ミスタージャイアンツ-長嶋茂雄監督退任、東京ドームラストゲームを生観戦【回想】敗戦処理。生観戦録-第28回 2001年(平成13年)編
これまで当blogで毎月2日に交互に掲載していた敗戦処理。が生観戦した野球場が55ケ所の観戦球場を出し尽くしたので当面 敗戦処理。が生観戦したプロ野球- my only one game of each year 主体にいくことにし、また新たに初めての球場で観戦したら臨機応変にはさむようにします。
1974年(昭和49年)に初めてプロ野球を生観戦した敗戦処理。はその後毎年、途切れることなく数試合から十数試合を生観戦しています。そこで一年単位にその年の生観戦で最も印象に残っている試合を選び出し、その試合の感想をあらためて書いていきたいと思います。年齢不詳の敗戦処理。ですが同年代の日本の野球ファンの方に「そういえば、あんな試合があったな」と懐かしんでもらえれば幸いです。
【回想】敗戦処理。生観戦録- my only one game of each year第28回 2001年(平成13年)編
(写真:試合後の退任セレモニーでナインから胴上げされる長嶋茂雄監督。2001年9月撮影)
本コーナーの前回では2000年のON対決を取り上げたが、その翌年ミスターはジャイアンツのユニフォームを脱ぐことになった。1993年にジャイアンツの監督に返り咲き、9年目だった。ついに来る時が来たか、という感じであった。前年にON対決を制して日本一。ドラフトの逆指名で阿部慎之助を獲得。村田真一の年齢的な衰えで不安視されていたポジションをまかなう見通しが立ち、レギュラーポジションのほとんどをドラフトの逆指名とFA移籍組で固めた。他に中継ぎで即戦力が見込めた東洋大学の三浦貴を獲得した他、シーズンに入ると二年目の條辺剛が中継ぎ、セットアッパーで頭角を現し、フル回転。また逆指名入団から五年目の入来祐作が先発ローテーションの中心になり、13勝を挙げる活躍を見せた。この年はスワローズに在籍する兄の入来智も活躍。そろってオールスターゲームに出場。故郷宮崎県と同じ九州の福岡ドームで行われた第一戦では弟の入来祐作から兄の入来智へのリレーが実現。イニングの途中での継投だったためボールを弟から兄に手渡すシーンも実現した。
一方でそれまでジャイアンツの投手陣を引っ張ってきた槙原寛己、斎藤雅樹、桑田真澄の三本柱は精彩を欠き、年間のチーム防御率はリーグ最下位の4.45。投手陣は世代交代が迫っていることを感じさせた。
ペナントレースは若松勉監督率いるスワローズとの優勝争いとなった。年間140試合のペナントレースで、勝ち数の最も多い球団が優勝という制度。引き分け試合の増加で勝率による比較に問題が出たか、単純に勝ち数の多いチームが優勝というルールになったが、東京ドームを本拠地とするジャイアンツと、屋外球場である神宮球場を本拠地とするスワローズで試合消化数に開きがあり、シーズン途中でどちらのチームが有利なのかわかりづらいという弊害があった。この方式はセ・リーグだけで採用され、パ・リーグは従来通り勝率順。ただ評判が悪くセ・リーグも一年で勝率順に戻った。
ジャイアンツは投手陣の崩壊を打線がカバーした。主砲松井秀喜は本塁打王争いではスワローズのロベルト・ペタジーニに3本差で及ばなかったが、初の首位打者を獲得。そしてこの年でFA移籍時に締結した五年契約が切れる清原和博がジャイアンツ移籍後最高の成績を挙げる。本塁打こそ30本の大台にあと1本届かなかったが、打点はペタジーニに次ぐリーグ2位の121と勝負強さを見せた。
打線はスワローズも負けていない。ジャイアンツの中心打者とのタイトル争いを制する主砲ペタジーニは39本塁打、127打点と猛威を振るった。打率も松井の.333、僚友古田敦也の.324に次ぐリーグ第三位の.322だった。古田、ペタジーニ以外にも真中満、稲葉篤紀も打率三割をマークする切れ目のない打線でライバルチームを圧倒した。なお昨年までジャイアンツでプレイして今季は横浜DeNAベイスターズでプレイするアレックス・ラミレスが新外国人として日本デビュー。いきなり29本塁打を放った。
試合消化数の差で勝利数だとジャイアンツが1位にありながら残り試合が多いスワローズに優勝マジックが点灯して迎えた優勝争いは9月22日から24日の神宮球場での直接対決三連戦にジャイアンツがスワローズに三連勝して急接近するが、それでもまだスワローズがやや有利というところだった。
