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2012年8月13日 (月)

ドラゴンズの稲葉光雄二軍投手コーチの悲劇を繰り返してはならない…。

Cdsc_0211日、ドラゴンズの稲葉光雄二軍投手コーチがナゴヤ球場で行われたウエスタン・リーグの対カープ戦の試合前の練習中に体調不良を訴えてベンチを外れ、試合中に名古屋市内の病院に運ばれたが、同日午後839分に脳内出血のためなくなられた。63歳だった。

稲葉さんは70年代のドラゴンズの主力投手として活躍。72年には20勝を挙げ、74年のジャイアンツのV10を阻止しての二十年ぶりのリーグ優勝にも大きく貢献。77年には当時のブレーブスに移籍し、その年にパ・リーグの最高勝率のタイトルも獲得した。その後、タイガースでもプレー。コーチとしては古巣のドラゴンズ以外に1998年から四年間ファイターズでも指導した。

敗戦処理。が野球に興味を持ち始めた頃のドラゴンズの主力投手というイメージが強いが、ファイターズタウン鎌ヶ谷が出来て二年目の1998年にファイターズの二軍投手コーチに着任し、二年間若手を鍛えた後、2000年にドラゴンズ時代の同僚、大島康徳が監督に就任すると一軍投手コーチとして手腕を発揮したが2001年限りで退団したファイターズのOBとしての印象も深い。

それにしても、小林繁さん、木村拓也さん、そして稲葉コーチとこの三年間で現役のコーチが三人も急逝されている。現役を引退してからの健康管理、体調管理の重要性をあらためて球界全体で考え直す時期に来ているのではないか…。


稲葉光雄さんのご冥福を心よりお祈りします。


(写真:稲葉光雄コーチが体調不良を訴えた、ドラゴンズのファームの本拠地、ナゴヤ球場。2001年5月撮影)

 

またもあってはならない事が起きた。2010年の4月にジャイアンツの木村拓也内野守備走塁コーチが試合開始前のシートノックの最中に倒れ、帰らぬ人となってから二年四ヶ月。オフシーズンの帰省中に急逝されたファイターズの小林繁コーチを含めればこの三年間でNPB十二球団のいずれかの所属する現役のコーチの急逝は三件目となった。偶然だろうが三人ともファイターズに縁がある。

稲葉さんは1970年代前半のドラゴンズの主力投手の一人。敗戦処理。が野球に興味を持ち始めた時期だけに特に印象が深い。当時のドラゴンズの三本柱といえば、ジャイアンツ戦に異様な闘志を見せた星野仙一(現ゴールデンイーグルス監督)に、左投手で捕手から返球を受けると短い間合いですぐ次の投球に入る松本幸行、そして大きなカーブが印象的だった稲葉さんだ。人によっては三人目を右投手の渋谷幸春を思い浮かべるかもしれないが…。ちなみにこの当時のドラゴンズのエースは星野であったが、稲葉さんが1972年に、松本はチームがリーグ優勝をした1974年に先発投手としての勲章の一つである20勝を経験しているが星野は経験していない。1977年の18勝が最多だ。

長嶋茂雄監督率いるジャイアンツが前年のリーグ最下位から一転してリーグ優勝を果たし、そのジャイアンツを日本シリーズで上田利治監督が率いるブレーブスが43敗で破って二年連続日本一を果たした1976年。そのシーズン後、ドラゴンズとブレーブスの間で稲葉さんを含む3対4の大型トレードが成立した。ドラゴンズからはローテーション投手だった稲葉さんの他に正三塁手だった島谷金二と左投げ左打ちの内野手大隅正人がブレーブスへ、ブレーブスからドラゴンズにはノーヒットノーランの経験のある戸田善紀、正三塁手で直前のジャイアンツとの日本シリーズでも日本一を賭けた第7戦でクライド・ライトから決勝弾となる逆転本塁打を放っていた森本潔に加え、カープ在籍歴がありセ・リーグは二度目となる右投手の大石弥太郎と右打ちの外野手小松健二の四人が移籍した。

FA制が無く、球団主導によるトレードが今よりはるかに活発だった時代ではあるが、当時のドラゴンズ球団はトレードに積極的な球団ではなかった。後に星野監督になってからはオリオンズで二年連続三冠王を達成した落合博満を1対4の交換トレードで獲得した事に代表されるように活発な入れ替えを断行したがそれ以前は積極的ではなかった。またブレーブスも、前年にカープとの日本シリーズを制して球団初の日本一に輝き、この年は過去に日本シリーズで5回も苦汁をなめさせられたジャイアンツを破っての二年連続日本一という絶頂期でトレードをする必要など無いと当時の敗戦処理。には思われたので主力選手を含む複数選手による大型トレードには驚かされた。ブレーブスは翌1977年、稲葉さんがパ・リーグの最高勝率のタイトルを獲得するなどあってブレーブスは1977年、1978年とリーグ優勝を続け、当時のパ・リーグでは初の四年連続リーグ優勝を成し遂げた。ブレーブスには1983年まで在籍し、1984年にはタイガースでプレーしたが一軍での出場はなく、この年を限りに現役を引退。コーチとしては1986年から1997年までドラゴンズで指導に当たった後、前述の通り1998年から2001年まで四年間ファイターズでコーチを務めた。

1998年と1999年はファームを担当し、2000年と2001年には大島康徳監督の下、一軍を担当。この二年間は後にドラゴンズでも指導者としてコンビを組んだ森繁和とともに一軍投手コーチを務めたが、2001年のチーム最下位、チーム防御率も4.795位と低迷。この年限りで森コーチともども退団。ドラゴンズの投手コーチには2009年から復帰していた。

本来、こういう野球人の経歴を振り返るのはユニフォームを脱ぐときか、節目の大記録を達成したときであるべきで、人が亡くなったという事実を重く見れば我々ファンはともかく、マスコミには他にもすることがあるだろう。

何故そうなったのかを追求し、再発防止に関する提言をすべきだあろう。もちろんそれは球団がすべきことだが、単に故人を悲劇の主人公として回顧するばかりではなく、もしも球団に管理責任があるのであればそれを指摘するのもマスコミの責務であると敗戦処理。は考え、ジャイアンツの木村拓也コーチが亡くなった後には拙ブログ2010421日付 木村拓也コーチの死を無駄にしないということをもう一度考えてみた。 で指摘した。これはもちろん本人の自己管理が重要ではあるが、一般サラリーマンなら定年を迎えている63歳という年齢のコーチに対する健康管理、体調管理をドラゴンズ球団がどう考えているのか、別に犯人捜しをするのではなく、もうこれ以上悲劇を繰り返さないためにそこに踏み込むマスコミが(さすがに今日明日には無理だろうが)出てきてほしいものだ。

ところで、ドラゴンズでは名コーチといわれ、現在もファームでの調整を余儀なくされている浅尾拓也や、大ベテランの山本昌、大リーグ帰りの川上憲伸らをサポートしていたばかりでなく、吉見一起山内壮馬らに多大な影響を及ぼしてきたといわれる稲葉さんだが、ファイターズではどうだったのだろうか?前述の如く、大島監督下の2000年と2001年に森繁和コーチと共に一軍投手陣を任せられていたが、二年間で二人とも退団を余儀なくされていた。

この時期のファイターズは“ビッグバン打線”が猛威を振るっていた打高投低の時期。この二年間のチーム防御率は4.704.79と共にリーグで5位だった。投手陣の中心が岩本ツトムから金村曉にシフトする時期で、下柳剛を何でも屋から先発に固定させたり、関根裕之が先発で投げていたが駒不足が否めず、それでも2000年には打線が補う形でAクラスをキープした。

稲葉さんがファームを指導していた1998年、1999年には厚澤和幸、今井圭吾、櫻井幸博、矢野諭、平松省二、清水章夫、沼田浩、伊藤剛といった面々が多くの実戦機会を与えられているが目立ってその後一軍で活躍した選手はいない。だがそもそもこの時期にはブレーブスで一時代を築いた名将上田利治を監督に迎え、上田野球を知り尽くしたコーチングスタッフが脇を固めながら、1996年と1998年にはリーグ優勝を狙える位置に行きながらも失速して優勝を逃し、それ以外の年度はBクラスと大沢啓二監督や高田繁監督の時代に比べ、期待したほどの成果を挙げたとは言えない時期であった。またジャイアンツから戦力外通告を受けた落合博満を獲得して打線のテコ入れを図ったのもこの時期。ファイターズの球団史においては迷走期と言える時期だった。

