当初から賛否両論だったプレーオフ制度を定着させてしまったまさかの一発【回想】敗戦処理。生観戦録-第31回 2004年(平成16年)編
これまで当blogで毎月2日に交互に掲載していた
敗戦処理。が生観戦した野球場が58ケ所の観戦球場を出し尽くしたので当面 敗戦処理。が生観戦したプロ野球- my only one game of each year 主体にいくことにし、また新たに初めての球場で観戦したら臨機応変にはさむようにします。
1974年(昭和49年)に初めてプロ野球を生観戦した敗戦処理。はその後毎年、途切れることなく数試合から十数試合を生観戦しています。そこで一年単位にその年の生観戦で最も印象に残っている試合を選び出し、その試合の感想をあらためて書いていきたいと思います。年齢不詳の敗戦処理。ですが同年代の日本の野球ファンの方に「そういえば、あんな試合があったな」と懐かしんでもらえれば幸いです。
【回想】敗戦処理。生観戦録- my only one game of each
year第31回 2004年(平成16年)編
(写真:この年のファイターズに、いやパ・リーグに神の様に降臨したSHINJOこと新庄剛志。プレーオフでは体調はボロボロだった… 2004年10月撮影)
2004年といえば、日本プロ野球界にとっては6月13日に発表されたオリックス・ブルーウェーブと大阪近鉄バファローズの合併話から、球界の縮小再編成、1リーグ化などの危機が生じた不安な一年だった。特に球界参入の時以来、久々にオーナー会議に出席したライオンズの堤義明オーナーの「パ・リーグでもう一組の合併話が進行中…」という一言がファンに恐怖感を煽った。
ファイターズはこの年、北海道移転の第一歩を歩んだシーズンで、他球団に比べれば比較的安泰な立場であったが、アメリカ帰りの新庄剛志がSHINJOとして大暴れ。入団会見での名台詞「これからはパ・リーグです!」を下手したら最後になるかもしれないオールスターゲームでホームスチールを決め、ヒーローインタビューで再び「これからはパ・リーグです!」と宣言してファンの喝采を受けた。
旧国鉄のJRグループを別にすれば日本最大規模を誇る私鉄、近畿日本鉄道の経営不振でバファローズを持ちこたえられなくなってオリックスへの合併を持ちかけたとのニュースは衝撃だった。既にホークスの親会社、ダイエーグループの有利子負債が天文学的な数字になっていることは周知の事実であったが、セ・リーグ球団に比べ基盤がしっかりしている親会社が多いと思われていたパ・リーグでのこの問題はもはや球団の営業努力のレベルを超えていることが明らかだったからだ。
もちろん常にセ・リーグに観客動員で劣っているパ・リーグは手をこまねいていた訳ではない。この2004年からプレーオフ制度を採用することになった。まず3位のチームと2位のチームが対戦して2勝した方が勝ち上がり、1位のチームと対戦し、3勝した方が優勝という制度だ。MLBのようにリーグの中にブロックを分け、それぞれのトップ同士で短期決戦を争うMLBのプレーオフと異なってパ・リーグの制度は敗者復活戦。短期決戦で一発逆転はある意味爽快だが、長丁場のペナントレースを勝ち抜いた重みはどうなるのかという反対意見が当然出た。そこで、1位のチームには、勝ち上がってきたチームと5ゲーム差以上付けていれば1勝のアドバンテージを付与するということになった。
この年のパ・リーグは大本命のホークスがレギュラーシーズン1位でシーズンを終えたが、2位のライオンズとは4.5ゲーム差。無条件にアドバンテージを得るには至らなかった。ただ、最終戦でようやく3位を決めたファイターズは貯金が1で、ホークスとは12ゲーム差。こんなチームがもしも短期決戦で勝ち上がったらどうするんだ?という声が挙がった。「首位争いより三位争いに注目が集まるのでは本末転倒」と危惧されたがそれに近い状況になった。実際ファイターズが3位を決めた最終戦、ファイターズはこの年の二本柱、金村曉、カルロス・ミラバルをつぎ込んで勝利を決めた。これが単なるAクラス争いだったらそこまでしたかどうか…。
