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2012年5月12日 (土)

稲尾和久さんは西鉄ライオンズ時代に永久欠番になっていたのか?

Cdsc_241171埼玉西武ライオンズが1日、正式に稲尾和久さんの西鉄ライオンズ時代の背番号24を永久欠番に制定することを発表した。428日付け日刊スポーツ他の報道で明らかになっていたものを正式に発表した感じだ。それに関する個人的意見は同日付け拙blog 埼玉西武ライオンズが故稲尾和久さんの背番号24を永久欠番に! で述べたが、気になるのはWikipediaに見られる、稲尾さんを始め、大下弘さん、中西太さんといった西鉄ライオンズ時代の功労者が西鉄ライオンズ時代に一度永久欠番と制定され、球団の身売りによって失効したという記述。今回の報道、またこれまでの歴代の永久欠番を紹介する記事の中でも、少なくとも敗戦処理。は稲尾さん、大下さん、中西さんが一度永久欠番になったという報道を見たことはない。

Wikipediaは公的なものでないから、100%鵜呑みにしてはいけないということを踏まえつつ、敗戦処理。が野球ファンになる前の時代の出来事なので、思い込みで決めつけてはならないと思い、自分なりに調べてみた。

(写真:稲尾和久さん以後、空き番になっていた24番を付けることになった古賀正明を報じる西日本スポーツの1面)

まずは問題<!?>Wikipediaの永久欠番の項目を見てみよう。

野球界の永久欠番
1.
日本球界(NPB)の永久欠番
(抜粋)
埼玉西武ライオンズ 24:稲尾和久(投手) 201251
前身の西鉄時代の1972年に一度永久欠番に指定されたが、1973年に福岡野球株式会社への球団譲渡により失効した。ただし、指定された1972年は稲尾自身が監督として付け、失効した1973年に稲尾が背番号を変更したことから欠番となった。身売り当時黒い霧事件などによる球団内部の混乱もあり、身売り後の措置について取り決めを行わなかった為に引き継がれなかったと言われている。2012年の生誕75
周年を機に再度永久欠番に指定。


1.1失効・消滅となった永久欠番
球団設立順。
西鉄ライオンズ→現在の埼玉西武ライオンズ
3:大下弘(外野手) 196031
1968年の東映フライヤーズ監督就任の為に自ら返上・失効。
6:中西太(三塁手) 1969年制定
1973年の福岡野球株式会社への球団譲渡により失効。上記稲尾の24と同様、球団身売り後の措置について取り決めを行わなかった為に引き継がれなかったと言われている。

ヤクルトスワローズ 8:大杉勝男(一塁手) 1983119日制定
1985年、広沢克己に禅譲して消滅。

大阪近鉄バファローズ 1:鈴木啓示(投手) 1985731
日制定
西
鉄ライオンズの永久欠番失効後、パ・リーグ唯一の永久欠番だったが、20041110日、オリックス野球クラブ株式会社への営業譲渡により消滅した 合併前のオリックス時代から後藤光尊が着用していた事と、本人が永久欠番を継続しない事を了承したため。 


近鉄最後の監督となった梨田昌孝は選手に向けて「お前たちが付けている背番号は、全て近鉄バファローズの永久欠番だ」との言葉を残している。



手持ちの資料となると、ベースボール・マガジン社から発行された「プロ野球70年史」や、西鉄ライオンズ等を扱った「球団興亡史」などがあるが、それらには記載されていない。鈴木啓示のように近鉄バファローズで背番号1を永久欠番と制定されたものの、2004年の球団合併によって解消されてしまった件は、永久欠番一覧などの記事が出る際には通常但し書き付きで出るのだから、稲尾さんらが一度永久欠番になっているのなら、その記述があって当然であり、それがないということは稲尾さんらが一度永久欠番になって失効したというのは疑わしいというのが敗戦処理。の解釈だ。

ベースボール・マガジン社が言及していない以上、最も信憑性があるのは当時の新聞と考えた。そこでまず、永久欠番の制定日が具体的に記されている大下弘さんから調べた。

Wikipediaで大下弘さんの背番号3が永久欠番に制定された日となっている1960(昭和35)31日は大下さんの引退試合が行われた日である。その引退試合を報じた翌32日の紙面を探すと、読売新聞に「西鉄では大下に匹敵する打者が現れるまで“背番号3”は欠番にして大下の功績をたたえるという」という記述があるが、これは永久欠番とはニュアンスが異なる。また西鉄ライオンズの本拠地、福岡県を拠点とする西日本新聞には「大下選手の背番号3はこんごライオンズで同選手に匹敵するような大選手が出た場合におくられそれまでは欠番号となる。なおその場合も同選手の同意を求めると西鉄では言っている。」とある。そして西日本スポーツで大下君ご苦労さんと題した野口正明氏のコラムによると、「『背番号3は大下選手の名に恥じない選手が出ればその選手に渡す。しかしそれも大下選手と相談のうえで』と西球団社長は言っている」とある。この言葉の主は当時の西鉄ライオンズの西亦次郎球団社長の発言のようだ。また毎日新聞、朝日新聞には引退試合そのものの記事は載っていたものの、背番号3に関する扱いはふれられていない。

