柳田真宏は「巨人軍史上最強の5番打者」だったのか?
スコラマガジンから発行された「スポーツ選手 この異名がすごい!」を読んだ。野球、サッカー、ゴルフ、格闘技など様々なジャンルのスポーツ選手に付けられた異名の数々を特集した一冊だ。それこそ「ハンカチ王子」もあれば、「打撃の神様」も…。それぞれ対象となる選手、チームの特徴を多少の大袈裟さも含めながらよく特徴を捉えており、ファンに浸透したものばかり。
中で特に目を引いたのが、元ジャイアンツでV9時代から長嶋茂雄監督の時代に活躍した柳田真宏の「巨人軍史上最強の5番打者」。それまで主にレギュラーというより代打要員だった柳田が、1977年のシーズンに張本勲、王貞治のOH砲の後ろを打つ五番打者として大ブレーク。その活躍に長嶋監督が「巨人軍史上最強の5番打者」との異名をつけたのだ。
同書には現在の柳田に対するインタビュー記事も掲載されている。懐かしいエピソードなどに触れながら考えた。柳田真宏は「巨人軍史上最強の5番打者」だったのか?
(写真:総勢200人以上のスポーツ選手の異名が掲載されている「スポーツ選手この異名がすごい!」 スポーツ新聞の一面の体裁に見えるが、書籍です。)
柳田真宏-西鉄ライオンズの選手だったが、ジャイアンツに移籍。柴田勲、高田繁、末次利光(民夫)が外野の定位置を獲得したV9時代に代打の切り札的存在で頭角を現す。長嶋監督初年度の1975年に王が肉離れで開幕からスタメンを離れた際には不慣れな一塁手のポジションで必死にプレイした。1977年の開幕前の練習中、柳田の放った打球が外野でランニングしていた末次の左目を直撃してしまい、末次が長期離脱を余儀なくされると、結果的に代役を務めることになった柳田がこの年、自身最初で最後となる年間の規定打席に達し、主に張本、王のOH砲の後ろを打つ五番打者として打率.340、21本塁打、67打点とブレーク。長嶋監督から「巨人軍史上最強の五番打者」との異名を頂戴した。しかし翌年には二塁手として獲得したジョン・シピンが外野に回るなどの余波で再び代打要員に逆戻り。1979年シーズン後にはトレードで阪急ブレーブスに移籍するが、一年でジャイアンツに復帰した。1982年シーズンを最後に現役引退。打撃だけでなく、歌も上手く、春季キャンプのフリータイムに宿舎ホテルのラウンジで歌っていたところ、長嶋監督から「歌は四番打者」とお墨付きをもらった。コーラスグループ、敏いとうとハッピー&ブルーに所属したことも。またフジテレビ系「笑っていいとも」のテレフォンショッキングに出演した際にはタモリの前で川上哲治監督のモノマネを披露するなど度胸が据わっていた。(写真は大ブレイクの前年、1976年のカルビーのプロ野球カード)
長嶋監督自体が目立つ存在だったこともあり、長嶋監督によるネーミングはメディアで大きく捉えられるものが多い。それは長嶋茂雄だからなのである。それゆえに―柳田真宏は「巨人軍史上最強の5番打者」だったのか―と検証すること自体が本来はナンセンスなのだが…
一応誤解の無いように断っておくが、柳田がこの異名をもらったのは1977年の活躍に対してだから、1978年以降に素晴らしい活躍をした5番打者がいたからといって、柳田に対する評価や名付け親の長嶋監督が批判される筋合いはない。では柳田以前にジャイアンツの5番打者を務めた選手の成績と柳田の成績を比較検証をすればよいかというと、本エントリーの趣旨はそうではない。
重要なことは柳田がこの年の活躍で長嶋監督から「巨人軍史上最強の5番打者」との異名をもらったという事実が、その活躍期間の短さとは無関係に、今も「あの人は今…」的な企画で柳田が特集されたり、野球ファンが酒の席で野球談義をする際にたまたま柳田の話題になった時に「かつて長嶋監督に『巨人軍史上最強の5番打者』と言われた柳田」と、ほぼ間違いない高確率で形容されるということだ。
これは柳田真宏という野球人の存在感によるものだけでなく、長嶋茂雄という人物の、それこそ異名力によるものが大きいと敗戦処理。は思う。
長嶋茂雄が口にして、それがメディアに載れば、それはもう異名であり、物によっては長く伝え続けられるのである。