ファイターズがライオンズとの第1ステージを勝ち上がった場合にはホークスは12ゲーム差を付けたファイターズ相手に1勝のアドバンテージを付与されることになるので、当時敗戦処理。が常駐していたネットのファイターズ掲示板に「日ハム頑張れ」というホークスファンが乱入してきてうざかった事も記憶に残っている。
敗戦処理。はファイターズが3位に残る事を信じて西武ドームで行われる第1ステージの第3戦のチケットを確保した。ファイターズが勝ち上がるとしたら、2勝0敗ではなく2勝1敗だろうと考えたからだ。そして第1戦は松坂大輔好投の前に屈したファイターズが第2戦でミラバルを立てて雪辱。思惑通り<!?>第3戦にもつれ込んだ。
西武ドームはバックスクリーンの真裏に入口があり、入場時点でライオンズ側と相手側とに別れる構造になっている。それゆえファイターズが不人気だった東京時代でも、ファイターズ側の三塁側にライオンズファンがなだれ込んでくることはあまりなかったが、その代わりスタンドがスカスカと言うことが多かった。ところがこの日は、「どこにファイターズのファンがこんなに隠れていたんだ!」というくらい、レフトスタンドはもちろん三塁側内野席もファイターズファンでぎっしりと埋まった。やれば出来るじゃないか!何故もっと早く在京ファイターズファンはスタジアムを埋めなかったのだと嘆きたいくらいだったが、当時は自分も東京ドームを中心に年五回程度の観戦。移転の戦犯の一人だったかもしれない。ちなみに昨年はファイターズの一軍公式戦を10試合生観戦した。札幌ドーム観戦はなかったが、東京ドーム全試合を含め関東の試合と仙台を1試合。移転後の方が生観戦数が増えているかもしれない<苦笑>。
ファイターズ
(中)SHINJO
(二)奈良原浩
(三)小笠原道大
(一)セギノール
(指)オバンドー
(捕)高橋信二
(右)島田一輝
(左)エチェバリア
(遊)金子誠
(投)江尻慎太郎
ライオンズ
(右)佐藤友亮
(中)赤田将吾
(三)フェルナンデス
(一)カブレラ
(左)和田一浩
(指)貝塚政秀
(遊)中島裕之
(捕)細川亨
(二)高木浩之
(投)帆足和幸
現在のクライマックスシリーズの前身と言えるパ・リーグのプレーオフ初年度。8年前とはいえ、両チームのスタメンは現在とはかけ離れている。今季もそれぞれのチームに所属しているのはファイターズでは金子誠、ライオンズでは佐藤友亮と中島裕之の計三人だけ…。
一回表、ファイターズはライオンズ先発の帆足和幸との相性の良さを買われて二番に抜擢された奈良原浩が一、二塁間を破った。続く小笠原道大はゲッツーかと思わせる三塁ゴロを放ったが、ホセ・フェルナンデスが弾いてオールセーフ。思わぬ形でチャンスが拡がると、この年、パ・リーグの三冠王に輝いた松中信彦と本塁打王を分け合ったフェルナンド・セギノールが右打席から振り切った打球はファイターズファンで埋まるレフトスタンドへ一直線!ファイターズはこの大一番で初回早々3点のリードを得た。
だがライオンズも黙ってはいない。三回裏、高木浩之と赤田将吾の安打で一死一、三塁とすると、フェルナンデスが死球で満塁。ここで打席には四番の主砲、アレックス・カブレラ。
ファイターズの先発、江尻慎太郎と高橋信二のバッテリーはカブレラをツーナッシングと追い込んだまでは良かったが、三球目の高めへのウエストボールが中途半端な高さとなり、カブレラのバットにとらえられ、これまたあっという間にレフトスタンドへ。後に江尻は「あの一球で…一球の怖さというものを痛感した」と語ったが、敗戦処理。の観る限り江尻はその後も何度も同じような失敗を繰り返している。2007年に自らリリーバー専任を志願し、その後小林繁コーチと出会ってフォームを変えたりしてそこでようやく一球の怖さが身にしみた投球が出来る様になったと思える。