Wikipediaに記した方の情報元がわからないが、この読売新聞、西日本新聞、西日本スポーツの記事が正しければ、当時の球団社長の発言に尾ひれが付いて「大下弘の背番号3は永久欠番」となったのではないか。

敗戦処理。がこの件に関してWikipediaを疑うのは準永久欠番などという不確かな項目が記載されていることもあるが、大杉勝男さんの名前があったこともある。

大杉さんのスワローズ時代の背番号8は1983(昭和58)119日に永久欠番に制定され、広沢克己の入団で禅譲して失効となったとあるが、これは眉唾だ。この時代なら敗戦処理。はリアルタイムに野球ファンであったから、当時そのような報道があれば、キャッチしていたと思う。これも調べてみた。

大杉さんのスワローズでの背番号8が永久欠番に制定された日となっている1983(昭和58)119日は大杉さんが現役引退を正式に発表した日のようだ。新聞各紙を見ると、119日の紙面に大杉さんの引退表明が書かれている。スワローズ球団に現役引退を申し入れたのが118日で、発表されたのが119日のようだ。翌1110日のサンケイスポーツでは1面で大杉引退を大きく報道。脇に「長島四浪表明」とあり、1980(昭和55)のシーズン限りで解任された長島茂雄の去就より大きく扱っているところはさすが球団との繋がりが強いサンケイスポーツだが、この1面に「球団は「背番号8」を保留欠番とし、来春三月下旬に引退試合を行うことを決めた。」とある。大下さん同様、これに尾ひれが付いたのではないか。

もちろんそれ以前に広沢克己の入団で禅譲されるという永久欠番って何なの?という点で眉唾<苦笑>


話を大下さんに戻そう。

Wikipediaによると大下さんの永久欠番が失効したのは東映フライヤーズの監督に就任したからというので大下さんが東映の監督に就任した1967(昭和42)1126日の新聞記事を確認したが、やはり記述無し。大下さんは水原茂監督の後任としてフライヤーズの監督に就任した形だが、水原監督の解任がいわば「お家騒動」的な衝撃だったようでどの新聞もそのことばかり書いている。

そしてその約二ヶ月後、大下さんの古巣、ライオンズで交換トレードが成立した。当時の主力投手の一人だった田中勉とドラゴンズの左打者広野功が1対1の交換トレード。この広野が大下さん以来の背番号3を付ける。

広野は1966(昭和41)ドラゴンズに入団。二年間のプレーの後、田中勉との交換トレードで1968年から西鉄ライオンズの一員になっていきなり大下さん以来の背番号3を付けている。ドラゴンズでの二年間の通算成績は221試合に出場し、192安打、32本塁打、117打点で打率は.254。この数字だけを見ると、「大下に匹敵する打者」には当たるとは思えない。ただ当時を知らない敗戦処理。が広野功という選手を知っているのは背番号の件ではなく、ライオンズからジャイアンツに移籍した後の1971(昭和46)に放った代打満塁逆転サヨナラ本塁打が有名だからだ。広野はこの本塁打を含め、2本の逆転満塁サヨナラ本塁打を放っているが、2本打っているのは日本のプロ野球では広野ただ一人だ。しかしトレード当時の朝日新聞によれば、「この交換トレードが成立すれば三十八年暮れの山内一弘(当時大毎)小山正明(当時阪神)以来の大ものである。」だそうだから、潜在能力が高く評価されていた選手かもしれない。


ただ見方を変えると、トレード相手の田中勉がそれまでにライオンズに7年間在籍し、1966(昭和41)23勝を筆頭にトレード直前の1967(昭和42)まで五年連続二桁勝利を記録しており、7年間で269試合に登板。8471敗、防御率2.70の成績を残していた主力投手の一人だったから“大もの”なのだろう。

