巨人軍正力亨名誉オーナー逝く
正力亨名誉オーナーは、日本プロ野球の創設者、「プロ野球の父」と言われた故正力松太郎氏の長男。ジャイアンツのオーナー職を引き継いだほか、読売新聞社や日本テレビ放送網などの企業でも父の要職に就任していた。正力松太郎氏は他にもテレビ放送や原子力を日本に本格的に導入させた人物であり、「大正力」と言われる一方、息子の亨氏はどうしても「小正力」と揶揄されがちだった。
実際経営者としては奇妙な言動で周囲の首をかしげさせたことも少なくなかったそうだが、読売グループの中で誰よりも監督としての長嶋茂雄を愛し、また、王貞治の監督としての能力も高く評価しているという。それは一説には1964年から球団オーナーを務めていた自分の存在を軽視し、退任した父「大正力」にばかり目を向けていた川上哲治監督への対抗心の裏返しとも言われていたが、正力亨オーナーがONやジャイアンツ、プロ野球を心底愛する人物だったことは大筋で間違いないようだ。
冒頭に1996年のジャイアンツのデータブックの写真を載せた。今でいうオフィシャルガイドブックで、年一回発行されている。その後マスコミだけでなくファンにも親しまれやすい体裁に代わり、「MEDIA GUIDE 20XX」と名を変え、今年は「G OF THE YEAR 2011」と変遷している。在籍選手一覧、前年の成績、球団の歴史や通算記録などで構成される球団の公式な資料である。正力亨オーナー最後の1996年版と、渡邉恒雄オーナー初年度の1997年版を見比べると、冒頭の「ご挨拶」を書くオーナーが代わっている以外は大きな変更は無いように見受けられるが、実は正力亨オーナー時代には掲載されていたものが削除されている。
それは正力松太郎の遺訓と巨人軍憲章である。
遺訓
巨人軍は常に紳士たれ
巨人軍は常に強くあれ
巨人軍はアメリカ野球に追いつき、そして追い越せ
巨人軍憲章
東京読売巨人軍のわれらは、名誉あるユニフォームを何よりも
誇りとする。
――それは、チームの伝統と歴史の神聖な象徴であるからだ。
東京読売巨人軍のわれらは、最高の肉体的コンディションを保
ち、精神の錬磨につとめる。
――それは、フェアプレーおよびスポーツマンシップを通じて、
健全なプロ野球の高度の技術を大衆に公開する義務があるからだ。
東京読売巨人軍のわれらは、日本プロフェッショナル野球協約、
セントラル野球連盟およびチームの諸規則をきびしく守る。
――それは、公私にわたる生活と行動を正す道であり、
ユニフォームの栄光を汚さぬ良心の鏡であるからだ。
前年までの正力亨オーナーの父、正力松太郎が残した遺訓と憲章はジャイアンツがジャイアンツであるために、選手はもちろん関係者全般、そして広義に捉えれば我々ファンを含め常に頭の片隅に置いておきたい文言と言えるが、渡邉恒雄オーナー(現会長)は就任するやいなや、球団公式の冊子から削除した。
ちなみに1996年版では表紙をめくると、オーナーの挨拶の次のページに「正力松太郎の遺訓と巨人軍憲章」が掲載されており、次が公式戦日程表で、目次が続くのだが、1997年版からはオーナーの挨拶の次にすぐ日程表で、目次と続く。最新版の「G OF THE YEAR 2011」では滝鼻卓雄オーナーの挨拶の後は前年度のハイライトシーンの画像が並び、日程表、目次と続く。
渡邉恒雄オーナーは正確には1996年の暮れにジャイアンツのオーナーに就任しているが、実質的にはその数年前からジャイアンツのトップに君臨しており、1993年シーズンからの長嶋茂雄監督復帰や、逆指名ドラフトや、フリーエージェント制導入に暗躍したと言われているから正力亨オーナーが実質的な権限を失っていたのは退任より前だと言われている。
それでもオーナー職退任後も、当時は耳慣れなかった「名誉オーナー」にとどまったり、読売新聞社の組織改革で2002年6月からグループ制に移行してからも「読売新聞本社グループ社主」にとどまるあたりは「大正力」の威光はすさまじいと思う。
その2002年6月の読売新聞社の組織改革では球団の名称が「東京読売巨人軍」から「読売巨人軍」に変更し、それに伴ってジャイアンツのビジターユニフォームから「TOKYO」の文字が消え、「YOMIURI」となった。別にビジターユニフォームに球団の親会社名が入ることは珍しいことではないが、この時期はいくつかの球団で企業名からニックネームに変更されるなどの動きがあり、また地域密着で球団名の頭にホームタウン地域名を入れる球団名が増えていた時期に真逆の動きをしていたことと、主にネットなどでアンチ派が球団の蔑称として「讀賣」を用いていたことからファンの反発を買った。滅多なことでは選手や球団を批判する横断幕が掲げられることなど無い東京ドームのライトスタンドに「俺たちは讀賣ファンではなく巨人ファン」、「正力の遺産を食いつぶすな」などの横断幕が掲げられ、短い寿命でYGマークに変更され、現在ではホームと同じ「GIANTS」に統一されている。