ライオンズに3対4と逆転され、江尻はこの回限りでKO。四回裏には入来祐作がマウンドに上がった。入来は気魄を前面に出す投球を見せたが四球と不運な安打で二死満塁となり、再びカブレラを打席に迎えた。一発はもちろんのこと、安打で2点追加されたらワンサイドになりかねない絶体絶命のピンチに入来はコースを丹念に狙う投球をするが、山本隆造球審の右手が上がらない。最後も際どい一球が外れ押し出し。3対5とされた。敗戦処理。はボールの高低が観易い三塁側のダッグアウトの上あたりの席で観戦していたが、周囲のファンで入来がコントロールを乱したとか、弱気だったと文句を言うファンはいなかった。入来の気魄とカブレラの恐ろしさがファイターズファンに伝わってスタンドとグラウンドの試合と一体化していたからだろう。
入来はさらに続く二死満塁のピンチを和田一浩を三振に仕留めて切り抜けると、六回裏まで3イニングを投げきった。五回裏、六回裏ともにライオンズに得点圏まで走者を進められるが何とか踏ん張った。
入来はこの年、井出竜也との交換トレードでジャイアンツから移籍してきた。先にSHINJOの入団が決まり、井出は余剰戦力となっていた。東京ドームを本拠地にしていた時代の後年、「ビッグバン打線」の切り込み隊長として活躍したが、トレイ・ヒルマン監督が就任した前年の2003年、新監督は井出の指定席だった「一番・中堅」に若き森本稀哲をいきなり抜擢した。森本はこの時にはポジション奪取とまではいかなかったが、井出の存在意義は軽くなっていた。一方の入来は2001年にジャイアンツの救世主的に13勝を挙げてからは成績が伸び悩んでいたが、それ以上に球団を困らせたのが入来の大リーグ願望。当時も今もジャイアンツが認めていないポスティング移籍を強硬に希望するので厄介払いするかの様にトレード先を探していた。語弊はあるかもしれないが、両球団ともに実績のあるトレード要員が出来てしまい、1対1の交換トレードが成立した。だがジャイアンツの当時の三山秀昭球団代表が「ポスティング移籍を認めている球団に行かせてやる」的なことを入来に唆していた事が判明し、ファイターズ側が態度を硬化。一時は一度発表されたトレードがご破算になるかというところまでいった。
そんないわく付きのトレードで、実際に入来は在籍二年間でポスティングシステムを利用、どこからもオファーがないと、自由契約でアメリカに渡ったが、その気魄を前面に出す投球が新チームのファンに強烈な印象を与えた様で北海道のファンの支持は多かった様だ。
二番手の入来が踏ん張っている一方でファイターズ打線は一回表の3点先制の後、二回表にSHINJO、奈良原の短長打で二死二、三塁のの追加点のチャンスを作って逃すと、三回以降は帆足の前に手も足も出ず、三者凡退が六回まで続いた。
七回表、ライオンズは立ち直った帆足に代えて二番手に長田秀一郎をマウンドに送った。この年のライオンズの勝利の方程式は先発投手から長田、小野寺力をはさんで絶対的守護神の豊田清につなぐものであり、好投帆足降板といっても、長田投入は逃げ切りへのカウントダウンを意味した。
ファイターズは先頭の島田一輝が四球を選ぶと、対左投手用のエンジェル・エチェバリアに木元邦之、金子誠に坪井智哉と代打攻勢をかけるが、島田が三塁まで進んだものの無得点。残すイニングは2イニングのみとなった。
七回裏、ファイターズはこの年の最優秀中継ぎ投手、建山義紀を投入。ライオンズの下位打線を三人で片付ける。
八回表、ファイターズが先頭の、帆足から二安打を放った奈良原に代打、左の石本努を送ると、ライオンズベンチは長田に代えて左打者封じのスペシャリスト星野智樹を投入。ファイターズも代打の代打、田中幸雄で応戦。星野は田中幸を警戒して歩かせるも、お得意様にしていた小笠原を三振に仕留めてお役ご免。スイッチヒッターのセギノールを迎えるが、右の小野寺にスイッチ。小野寺はセギノールとシャーマン・オバンドーを連続三振に切り抜けた。
九回表には豊田がいる。この年は故障もあって34試合の登板、11セーブにとどまったが、防御率は0.98と圧倒的な安定感。当時のパ・リーグではマリーンズの小林雅英と双璧の二大クローザーだった。小林雅が時に走者を出しながらも抑える傾向から「コバマサ劇場」と揶揄されがちだが、豊田にはそういうネタにされる隙もなかった。八回の攻撃を終えて2点のビハインド。これが何を意味するか、ファイターズの勝利を信じて応援するファイターズファンとしても窮地に追い込まれていることはわかる。