福岡県を拠点とする西日本スポーツは当時連日のように1面で広野を扱い、まだトレード正式発表前の1968(昭和43)121日の紙面で「広野の背番号は大型打者にふさわしく、大下弘選手(現東映監督)が三十六年に引退してから、長い間欠番になっていた『3』に決まったと報じている。
Cdsc_1169同紙には同じ
1面に当時の中西監督による「わしの背番号6をやってもいいよ」とのコメントも記載されている。ただ大下さんに許可を得たかどうかの記載はなかった。

そして稲尾さんである。

大下さんのような具体的な日付の記載はないので、永久欠番に制定された1972(昭和47)の稲尾さんに関する記事を朝日新聞を始めとする縮刷版の記事索引から調べた。


この年は稲尾さんにとって西鉄ライオンズの監督になって三年目。現役時代に引き続いて背番号24をつけていた。Wikipediaの通りならどこかのタイミングで永久欠番になったはずだが、1月から順に調べていってもそれらしい記事に当たらない。そしてこの年は身売り話があり、西鉄ライオンズとしてはラストイヤーで太平洋クラブライオンズになるのだが、その記事を見ても稲尾監督の背番号24に触れたものはない。一体どのタイミングで永久欠番になったのだろうか?

稲尾さんは太平洋クラブライオンズになっても引き続き監督を務めているが、新球団初年度の1973(昭和48)から背番号を変えている。栄光の背番号24を手放した時点で永久欠番制定というならわかるが、Wikipediaによると、この年は稲尾さんの永久欠番が失効した年だ。

そこで稲尾さんの現役引退時に注目してみた。引き続き背番号24をつけるものの、将来の永久欠番が保証された可能性を考えた。稲尾さんは1969(昭和44)に西鉄ライオンズ一筋で現役を引退し、翌年からそのままチームの監督になった。背番号は変えなかったが、永久欠番にすることが決められたのではないかと考えて調べたが、出てこなかった。ちなみに1969年は中西太さんの背番号6が永久欠番に制定された年ということになっているが、これも出てこない。中西さんはこの年、西鉄ライオンズの監督を務めているが成績不振と体調不安により一時休養した後、監督に復帰しているが、特に背番号に関する記載はない。

ちなみに、稲尾さんの同僚であった豊田泰光氏は週刊ベースボール521日号(ベースボール・マガジン社)の自らの連載「豊田泰光のオレが許さん!」で今回の稲尾さんの永久欠番制定に触れて、

“西鉄球団がまだ存続していたころ、「24」は一度欠番になったことがあるそうですが、オレはすっかり忘れてました。というか忘れようとしたから忘れたんでしょうね。”


と書いている。豊田氏は「忘れた」という表現を用いているが、敗戦処理。の推測が当たっていれば、そもそも永久欠番になっていないのだから、記憶にあるはずがないが、一時的に欠番になった事に対する記憶もないというと、公に、かつ明らかにはされなかったのかもしれない。

あとは大下さんを調べた際と同様に、稲尾さんの後に背番号24を付けた選手を調べるしかない。

稲尾さんは球団の経営母体が変わった1973(昭和48)、球団が太平洋クラブライオンズと変わっても監督として続投したが、このタイミングで背番号を24から81に変えた。二年間背番号81でチームを率いた後、退団したが、この二年間、背番号24は空き番だった。そして稲尾さん退団後の1976(昭和51)に期待のルーキー古賀正明が背番号24をつけた。だが冒頭の写真の様に、地元に拠点を持つ西日本スポーツでさえその扱いが小さいのは驚きだ。

古賀はドラフト1位で丸善石油から入団した投手で、一年目に11勝を挙げて新人王を争ったが惜しくも逃した。稲尾さんの背番号24を継ぐ選手としては上々のデビューだったが、以後は伸び悩み、トレードの繰り返し。当時の十二球団すべてから勝利投手になる珍記録を作ったことで名前が残っている。


中西さんにも触れておこう。

中西さんは大下さんが西鉄ライオンズに移籍してきた1952(昭和27)に新人として入団。いきなり背番号6を付けた。1962(昭和37)からは監督兼任となるがそのまま背番号6を付け続け、現役を引退、監督を退任する1969(昭和44)まで背番号6のままだった。中西さんの次に背番号6が現れるのは、太平洋クラブライオンズとなった1973(昭和48)菊川昭二郎

こうしてみると、旧西鉄時代に稲尾さん、大下さん、中西さんが一度永久欠番になったというのはかなり疑わしいと思われるが、球団がその功績を評価して一定期間欠番にしていたのは事実のようだ。ただ残念ながら偉大な三人の背番号を引き継いだ直後の後任選手はそれにふさわしい結果を残せたとは言い難い。