例えば、今では野球中継などで普通に使われる「勝利の方程式」も長嶋茂による造語だ。1994年の監督時に、リードした試合の八回を橋本清、九回を石毛博史に託す継投策を長嶋監督が「橋本、石毛はウチの『勝利の方程式』ですから」とマスコミに言い続けた物がいつしか定着したのだ。これが例えば同じジャイアンツの監督でも異名力に乏しい王貞治だと、勝負所で鹿取義隆をリリーフに投入するお決まりのパターンを持っていても「王(ワン)パターン」と揶揄されがちなのである。
もちろん、「方程式」と聞くと数学を連想するが、長嶋監督の独特の言語感覚というか、投手起用の定番パターンを「方程式」というフレーズにするのは本来の使用法にはそぐわない。正直敗戦処理。も当時初めて聞いた時は「またオカシナこと言ってる」程度にしか思わなかった。実際、この1994年を最後にライオンズの監督を退任した、森祇晶は「野球において『勝利の方程式』なんてものはありえないですよ」と真っ向から否定した。森監督の退任時、リーグは異なるが長嶋野球と比較され、「面白くない野球」、「華のない監督」のレッテルを一部マスコミなどから貼られていた。退団を決意して臨んだ長嶋ジャイアンツとの日本シリーズで王手をかけられていた第六戦の試合前にオーロラビジョンのニュース速報で「森監督退団へ」と書かれたその心境は察するにしても、このフレーズに対する難癖は森祇晶という男の器を敗戦処理。には感じさせざるを得なかった。
監督としての名将ぶりに関しては多くの野球ファンが長嶋より森を上と評価するだろう。敗戦処理。も例外ではない。だが自軍の継投パターンを「勝利の方程式」と名付け、流布する長嶋のセンスを肯定できないようでは、監督時代ならともかく評論家としてやっていくにはきついだろうと思ったからだ。それが証拠に「勝利の方程式」なるフレーズは今やどこの球団の試合で実況アナが使用しても違和感がないくらい定着した。それどころかどんなチームでも「勝利の方程式」を組んでおり、いかにしてそこまで導いていくかが勝敗の鍵になっている。
ライオンズ監督退任後、NHKと日刊スポーツ、週刊文春などで評論活動を行っていた森の野球評論は当初はなるほどとは思わされても、だからなんなの?と感じるものが多かったが、いつしかファン目線に立ったものが多くなっていった。評論家転身直後、意外性を買われたのか広末涼子のデビューCMの共演相手に抜擢されるなどで悪い虫、もとい世間のレベルに合わせることを覚えたのか、ベイスターズの監督に就任する前頃には聞きやすい解説者になっていた。
「メークドラマ」、「くせもの」、「球音を楽しむ日」…長嶋茂雄が発したというだけでメディアで流布され定着したフレーズが多いのはそれが長嶋茂雄によるものだからだとしか言い様がない。もちろん中には「ウルフ」(高橋由伸のニックネーム)、「史上最強打線」(2004年のジャイアンツのホームランバッターばかりを並べた打線)など例外もあるが…。
同書の柳田真宏へのインタビューは「プロ野球ナイト」にも何度も出演している中島勇二&ヨシノビズムの両名が担当している。入団当初の西鉄ライオンズや、鉄の規律で固められていたと巷間伝えられているV9時代のジャイアンツでも奔放に振る舞っていたエピソードなどが本人の語りという形で再現されていて大変興味深い内容だ。両名、特に中島氏は大のファイターズファンであるというのもまた味わい深い。もちろんこの両名が構成しているので、あの矢野顕子がリリースした知る人ぞ知る「行け柳田」も内容と関係なく<!?>紹介されている(あのレコード、探せばウチにもあるはずなのだが…)。
柳田以前、例えばV9時代にはONの後を打つ5番打者を固定させるために当時のジャイアンツは他球団からトレードで好打者を獲得していた。もちろん当時はFA制度がなかったから、獲得できるのは既にピークを過ぎている選手が主だった。また当時のジャイアンツは純血主義を貫き、外国人選手を助っ人として獲得しなかった。それゆえ5番打者は毎年ころころと変わった。末次が定着したのはV9の終盤。それゆえに長嶋監督には1977年の柳田の5番打者としての活躍に「巨人軍史上最強の5番打者」の異名を付けるのに躊躇なかったのであろう。
そして柳田以後、吉村禎章、高橋由伸、阿部慎之助ら5番打者として一定の活躍をした選手がジャイアンツから出ているが、柳田を覆す、あるいはそれに匹敵する異名を付けられた選手はいない。吉村はあの大怪我がなければ…と残念であるが、いずれにせよ、その後出ていない。