ジャイアンツはこのスワローズとの最終決戦を含む、27日までの6連戦となっており、終盤に入ってようやくベテランらしい味を見せてきた桑田が抑えに回り、岡島秀樹と、36歳の斎藤雅が中継ぎで登板するスクランブル体制。26日のカープ戦では五日間連続登板となる斎藤雅を2点ビハインドの七回表に投入したものの、3失点して連勝が止まると、翌27日には先発の入来が初回から連打を浴びてアウト1つ取っただけでKO。慌てて投入した條辺も打たれ、一回表だけで8点を取られた。しかし打線がここから脅威的な粘りを見せ、松井の3打席連続本塁打を始めじわじわ追い上げて8対10になった。だが八回に桑田が1点追加され、それでも諦めずに九回裏に2点を返すが、あと一歩届かず10対11で敗れたのであった。諦めの悪い敗戦処理。であったが、これで今季のジャイアンツは終わったのではないかという何とも言い難い脱力感に襲われたことを記憶している。もちろん数字上、ジャイアンツの優勝の可能性が完全に消えたわけではなかったのだが。
そしてその翌日9月28日、ジャイアンツは試合がなかったが、緊急記者会見を開き、長嶋茂雄監督の退任と、原辰徳ヘッドコーチの次期監督就任が発表された。またこの日、ジャイアンツ一筋20年間の槙原寛己が現役引退を表明すると、続く29日には斎藤雅樹、村田真一も現役引退を表明した。
ジャイアンツはこの時点で残り二試合となっていたが、本拠地、東京ドームでの試合は9月30日の対ベイスターズ戦一試合のみ。もう一試合は10月1日の甲子園球場での対タイガース戦であった。ミスタージャイアンツの最後の公式戦をホームグラウンドのファンの前で行うにはこのタイミングで発表するしかなかったのだろう。
そして、本拠地最終戦だからという理由だけでこの試合のチケットを購入済だった敗戦処理。はとてつもない試合を生観戦することになった。この試合はなかなか中止にならない8月22日の東京ドームでの同カードが台風11号の影響で中止になった振替の試合で前売りも当初予定されていた試合とは別の日の発売で比較的入手が容易だった。
ベイスターズ
(遊)石井琢朗
(中)金城龍彦
(左)種田仁
(一)佐伯貴弘
(右)中根仁
(捕)谷繁元信
(三)小川博文
(二)ドスター
(投)野村弘樹
ジャイアンツ
(二)仁志敏久
(左)清水隆行
(右)高橋由伸
(中)松井秀喜
(一)清原和博
(三)江藤智
(遊)元木大介
(捕)阿部慎之助
(投)高橋尚成
ベイスターズは1998年にチームを38年ぶりにセ・リーグ優勝、日本一に導いた権藤博監督が前年限りで退任。後任にはライオンズを常勝球団にした森祇晶を招聘した。森はライオンズの監督を1994年のシーズンを最後に退任していたから、7年ぶりのユニフォーム。森は片腕としてヘッドコーチにジャイアンツ時代の同僚にしてライオンズでもともにチームを指導した黒江透修を据えたが、他のコーチ陣は基本的に球団が推すベイスターズOB中心の顔ぶれとなった。歓喜の日本一のわずか三年後とはいえ、大魔神・佐々木主浩、ボビー・ローズ、駒田徳広は既に退団。三塁を守っていた進藤達哉もトレードで放出と、新しいチーム作りを求められていた。ベイスターズは森監督を迎えて3位でシーズンを終えるが、前々任の大矢明彦監督時代の1997年から5年連続のAクラスということでさらなる浮上も期待されたが、親会社のマルハがこの年限りで球団運営から撤退。一時はニッポン放送への身売りが決まりかけたが頓挫し、TBSに落ち着いたが、その後の低迷は周知の通り。ここでは触れぬが、ぎりぎりベイスターズが輝きを持っていたシーズンであった。
長嶋監督らのラストゲームでありながらも、まだわずかながら可能性が残っている逆転優勝を目指すためにもジャイアンツは負けられない試合。ベイスターズの先発、野村弘樹に襲いかかり、仁志敏久、清水隆行の連打と高橋由伸の四球で満塁とすると、一死から清原の死球により押し出しで先制。続く江藤智のレフト前安打で1点を加え、二死からは阿部もライト前に運んでもう1点。一回裏に幸先良く3点を先取した。
しかしジャイアンツの先発、高橋尚成もぴりっとしない。直後の二回表に中根仁の2ランで1点差にされると、四回表には小川博文のソロ本塁打で同点とされた。そして五回表には一死から種田仁にライト線の二塁打を打たれ、中根のセンター前タイムリーで逆転されてしまう。
その間ジャイアンツ打線は二回から野村をリリーフした四年目の谷口邦幸に封じ込まれ、ゼロ行進。高橋尚は六回表にも小川の安打をきっかけとした二死二塁から石井琢朗に一塁線を破られるタイムリー二塁打を浴びて3対5とされてしまう。高橋尚は続く金城龍彦に四球を与えたところでついにKO。マウンドに河原純一が上がった。