正力色が排除されてからの球団フロントの暴走とも思える動きは敗戦処理。のような古いファンばかりでなく、若い、新しいファンをも困惑させていることは想像に難くない。テレビ視聴率の低下、それどころか地上波放送の激減。そしてなかなか売り切れない東京ドームのチケットと、ファンはイエローカードをとっくに提示しているのに気付かない球団。
余談だが、正力亨名誉オーナーはオーナー当時、毎年の年頭にその年のモットーを発表していた。これが当時、発表されると話題になったものであった。一部を抜粋する。
1965年(昭和40年) ハンドリング!! 勝利の花道を歩もう
1967年(昭和42年) 甘えるなおぼれるな 立場をよんで信頼にこたえよう
1968年(昭和43年) きびしさのなかからしあわせをつかもう
1969年(昭和44年) コンセントレーションとエフォート
1979年(昭和54年) 厳しくあれ しかし 明るさを忘れるな
1981年(昭和56年) 哲理と方針に生きよう
1984年(昭和59年) 経過は大切だ しかし 結果がすべてだ
1989年(平成元年) 目を輝かせ ガッツで決めよう
1996年(平成8年) 初一念を貫こう
いやはや…当時の選手達は大変だったことだろう。
最後に、まだ未確認だがジャイアンツは16日のドラゴンズ戦(ナゴヤドーム)で喪章を付けてプレイするだろう。亡くなられたのは名誉オーナーだけだろうか。名誉オーナーのお父さんの代から受け継がれるべきものも失っていることに気付いて欲しい。
【参考文献】
「1996年 ジャイアンツ・データ・ブック」(東京読売巨人軍出版編集部)
「1997年 ジャイアンツ・データ・ブック」(東京読売巨人軍広報部)
「G OF THE YEAR 2011」(読売巨人軍広報部)
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コメント
長緯様、コメントをありがとうございました。
> この話題については、敗戦処理。さんには私の思いを何回かぶつけてあるので、正力元オーナーの訃報に併せていまさら書き込ませていただくのも鬱陶しくて失礼と思いますが、
そんなことはありません。せっかくですから、拙blogにお付き合いいただいている皆さんにも訴えていただいて。
> 近年、ジャイアンツはオールドユニフォーム復刻で「TOKYO」を復活させたこともありますし、球団内部にも今のジャイアンツの人気低迷の要因がどこにあるかを分かっている人も少なからず存在して居ると思います。
その人たちよりも、はるかに物事を分かっていない人たちが、「讀賣巨人軍」を運営し、野球会社であるにもかかわらず「讀賣新聞のための巨人軍」という論理に支配されている現状。
名誉オーナーはとっくに実権を奪われているでしょうが、その存在を以て、古き良き巨人軍を少しでも…と考えている人が球団内部にいると信じたいのですが、そういう少数派の拠り所というか、バックボーンがこれで根絶されてしまうのであれば残念です。
投稿: 敗戦処理。 | 2011年8月17日 (水) 22時04分
この話題については、敗戦処理。さんには私の思いを何回かぶつけてあるので、正力元オーナーの訃報に併せていまさら書き込ませていただくのも鬱陶しくて失礼と思いますが、江川事件や桑田単独指名など他球団ファンから憤慨を受けることを行いながらも、巨人軍憲章を前面に出していたことからも正力元オーナーは「伝統」の一線だけは守っていた気がします。
近年、ジャイアンツはオールドユニフォーム復刻で「TOKYO」を復活させたこともありますし、球団内部にも今のジャイアンツの人気低迷の要因がどこにあるかを分かっている人も少なからず存在して居ると思います。
その人たちよりも、はるかに物事を分かっていない人たちが、「讀賣巨人軍」を運営し、野球会社であるにもかかわらず「讀賣新聞のための巨人軍」という論理に支配されている現状。
まぁ、ダメな企業の典型と言えばそれまでですが・・・
投稿: 長緯 | 2011年8月16日 (火) 23時27分