西鉄ライオンズが太平洋クラブライオンズに代わる混乱で、一度は永久欠番になったものが失効したというのは西鉄時代の末期に黒い霧事件があったことなどで信憑性を増してしまうのだろうが、西鉄時代に後任の背番号3が誕生した大下さんの失効云々は無理がある。例えて言えば、ジャイアンツで背番号1が永久欠番になった王貞治がホークスの監督になった事を理由に永久欠番返上を申し出るという事と同義だが、「永久欠番」とは何たるかを考えれば、眉唾な話だと疑いたくなる。

ここで敗戦処理。が前出のエントリー埼玉西武ライオンズが故稲尾和久さんの背番号24を永久欠番に!をツイッターで紹介したところ、@Hiro3SH さんが参考にと紹介して下さった2本のblogエントリーを紹介しておこう。

永久欠番考(1)一部改変  Mr.blackさん
中西の6番・稲尾の24番は永久欠番だったのか? しゅりんぷ池田さん


7月のライオンズクラシックの頃には過去の永久欠番と失効の件が再燃されるかもしれない。敗戦処理。の調査の仕方はまだ浅く、Wikipediaの記述を間違いだと断定するものでは無いが、たぶん間違いだと思う。先日も写真週刊誌FLASH(光文社刊)Wikipediaに書かれている有名人のエピソードはホントかウソかを本人に直撃するという企画があったが、笑い話になる様なエピソードがネタだったというのと、本人の名誉に関する記述に誤りがあったのとでは事の重大性が大きく異なる。


冒頭にも触れたが、この件に限らず、Wikipediaは所詮は有志が書き連ねるものであるから、特に出典が明らかにされていないものに関しては必ずしも鵜呑みにはしないほうがいいと思う。敗戦処理。も拙ブログに記載する内容の事実確認にWikipediaの力を借りる時もあるが、過度に信頼を置くのはNGであるということと、より正確な情報元にて確認することの重要性を認識した次第である。

したがって仮に当エントリーの推測通りに誤情報だったとしても(書き込んだ方に悪意がない限りにおいては)、Wikipediaの記載事項を信用しすぎた側にも問題があると言わざるを得ないのかもしれない。

ただ、敗戦処理。もこれを結論とするわけではない。私の調べ方が悪いのかもしれない。Wikipediaに記述したご本人からコメントをいただければ一番なのだが、他にも旧西鉄勢の西鉄時代の永久欠番制定に関して情報をお持ちの方がいらしたら、ぜひコメントをいただきたい。


よろしくお願いいたします。


【参考文献】
Wikipedia 野球界の永久欠番
「プロ野球70年史」
「ベースボールマガジン2004年秋季号-球団興亡史」
「ベースボールマガジン2006年夏季号-背番号の美学」
「ベースボールマガジン200911月号-パ・リーグ60年」
以上ベースボール・マガジン社刊
「プロ野球人名事典2003(森岡浩編著・日外アソシエーツ刊)
讀賣新聞
毎日新聞

朝日新聞
西日本新聞
西日本スポーツ
サンケイスポーツ
(順不同)

P.S.
5月13日追記
本エントリーにある、週刊ベースボール5月21日号の「豊田泰光のオレが許さん!」からの引用部分に転記ミスがありました。


「西鉄球団がまだ存続していたころ、「24」は一度永久欠番になったことがあるそうですが、オレはすっかり忘れてました。というか忘れようとしたから忘れたんでしょうね。」

と記載してしまいましたが、同誌では“一度永久欠番になった”ではなく、“一度欠番になった”と記載されています。ツイッター上で指摘がありましたので、該当部分を訂正し、前後の文章を若干変更いたしました。

不注意によるミスをし、紛らわしく誤解を生じさせかねない記述をしてしまいました。申し訳ありませんでした。

P.S.
5月15日追記
冒頭にWikipediaの「日本球界の永久欠番」の項目を転記しましたが、本エントリー発表後にWikipedia上での内容が書き換えられました。稲尾さん、大下さん、中西さん、そして大杉さんに関して、過去に永久欠番になったとの記載から改められています。もちろん書き換えたのは敗戦処理。ではありません。