なお高橋尚の交代を告げに長嶋監督がベンチからちらっと姿を現しただけで、ドームから大歓声が起こり、無数のフラッシュが光った。
負けられない試合にしてはぴりっとしない先発の高橋尚を引っ張りすぎた感があったが、現役引退を表明している槙原と斎藤雅の登板を予定しているせいか、中継ぎ投入に躊躇があったのかもしれない。
七回表、ジャイアンツの捕手が阿部から村田真一に代わった。
このあたりから、観戦している敗戦処理。だけでなく、スタンド全体がザワザワし始め、何となく落ち着きが無くなったのを記憶している。村田真はその裏の先頭打者として打席に立ち、ベイスターズの三番手、杉本友から三遊間を破る安打を放ったが、ここでもスタンド中から大歓声。もはや、試合の勝敗より、あと3イニングで、長嶋茂雄のGIANTSのユニフォーム姿が拝めなくなる、一つの時代に区切りが付くという感傷の方が、まだ逆転優勝の望みをかけて戦っている試合という意識を上回ってしまっている様に思えた。そして八回表にマウンドに上がったジャイアンツの三番手、上原浩治が佐伯貴弘の本塁打を含む三本の長打を浴びて一気に4点を失い3対9となると、完全にスタンドはフィナーレを意識した空気に支配されてきた。
八回裏にジャイアンツは高橋由伸が、この回から登板の四番手川村丈夫からソロ本塁打を放って4対9とし、なおも続く松井が安打を放って無死一塁と反撃の姿勢を見せたものの、ベイスターズがここで木塚敦志にスイッチ。清原、江藤、七回から守備についている川相昌弘が倒れ1点止まりだった。
八回裏が終わり、ベンチを出た長嶋監督が森健次郎球審に投手交代を告げた。いつもなら長嶋監督は投手交代を告げるだけで、マウンドには宮田征典投手コーチが向かうのだが、長嶋監督は交代を告げるとともに球審から新しいボールを受け取り、自らマウンドに歩を進めた。
長嶋監督は本拠地最終戦の最終回を託す槙原、斎藤雅の現役最後の登板をマウンドで自ら迎えることでチーム生え抜きの功労者への労いを形に表したのだ。
先にマウンドに上がった槙原は故障のためこの試合が今季初登板となったが、先頭打者の谷繁元信を三振に仕留めた。仕留めたというか、谷繁が空気を読んだ。槙原は打者一人で降板。長嶋監督は再びベンチを出て球審に投手交代を告げると、マウンドに向かって槙原を労い、今度はマウンドから斎藤雅を迎える。
斎藤雅も小川、デーブ・ドスターから連続三振を奪い、現役最後のマウンドを飾った。ジャイアンツファンは90年代のジャイアンツを引っ張ってきた三人の生え抜き戦士の最後の舞台に魅了され、ベンチに戻るナインに大きな拍手を贈った。
九回裏、ジャイアンツ打線は三者凡退。村田真に打席が回ったが、今度は二塁ゴロだった。
4対9。優勝争いを考えても、功労者の最後の試合と考えても負けてはならない試合だったが、残念ながら完敗だった。
【2001年9月30日・東京ドーム】
YB 020 111 040 =9
G 300 000 010 =4
YB)野村、○谷口、杉本、川村、木塚-谷繁
G)●高橋尚、河原、上原、槙原、斎藤雅-阿部、村田真
本塁打)中根号2ラン(高橋尚・2回)、小川号ソロ(高橋尚・4回)、佐伯号2ラン(上原・8回)、高橋由号ソロ(川村・8回)
試合終了後、ライトスタンドからライトのフェンスに横断幕が掲げられた。そしてグラウンドを照らす照明が落とされ、まずは長嶋監督が退任の挨拶。
この後、松井が長嶋監督に花束を贈り、他の三選手もチームメートから花束を贈呈された。
その後で、次期監督に決まっている原辰徳ヘッドコーチから長嶋監督と三選手へのメッセージが贈られた。原ヘッドコーチのスピーチは、「チュウ、村田…」と一人一人に呼びかける様な感じで、卒業式の送辞を思い起こさせた。
この後、全ナインとともに場内一周をし、最後はマウンド付近で胴上げが行われた。
冒頭の写真の様にまずは長嶋監督が宙を舞い、槙原、村田真、斎藤雅の順でナインから胴上げされた。
ミスタージャイアンツといわれた長嶋監督はもちろん、この日現役引退のセレモニーを行われた槙原、村田真、斎藤雅の三選手はジャイアンツ一筋の生え抜き。三人とも高校からの入団で、旧多摩川グラウンドで泥にまみれて鍛えられて一軍に上がった。槙原と斎藤雅はドラフト1位で入団して入団二年目から一軍でプレイしたが、村田真はなかなか芽が出ず、一時は故障で練習生的な扱いにされたこともあったが、山倉和博、中尾孝義らと世代交代といった感じで徐々に頭角を現し、レギュラーポジションをつかんだ。