八回裏、ファイターズは建山を1イニングで降ろし、この年のパ・リーグの最多セーブ、横山道哉を2点のビハインドながら投入。まだまだ諦めない姿勢を示す。横山も期待に応え、二死から四球の走者を出したもののカブレラを三振に仕留め、雰囲気を盛り上げて打線の反撃を待つ。
こういう短期決戦で最後の試合になるかもしれない場合に、最後のイニングにビハインドだろうとクローザーを投入するケースはままあるが、基本的には敗戦処理。は反対だ。ファイターズはこの試合、勝たねばならない。引き分けでもダメだ。2点ビハインドを追っていることを考えると、延長戦、それも十二回まで考えなければならない。建山と横山のタテヨココンビで最長5イニング投げきることを考えなければならないのだ。であれば、少なくともこの八回裏は建山続投の方がベターだと思う。
そうはいっても、このまま九回表の攻撃で何とかしなければこの考えも絵に描いた餅。九回表、ライオンズは案の定豊田がマウンドに上がった。
先頭の高橋信が詰まらされながらもセンター前に落とした。島田の代打に左の小田智之を送るが三振。あとふたりだ。ここでエチェバリアの代打から二塁の守備に入っている木元がまさか、まさかの右中間への同点2ラン。正直、「木元と坪井でつないでSHINJOの前に走者を貯めることが出来れば…」と考えていた敗戦処理。は木元の放った打球が右中間のスタンドに落ちた時、呆然としたのを覚えている。そして一瞬の後、周りのファンと誰彼構わず抱き合った。たぶんその中には女性もいたと思う<笑>。
ファイターズは勝たなくてはダメ。同点、引き分けではダメなことはわかっていても、まずは同点にしたことに狂喜乱舞した。ここで一気に勝ち越せれば言うことがなかったのだが、坪井、SHINJOはともに内野ゴロに打ち取られ、5対5の同点で九回表を終えた。
九回裏の守備につく木元にファイターズファンから何度も木元コールが贈られ、まだ同点弾の余韻が残ったまま突入した九回裏、続投した横山の、たぶん初球だと思うが先頭打者の和田が泳がされながら振り抜いた打球は高い弧を描いてレフトスタンドに向かって伸びていった。
「あれれ…」
まさに天国から地獄だった。気がついた時には和田はガッツポーズをしながら三塁ベース付近を走っていた。ファイターズの北海道移転元年はここでようやく終焉を迎えた。
ホークスへの挑戦権を得るサヨナラ弾を放った和田がライオンズナインにもみくちゃにされ、ファイターズナインが各ポジションから戻ってきた。SHINJOは両手を左右に拡げ、「終わっちゃった~」という表情をしていた。SHINJOは七回の打席と九回の打席でともに内野ゴロに倒れたが、フルスイングの後に身体のバランスを崩し、こけそうになりながら一塁に走っていた。ほとんど余力がなかったのだろう…。和田を祝福する輪がとけると、ヒルマン監督がライオンズの伊東勤監督に歩み寄って握手をしていた。ここでようやく敗戦処理。も冷静さを多少取り戻し、好勝負を演じた両軍ナインに拍手を贈る気になれた。
【2004年10月3日・西武ドーム】
F 300 000 002 =5
L 004 100 001×=6
F)江尻、入来、建山、●横山-高橋信
L)帆足、長田、星野、小野寺、○豊田-細川
本塁打)セギノール2号3ラン(帆足・1回)、カブレラ1号満塁(江尻・3回)、木元1号2ラン(豊田・9回)
難攻不落の豊田からの同点劇。レギュラーシーズンで7.5ゲームの開きがあった2位と3位のチームの大接戦。「プレーオフって面白いじゃん」ライオンズとファイターズのファン以外で初のプレーオフを観ていたファンが唸った。ライオンズはホークスとの第2ステージでも最終戦までもつれこんだ結果、ホークスを倒してパ・リーグ優勝となって日本シリーズに駒を進めた。豊田はホークス戦でもリリーフに失敗。短期決戦ならではのスリリングさに満ちた初年度のプレーオフは、否定派の正論を吹っ飛ばす程の熱い闘いとなり、2007年からはセ・リーグも追従してクライマックスシリーズとして定着している。