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コメント

bigdaddy45_1969様、コメントをありがとうございました。

> 服部受弘の記事の日付が違っていました。
正しくは
3月19日
でした(引退試合の前日です)。

なるほど、そういうことですか。納得しました。

投稿: 敗戦処理。 | 2012年5月16日 (水) 23時34分

敗戦処理。様

服部受弘の記事の日付が違っていました。
正しくは
3月19日
でした(引退試合の前日です)。

大変失礼いたしました。

投稿: bigdaddy45_1969 | 2012年5月16日 (水) 05時32分

bigdaddy45_1969様、コメントをありがとうございました。

> Twitterの方ではお世話になりました。

こちらこそいろいろと教えていただき、ありがとうございました。

> 当時のマスメディアで永久欠番の定義が混乱していた一例ですが、大下の引退試合の数日後に
永久欠番になった中日・服部受弘の記事(中日スポーツ1960年1月19日)では、過去の永久欠番
の一人に大下の名前がありません。

エントリーで引用した「永久欠番考(1)一部改変」にあったように当時の曖昧さがなせる所以だと思います。

ただ大下さんの背番号3が永久欠番になった、としている人の根拠は引退試合ですが、引退試合は1960年3月1日ですので、服部さんの記事が1960年1月なら大下さんより先ですから、記載はないと思いますよ。

投稿: 敗戦処理。 | 2012年5月15日 (火) 23時22分

Twitterの方ではお世話になりました。

大下弘について、川上哲治の「16」が永久欠番になった1965年のスポーツ紙の記事(下記)で、
過去の永久欠番(ここも単に「欠番」と記載しています)の一覧に大下の名前が入っています。
日刊スポーツ(1月18日,19日)
デイリースポーツ(1月15日)
サンケイスポーツ(1月13日)

当時のマスメディアで永久欠番の定義が混乱していた一例ですが、大下の引退試合の数日後に
永久欠番になった中日・服部受弘の記事(中日スポーツ1960年1月19日)では、過去の永久欠番
の一人に大下の名前がありません。

投稿: bigdaddy45_1969 | 2012年5月15日 (火) 22時56分

肉うどん様、いつもコメントをいただき、ありがとうございます。

> 書籍は学研?か何かの子供向け野球解説書で小生が初めて購入し、何回も読み返した野球本ですので記憶は鮮明です。

ご指摘ありがとうございます。

何と!旧西鉄の三選手と大杉さんに関する記述が書き換えられています。

偶然なのか、このブログを見た人が変えたのか<笑>?

投稿: 敗戦処理。 | 2012年5月14日 (月) 22時33分

こんばんは。

もう手許にないのですが、渡辺秀武さんや倉田誠さんが巨人在籍中かつ長嶋さんの引退前(1965-74年の間でおそらく70年前後)に発売された書籍では、永久欠番は巨人軍の4、14、16との記載があり、西鉄を含め他球団に言及していた記憶はありません。この時点ですと稲尾さんについての基準にはならないのですが、大下さん、中西さんは一般に永久欠番とされていなかったと理解されます。

大杉さんについては、聞いたことがありません(そして広澤さんが入団したときにそんな話題になった記憶がありません)。

書籍は学研?か何かの子供向け野球解説書で小生が初めて購入し、何回も読み返した野球本ですので記憶は鮮明です。

投稿: 肉うどん | 2012年5月14日 (月) 17時40分

チェンジアップ様、いつもコメントをいただき、ありがとうございます。

> よく当時の新聞が見つかりましたね。私は古い新聞を捜したことはありますが、図書館の人に「20年ぐらい前までなら、ある」みたいなことを言われました。

大きな図書館を当たりましたから。

もっともさすがに紙では残っていなくて、マイクロフィルムになっていて、それをコピーしてもらったのですが。

> 記事あるように、皆、正式に永久欠番ではなかったんでしょうね。
私はヤクルトファンでしたから、大杉の件はどう考えてもおかしいと思います。
当時、小学生でしたが、そんな話は聞いたことがない。

尾ひれが付いてしまうのでしょうね。

大下さんにしろ、大杉選手にしろ、それに近い扱いをされたのでしょうけど、未来永劫他の選手が付けないという永久欠番の趣旨とは似て非なるものなのでしょうね。

投稿: 敗戦処理。 | 2012年5月13日 (日) 19時03分

こんばんは。よく当時の新聞が見つかりましたね。私は古い新聞を捜したことはありますが、図書館の人に「20年ぐらい前までなら、ある」みたいなことを言われました。

記事あるように、皆、正式に永久欠番ではなかったんでしょうね。
私はヤクルトファンでしたから、大杉の件はどう考えてもおかしいと思います。
当時、小学生でしたが、そんな話は聞いたことがない。

投稿: チェンジアップ | 2012年5月13日 (日) 18時02分

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