のシーズン限りで退団した。
在籍七年間で11勝10敗11セーブ、防御率2.84という数字は中途半端で期待に応えたとは言い難かったが、この試合で見せたように打撃へのこだわりはなかなかで、通算で47打数15安打、0本塁打、6打点で打率.319は特筆ものだ。アレックス・ラミレスですらジャイアンツ在籍の昨年までの三年間の打率が.315に過ぎず、同じ七年間在籍のウォーレン・クロマティの通算打率.321には劣るものの、ジャイアンツの歴代外国人選手(在籍三年以上)の中では二番目の高打率だ!
この後、ジャイアンツ打線が空気を読んだのか、ベンチ前に飯粒をぶち蒔かれてタイガースの投手陣が奮起したのか、落ち着いた試合になった。そして観る方も、そしてやっている方も<!?>だらけかけた九回表、そんなスタンドに喝を入れるべく長嶋茂雄監督が代打に清原和博の名を告げた。
この時の清原は左大腿四頭筋肉離れが完治せずスタメン欠場が続いていたが、翌日が日曜日というのに「今日はもういいよ…」とばかりにスタンドが寂しくなっているのを気にした長嶋監督が甲子園のタイガースファンも一目置く清原を代打に送ったのだ。さすがにスタンドは沸いた。
清原も全力疾走が出来ないのだから、大きいのを打つしかなく、当時接戦でよく起用されていた伊藤敦規から左中間に高く上がる本塁打を放って長嶋監督の起用に応えた。
清原は晩年こそ代打での登場が多かったが、この一発はライオンズ時代を通じて13年目で初の代打本塁打だった。
最後に清原の代打本塁打というスペシャルサプライズまで観ることが出来、敗戦処理。の初の甲子園球場での伝統の一戦生観戦は言うことのない快勝に終わった。あとは表情に出さず、甲子園都ホテルに逃げ込むだけだ。
【1998年4月25日・甲子園球場】
G 930 000 001 =13
T 000 001 010 =2
G)○チョ・ソンミン、入来-村田真
T)●クリーク、山岡、古溝、井上、竹内、伊藤-山田
本塁打)清原2号ソロ(伊藤・9回)=代打
甲子園都ホテルは普段は普通のシティホテルなのに、伝統の一戦の時だけガラリと雰囲気が変わるのだという。たしかに帰宿時、上から下までタイガースファンとわかる出で立ちの若者にエレベーターで一緒になった。長嶋監督は「勝負は家に帰って風呂に入るまでわからない」と言ったそうだが、ホテルの自室に入るまで試合は終わっていない事を痛感した。
近鉄グループだった甲子園都ホテルはその後、外資系「アコーホテルズ」グループの「ノボテル」の日本進出一号店となった。
この試合は敗戦処理。にとっては阪神甲子園球場で観戦した初めてのプロ野球であるが、残念ながらその後、甲子園でこのカードを観ていない。2007年に交流戦-タイガース対ファイターズ戦を観たのがその後唯一の甲子園でのプロ野球生観戦だ。昨冬、貴重にも甲子園球場のグラウンドに降りる機会に恵まれたが、またいつか、伝統の一戦を観てみたいものだ。
【参考資料】
1998ファン手帳(ファン手帳社刊)
スポーツ報知1998年4月26日付
G OF THE YEAR 2011(読売巨人軍)
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コメント
多摩虫様、コメントをありがとうございました。
> 当時は余り野球を観ていませんでしたが、ロゴやらユニフォームやら両チームを取り巻く環境やらに時代を感じますね…。ファンの熱さは時代を問いませんが。
写真がアナログなので余計にそう見えるのかも…
昔ながらのネガフィルムをスキャナーで読み込んだものです。清原の本塁打を撮影したフィルムはセピア色のフィルムでした<苦笑>。
> 話変わって、本日の伝統の一戦。實松の勇姿を見届けるべく急遽ドームに乗り込みましたが、更にとんでもないものを見せられる結果となりました<苦笑>
おぉぉ、生観戦されていたのですか!羨ましい。
本当に野球は何が起きるかわかりませんね。
> まあ色々と文句を言いたくなる部分もありましたが、古城は2安打、實松も打率5割キープ。この二人も「もってる」んでしょうねえ、佑ちゃんとはまた違う何かを…
恥ずかしながら、「茂ちゃんフィーバー」って何のことだかワカリマセン<苦笑>。
實松は、内海登録の代わりに靏岡が抹消されたため捕手二人制になって今日からますます出番が減ります。
次回、トーレス先発の時には出られるのでしょうか?
投稿: 敗戦処理。 | 2011年8月 5日 (金) 00時36分
当時は余り野球を観ていませんでしたが、ロゴやらユニフォームやら両チームを取り巻く環境やらに時代を感じますね…。ファンの熱さは時代を問いませんが。
話変わって、本日の伝統の一戦。實松の勇姿を見届けるべく急遽ドームに乗り込みましたが、更にとんでもないものを見せられる結果となりました<苦笑>
まあ色々と文句を言いたくなる部分もありましたが、古城は2安打、實松も打率5割キープ。この二人も「もってる」んでしょうねえ、佑ちゃんとはまた違う何かを…
投稿: 多摩虫 | 2011年8月 3日 (水) 23時54分