敗戦処理。としては3位のチームには出場権を与えずに1位と2位の一騎打ちでも良いとか、ファーストステージとファイナルステージの間の間隔を詰めるべきとの腹案を持っているが、些かの矛盾を抱えながらも、しばらくはこの制度が続いていくことだろう、多少のマイナーチェンジはあるかもしれないが…。
小笠原でもSHINJOでもなく、もちろんセギノールでもなく木元が豊田から本塁打を放つのが短期決戦の醍醐味であり怖さである。ただその木元もこの一発で運を使い尽くしてしまったのか、翌年からは成績が急降下。ファイターズが日本一に輝く2006年には完全に蚊帳の外だった。小笠原とSHINJOが抜けた2007年には再び木元が脚光を浴びるチャンスとなったが、長続きせずにこの年のシーズン中にバファローズにトレードとなった。
木元はバファローズでも活躍できずに2009年のシーズンを最後に戦力外通告を受けた。だがプレーオフ制度の定着と、移転したばかりのファイターズの北海道でのファンへの浸透に関して木元が果たした役割は決して小さくないと敗戦処理。は思っている。
木元邦之を決して忘れない。
【参考資料】
12球団全選手カラー百科名鑑2004(日本スポーツ出版社)
ベースボールマガジン2005年冬季号(ベースボール・マガジン社)
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コメント
肉うどん様、コメントをありがとうございます。
> その西武ドームのステージ第二戦だったと思いますが、ファイターズが勝利した試合をチケットが手に入ったので生観戦しました。
あぁ、あのミラバルが好投して、最後粘られて危なかった試合ですね。
私はファイターズが勝ち上がるとしたら2勝1敗しかないと思い、最初から第三戦を買いました。
> まさしくご指摘の通りの移転したら急に恋しくなった口ですね(笑)。
第二戦と第三戦で観戦した試合が異なりますが、本当にどこにこんなにファイターズファンがいたのか?というくらい西武ドームの三塁側がファイターズファンで埋まりました<笑>。
> それでも北海道から来ていたファンも結構いたように思います。肌寒い日でしたが、久々のポストシーズン(でしたよね?)、とても盛り上がった記憶があります。
あの後、「初回に3点先制したくらいでは舞い上がることはない」とあるところで発言したら「だから東京のファンは負け犬根性が抜けないといわれるのですよ」と北海道から観戦しに来たというファンに言われました。
移転して一年目にああいう劇的な進出を果たせば、貯金がわずかでのAクラスでも強いチームと勘違いするファンが出てきても仕方ないなと達観しました。
そうしたら翌年はパ・リーグでしたから二番目。しかも一番下は新規参入球団という落ち込みだったので本気で心配しました<笑>。
> 木元のことは良く覚えています。打率はいまひとつだったはずですが、集中的に得点したときなどは良く打っていました。
北海道の知人の話だとあの当時から北海道での人気は今一つだったそうで…。本当かな?と思いますが守備でミスをしたときやチャンスに凡退したときに淡泊に映るそうです。
もちろん私は好きな選手の一人ですが…
投稿: 敗戦処理。 | 2012年8月 6日 (月) 23時19分
敗戦処理。さん、いつも興味深い記事をありあとうございます。
その西武ドームのステージ第二戦だったと思いますが、ファイターズが勝利した試合をチケットが手に入ったので生観戦しました。
まさしくご指摘の通りの移転したら急に恋しくなった口ですね(笑)。それでも北海道から来ていたファンも結構いたように思います。肌寒い日でしたが、久々のポストシーズン(でしたよね?)、とても盛り上がった記憶があります。
木元のことは良く覚えています。打率はいまひとつだったはずですが、集中的に得点したときなどは良く打っていました。
投稿: 肉うどん | 2012年8月 5日 (日) 18時02分