“鬼の目にも涙”落合博満が涙声になった敵地東京ドームでのV胴上げ【回想】敗戦処理。生観戦録-第34回 2006年(平成18年)編
これまで当blogで毎月2日に交互に掲載していた
敗戦処理。が生観戦した野球場が59ケ所の観戦球場を出し尽くしたので当面 敗戦処理。が生観戦したプロ野球- my only one game of each year 主体にいきますが、また新たに初めての球場で観戦したら臨機応変にはさむようにします。
1974年(昭和49年)に初めてプロ野球を生観戦した敗戦処理。はその後毎年、途切れることなく数試合から十数試合を生観戦しています。そこで一年単位にその年の生観戦で最も印象に残っている試合を選び出し、その試合の感想をあらためて書いていきたいと思います。年齢不詳の敗戦処理。ですが同年代の日本の野球ファンの方に「そういえば、あんな試合があったな」と懐かしんでもらえれば幸いです。
【回想】敗戦処理。生観戦録- my only one game of each
year第34回 2006年(平成18年)編
(写真:二年ぶりのリーグ優勝を決め、現役時代に所属したジャイアンツの本拠地東京ドームで胴上げされる落合博満監督。2006年10月撮影)
敗戦処理。は相手チームの優勝胴上げを生で観たことが二回ある。初めて見たのは1995年、神宮球場でジャイアンツがスワローズに敗れ、それによってスワローズのリーグ優勝が決まった試合だった。そしてもう一回、日本シリーズやファーム日本選手権を除くと、今回取り上げる、2006年のドラゴンズのリーグ優勝。
この試合も、前回10月2日付2005年編で取り上げた試合と同様のジャイアンツのホーム最終戦ということでチケットを購入した。三連休後の平日で試合の半分を見ることが出来なくなるのを覚悟の上でチケットを購入しておいたのだが、何の因果かドラゴンズが勝てば優勝というシチュエーションになってしまった。
ドラゴンズ
(二)荒木雅博
(遊)井端弘和
(右)福留孝介
(一)T.ウッズ
(三)森野将彦
(左)井上一樹
(中)英智
(捕)谷繁元信
(投)川上憲伸
ジャイアンツ
(二)脇谷亮太
(中)鈴木尚広
(遊)二岡智宏
(一)李承燁
(左)高橋由伸
(三)小久保裕紀
(捕)阿部慎之助
(右)清水隆行
(投)姜建銘
試合はドラゴンズの主砲、T.ウッズがジャイアンツの先発、姜建銘から四回に先制3ラン。ジャイアンツもその裏にドラゴンズの先発、川上憲伸から二岡智宏がソロ本塁打で1点を返すも、そのまま進捗。七回裏にジャイアンツが高橋由伸と小久保裕紀の連続本塁打で同点に追いついた。
敗戦処理。の東京ドーム到着はこの後、ジャイアンツは姜建銘から林昌範、豊田清とつないで必死の防戦体制に入っていた。ジャイアンツの方は球団史上初の二年連続Bクラスであったが、目の前で胴上げされるのは勘弁して欲しいし、試合後には最終戦ということでセレモニーもある。
敗戦処理。はほぼネット裏と言える一塁側内野席に陣取ったが、席に着いた瞬間、真正面と言えるレフトスタンドからの怒濤のような大観戦に圧倒された。タイガース戦でも経験したことのない圧迫感があった。「これがマジック1で相手の本拠地に乗り込むということか…」
同点で迎えた九回裏、ドラゴンズは井上一樹に代打、新井良太を出した関係でレフトに上田佳範を入れたのだが、これが上田にとってファイターズ時代から通算して1000試合出場達成だったので九回裏の守備を終えた時点で祝福の花束が贈られた。
上田は前年限りでファイターズから戦力外通告を受けてドラゴンズに入団。ファイターズでレギュラーだった時代の輝きを取り戻すことは出来なかったが、リーグ優勝のかかった試合でかつての本拠地で節目の記録を達成できたのは僥倖だったろう。
そして十一回に入ると、ジャイアンツは高橋尚成、ドラゴンズは岩瀬仁紀とともにクローザーをマウンドへ。どちらも2イニング覚悟での投入。
運命の十二回表、ドラゴンズは先頭の谷繁元信のライト前安打を皮切りにし、一死満塁として福留孝介がセンター前に。福留が右の拳を突き上げながら一塁に走ったのが印象的だった。