強くもないが弱くもない中途半端な位置づけでマスコミに取り上げられるようなスター選手も少なく、岩本が野球以外の言動で注目を浴びるくらい。もちろんミスターファイターズ田中幸雄を筆頭に片岡篤史ら、他球団の主力選手と比較しても恥ずかしくない実績の持ち主はいた。小笠原道大も頭角を現してきた。だが、いかんせん今よりもジャイアンツ、そしてセ・リーグへの耳目が集まる時代。東京ドームの観客動員は概算発表でも減り続けていた。

人気面でも実力面でも中途半端な位置づけで苦しんでいたこの時代、一人や二人の名コーチがいても大きな成果は得られなかったのだろう。


現在ではドラゴンズに限らず、経験豊富なコーチをファームに据えて若いコーチと二人三脚で若手を鍛えている球団が多数ある。やたらにコーチの人数が多いジャイアンツでも昨年まで小谷正勝が二軍投手コーチという名の下に一軍の投手にも貴重なアドバイスを送っていた。

野球ファンの中には、スター選手が現役を引退してコーチになるときにはまずは二軍のコーチになってコーチ業を勉強すべきだという意見の持ち主が結構いるようだ。正論だろう。“名選手、必ずしも名監督たり得ず”ではないが、名選手が必ずしも名コーチになれるとは限らない。.まずは二軍コーチとして経験を積んで…という意見には理解出来る。だが、既に一定のレベルに達している一軍選手よりも二軍の選手の方が、よりコーチの教えが必要であるという視点に立てば、二軍のコーチにこそ経験豊富なベテランのコーチが必要なのである。稲葉さんのようなベテランコーチはその指導者としての豊富な指導経験の引き出しの中から、悩む二軍選手に適切な指導をすると共に、新人コーチの育成も託されているのかもしれない。だから、稲葉さんのように一般サラリーマンなら定年を過ぎている年齢のコーチが重宝されるのだ。年金の支給開始時期が遅くなり、定年後は嘱託等という形での雇用関係を続けながらその経験を活かしてもらう一般社会と共通するところがあるかもしれない。

シーズン前に発売された廣済堂出版の12球団全選手カラー百科名鑑2012で見ると、今年度中に迎える満年齢で60歳以上の監督、コーチが十二球団で16人。最年長はドラゴンズの権藤博コーチで12月に74歳になる。ドラゴンズには高木守道監督を含め60歳以上の監督、コーチが3人いたことになるが、他にスワローズとベイスターズも3人いる。因みに同名鑑の2011年版を見ると12人だから4人増えている!

これは年齢がすべてではないが、元スポーツ選手であるコーチ陣の健康管理、体調管理を見直す時期ではないのかというのが敗戦処理。の意見なのである。

稲葉さんの悲劇を繰り返してはならないのだから。

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コメント

武人様、初めまして。コメントをありがとうございます。

私も全く同じ思いです。

投稿: 敗戦処理。 | 2012年9月 1日 (土) 17時05分

ご冥福お祈り捧げます

投稿: 武人 | 2012年8月31日 (金) 21時57分

チェンジアップ様、コメントをありがとうございます。

> この記事の内容とは似て非なることかも?ですが。
五輪野球及びWBCにおいて、日本人が過熱し過ぎるから、長嶋さんが脳梗塞になり、王さんが胃癌になって、岩瀬が命を狙われるような脅迫を受けるということです。

似て非なるものだと思います。そういうことにしておいてください。

> 日本の場合、野球と国際大会は「混ぜるな!危険」とか思ったりしてますよ、私。

オリンピックに関しては野球以外も同様だと思いますよ。

常日頃、その競技種目の応援をしている人ならまだしも、そうでない人達まで誰に丸め込まれたのかメダルを獲って当然みたいな感覚でプレッシャーをかける。

私も人の事を言えませんが…

投稿: 敗戦処理。 | 2012年8月14日 (火) 22時50分

こんばんは。この記事の内容とは似て非なることかも?ですが。
五輪野球及びWBCにおいて、日本人が過熱し過ぎるから、長嶋さんが脳梗塞になり、王さんが胃癌になって、岩瀬が命を狙われるような脅迫を受けるということです。

 幸い彼らは命を落とすことはなかったけど、ONは後遺症が残ってるわけですからね。

 日本の場合、野球と国際大会は「混ぜるな!危険」とか思ったりしてますよ、私。

 三人とも一歩間違えば、亡くなってます。

投稿: チェンジアップ | 2012年8月14日 (火) 22時34分

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