皮肉な見方をすれば、ON砲の後ろを打つ選手や、OH砲の後ろを打った柳田はある意味、5番打者が最終点。OHに割って入って三番、四番を打つことをファンは期待していなかったし、そうなればOH砲の一角にアクシデントがあったことになり素直に喜べない。だから「巨人軍史上最強の5番打者」になり得たのかもしれない。前述の吉村、高橋由、阿部らは5番打者定着が最終点ではないと多くのファンが思っているのだろう。大相撲で名大関と呼ばれている元大関は、横綱昇進を確実視された存在ではなく、体格、昇進時の年齢などで大関という地位が最終点と暗黙のうちに共通認識とされていた力士が多いのではないか。それと同じ事である。
アレックス・ラミレスがジャイアンツの四番打者としての連続出場記録を更新し、今季こそ絶不調だったもののその間、不動の三番打者として小笠原道大がほぼ固定されていた「オガラミ」全盛の時期に不動の五番打者が出ていれば柳田並みの異名が付けられる選手が出たかもしれないが、阿部は捕手業優先で打順を控えめにされたり、高橋由は故障がちで常時出場しないなど一本化されなかった。巨大戦力故の贅沢な悩みという面もあったろう。
ましてや小笠原だろうとラミレスだろうと下位打線に降格させられる昨今のジャイアンツ打線では監督自身の異名力の差があって、新たな異名は生まれにくい。当の本人が「もよおしてきた」等と、およそセンスのかけらもないのだから、ジャイアンツのこれからの選手達は自分の実力でスターダムにのしあがるしかあるまい。少なくとも今のジャイアンツからは第二の「絶好調男」は生まれないだろう。同書を読んでその思いを強くした。
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コメント
長緯様、コメントをありがとうございました。
> その末次はNが引退しOが負傷で欠けた75年当初に短期間ですが4番を任された覚えがあります。もちろん末次が4番の重責を果たせなかったのでというわけではありませんが、開幕後の不成績が響いて芋蔓的に最下位に沈んだ75年の悪夢を踏まえると、将来的にこの時点で「巨人軍を代表する5番打者は末次だった」と論じてしまうと、4番の重責を全うしきれなかった末次に対して嫌味とも受け取られかねないが故に、長嶋さんが柳田を「巨人軍史上最高の5番打者」と評し、いうなれば末次をかばった?とも受け取れる気もします。
う~ん、どうでしょうねぇ~(ミスター風)
そこまで考えていますかね。
やはり自分が現役時代に王とともにON砲として、たまに三、四番が入れ替わることがあってもクリーンアップの二枠は固まっていたのになかなか五番が固定できないという時代を長く経験していたから、ONがOHに代わって、ようやく一年間を任せられる五番打者が出てきたから自信を持たす意味も兼ねて「巨人軍史上最強の5番打者」と流布したのだと思いますよ。
まあしかし、こんな三十年以上前のことを語りたくなる当たり、長嶋監督の異名力はやはり凄かったのでしょう。
「もよおしてきた」とか「砂遊び」とか…まだまだですね<笑>。
投稿: 敗戦処理。 | 2011年9月 7日 (水) 00時34分
物心つきはじめた時がV9後半で、以後第1次長嶋巨人時に多感な少年時代を送った自分にとっては「ジャイアンツの5番打者は末次民夫(利光)」という印象があります。その末次はNが引退しOが負傷で欠けた75年当初に短期間ですが4番を任された覚えがあります。もちろん末次が4番の重責を果たせなかったのでというわけではありませんが、開幕後の不成績が響いて芋蔓的に最下位に沈んだ75年の悪夢を踏まえると、将来的にこの時点で「巨人軍を代表する5番打者は末次だった」と論じてしまうと、4番の重責を全うしきれなかった末次に対して嫌味とも受け取られかねないが故に、長嶋さんが柳田を「巨人軍史上最高の5番打者」と評し、いうなれば末次をかばった?とも受け取れる気もします。そんなことから、考えすぎかもしれませんが意外と長嶋さんは深く物事を考えて発言する人かもなんて思います。
(なお調べてみたのですが、自分は覚えていませんが柳田の4番先発は74年に1試合だけらしいです)。
投稿: 長緯 | 2011年9月 6日 (火) 22時53分