ジャイアンツで叩き上げの主力選手は彼らの後、すぐに続く年代が乏しく、結果としてこの三人以降、これほどの規模で引退セレモニーをしてもらえた選手は皆無だ。長嶋監督の後を継いだ原監督もわずか二年で「読売グループの人事異動」で退任を余儀なくされ、そのドタバタの余波で、一度は東京ドームでナインから胴上げをされた川相は自由契約で他球団で現役続行を選択した。桑田もイースタン・リーグでの登板を勝手に最後の登板と決めて大々的に自発的なサヨナラ登板にしてしまったし、清原に至っては厄介払いにされた感じだった。
長嶋監督のセレモニーと共同という形だったのがラッキーだったのかもしれないが、ジャイアンツの戦士らしい送られ方をしたこの三選手も幸せだったと思うし、そのシーンに三塁側スタンドで参加できた敗戦処理。は野球ファンとしてこの上ない幸せ者だと今でも思っている。
なおジャイアンツはこの翌日の甲子園球場での最終戦にも敗れるが、首位のスワローズもなかなか優勝を決められず、結局10月6日のベイスターズ戦に勝ってようやく優勝を決めた。優勝インタビューで若松監督の「ファンの皆さん、おめでとうございます」という名台詞が出た。
長嶋監督の最終戦セレモニーの対戦相手となったベイスターズは、かつてV9時代など長嶋監督と17年間チームメートだった森監督を先頭にナインは最後までセレモニーに付き合ったそうだが、一週間の間に、10月2日にはドラゴンズの星野仙一監督の退任セレモニーに、6日にはスワローズのセ・リーグ優勝決定と三度も相手の監督が胴上げするシーンに付き合う羽目となった。森監督は長嶋監督と星野監督のセレモニーには付き合ったが、若松監督の胴上げが始まると、ナインをベンチの裏に集め、ミーティングを始めたという。
【参考資料】
12球団全選手カラー百科名鑑2001(日本スポーツ出版社)
読売新聞縮刷版2001年9月、2001年10月
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コメント
長緯様、コメントをありがとうございました。
こちらこそ、今年もよろしくお願いいたします。
> それにしても月日の経つのは早いもので、敗戦処理。さんとこの試合を観戦してからもう11年になるのですね。実質的な東京ドームでの長嶋監督最後の試合を敗戦処理。さんと観戦できましたことは、本当にジャイアンツファンの私にとっても幸せだったですし財産となっています。
いや~エントリーでも触れましたが、「本拠地最終戦だから…」と軽い気持ちで買って、長緯さんをお誘いして…で、間近になったらビッグニュースでしたからね<笑>。
> そういったゴタゴタを忘れるような、おっしゃるようにこの試合で引退した「叩き上げ」での主力だった槙原、斎藤雅樹、村田真一といったような選手の活躍をもっとこれから見てみたい気がします。
今現在の主力選手も、いつか必ずユニフォームを脱ぐことになるのですが、その時、村田真一らのように盛大に送られる選手が何人いるか…
今日も村田修一獲得に伴うベイスターズへの人的補償で藤井が移籍する事に決まったのを受けて、ネット上では工藤、江藤に続いてFAで獲得した選手がまた別のFA選手の人的補償で出て行ったと使い捨て体質かのように批判されていますが、今の三人以外にも移籍組がジャイアンツで現役生活を全う出来ていない。また逆指名で獲得した選手でも仁志や二岡の様にトレードされてしまう。信賞必罰といってしまえばそれまでですが、なんか寂しいですね。
投稿: 敗戦処理。 | 2012年1月12日 (木) 00時25分
遅くなって申し訳ありませんが、今年もどうかよろしくお願いいたします。
それにしても月日の経つのは早いもので、敗戦処理。さんとこの試合を観戦してからもう11年になるのですね。実質的な東京ドームでの長嶋監督最後の試合を敗戦処理。さんと観戦できましたことは、本当にジャイアンツファンの私にとっても幸せだったですし財産となっています。
そのジャイアンツが長嶋監督退任のあと、原政権の元で優勝も日本シリーズ制覇も複数年ありましたが、グランド内外で21世紀に入ってからどうも迷走を続けている気がしてなりません。
そういったゴタゴタを忘れるような、おっしゃるようにこの試合で引退した「叩き上げ」での主力だった槙原、斎藤雅樹、村田真一といったような選手の活躍をもっとこれから見てみたい気がします。
投稿: 長緯 | 2012年1月10日 (火) 11時55分