まだこの裏のジャイアンツの攻撃を抑えないと優勝は決まらないのだが、もう決まったような大歓声が球場を覆った。ジャイアンツファンも「何で最後まで…」と虚脱感にさいなまれているところに、さらに続く一死満塁からT.ウッズが特大の満塁本塁打。打った瞬間に、もうどこまで飛ぶのかというくらい大きな当たり…。敗戦処理。は打球の行く先を見なかった。ドラゴンズはこの後も高橋尚を攻めてもう1点追加したが、敗戦処理。も放心状態で満塁本塁打以降は記憶にない…。9対3。緊張の糸が切れたかのようにドラゴンズ打線に打たれ続ける高橋尚と、高橋尚をリリーフした酒井順也に業を煮やしたジャイアンツファンから「桑田出せ~」 のコールが起きた。
その裏のジャイアンツは先頭打者が安打で出たがあっさりと攻撃を終え、ドラゴンズのリーグ優勝が決まった。
【2006年10月10日】
D 000 300 000 006 =9
G 000 100 200 000 =3
D)川上、久本、岡本、平井、○岩瀬-谷繁
G)姜建銘、林、豊田、●高橋尚、酒井-阿部
本塁打)T.ウッズ46号3ラン(姜建銘・4回)、二岡25号、高橋由15号ソロ(川上・7回)、小久保19号ソロ(川上・7回)=二者連続。T.ウッズ47号満塁(高橋尚・12回)
最後の打者、代打の木村拓也がショートゴロに倒れた瞬間、ドラゴンズナインがマウンドに駆け寄った。
そして落合博満監督の胴上げ(冒頭の写真)。そして大声援を送ってくれたレフトスタンドに挨拶に出向き、ファンに感謝の意を表した。落合監督はこの前日の神宮球場での試合終了後にもレフトスタンドの近くまで趣き、ファンに頭を下げていた。
監督時代はファンサービスに今一つ無関心といわれる落合監督だったが、さすがに大目標達成をアシストしてくれるファンのありがたみは理解していたのだろう。
一段落したところで落合監督の優勝監督インタビュー。落合監督の声は完全に裏返っていた。
あの落合が涙声でインタビュアーの質問に答えていた。敗戦処理。もじーんと来た。あれほど冷静沈着な面持ちで接していても、やっぱりいざ優勝すると感無量なのか…。
そして、この時点でけっこうスタンドからジャイアンツファンは姿を消していたが、本拠地最終戦ということでジャイアンツナインがスタンドのファンにサインボールを投げ入れた。間が悪いというか、何とも白けムードが漂っていたが、チームとして一年間の応援に応えるセレモニーを省く訳にはいかない。今一つ盛り上がらない感じでサインボール投げ入れも終わり、いよいよ…と思いきや、移籍組ながらチーム・キャプテンに任命されていた小久保が多くのサインボールをかかえて再びグラウンドに姿を現した。小久保はレフト側のジャイアンツ応援席の近くまで走り、そこで待っているジャイアンツファンにボールを投げ込んだ。当時選手会長だった高橋由も続いた。歓喜するドラゴンズファンに押され気味ながら必死に応援してたファンへの心配りを忘れない小久保という男に感心した。
その小久保はFA権を行使してこの年限りでジャイアンツを離れ、古巣のホークスに復帰した。不可思議な無償トレードでジャイアンツに入団してわずか三年間の在籍だったが、小久保はそのリーダーシップでジャイアンツに確固たる足跡を遺したと思う。ただ、小久保がいた三年間ジャイアンツは優勝には縁が無かった。巨人軍第69代四番打者(173試合。歴代13位)、球団史上初の右打者として年間40本塁打以上(2004年に41本塁打。その後アレックス・ラミレスが二度記録)という記録も残したが…。そして入れ替わるようにFA移籍で入団した小笠原道大に導かれてジャイアンツは翌年からリーグ三連覇と躍進する。
ジャイアンツの監督に復帰した原にとってはグラウンド外では“あの事”に振り回されていたようだが、グラウンドの中でも不成績で目の前での胴上げ、球団史上初の二年連続Bクラスともがき苦しんでいたのだ…。
この翌日、パ・リーグのプレーオフ第2ステージが開幕し、ファイターズがホークス相手に連勝でパ・リーグ優勝を決めた。敗戦処理。が待ち望んでいた瞬間が25年ぶりに訪れるのだが、この日は本当に寂しく、でもちょっと感動した一日だった。
【参考資料】
12球団全選手カラー百科名鑑2006(日本スポーツ出版社)
スポーツ報知2006年10月11日付
東京中日スポーツ2006年10月11日付
あい ウオッチ baseball!!-敗戦処理。ブログ2006年10月10日付 悔しいけどおめでとう、中日ドラゴンズ!!
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント