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2013年6月 4日 (火)

ライオンズの相馬勝也ファームディレクター補佐兼育成担当が急死

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ライオンズの相馬勝也ファームディレクター補佐兼育成担当が
2日、患っていた胃がんとの闘いに終止符を打った。50歳の若さだった。2010年まではコーチを務めていたが2011年に編成担当、昨年からはファームディレクター補佐兼育成担当と裏方に回り、チームを支えていた。現役時代は捕手だったが、現マリーンズ監督の伊東勤が正捕手だった時代で出場機会を得られなかった。それでもライオンズ一筋で12年間プレー。公式戦出場は39試合。15打数1安打という成績だった。

2008年には渡辺久信監督の就任に合わせて一軍バッテリーコーチに就任。この年の日本一に貢献した。


(写真:バッテリーコーチとして日本一、アジアチャンピオンに貢献した2008年。アジアシリーズを制して渡辺久信監督を胴上げする輪に加わる相馬勝也バッテリーコーチ<当時>。左端の背番号88200811月撮影)



50
歳という、現役を引退して裏方として選手、球団をサポートするにはあぶらののりきった年代での病死は無念だろう。心からご冥福をお祈りします。

 

相馬さんの現役時代は1982年~1993年までの12年間。ライオンズでは伊東勤、工藤公康といった後の黄金時代の主力達と同期。だがその伊東と同じ捕手ということもあって、一軍には名を連ねていてもなかなか試合に出る機会を得るには至らなかった。位置づけとしては伊東がいて、第二捕手が興南高校で“マイク仲田”こと仲田幸司とバッテリーを組んでいた仲田秀司で、三番手の捕手という印象だ。失礼ながら敗戦処理。も名前は知っているがプレーでの印象はない。12年間で公式戦出場は39試合だったが、その半分以上の27試合に出場した1986年には実際に試合に出たのは1試合だけで、残りの26試合は(予告先発がなかった時代で)偵察要員としてスターティングメンバーに名を連ねるだけというものであった。当時、偵察要員といえば登板予定のない投手(主にその日の先発投手以外の先発ローテーション投手)というのが相場だったが、控え捕手が偵察要員に使われるということはそれだけ伊東が盤石な正捕手だったということだろう。偵察要員のことを「当て馬」と呼ぶことから「当て馬の相馬」と呼ばれていたらしい。

伊東は入団して二年目には一軍に定着する早熟型だったが、一般的には捕手は大成するのに時間を要するポジション。39試合の出場にとどまりながら12年間も現役を続けられるのは捕手だったからとも言えよう。しかし特筆すべきことはむしろその後。現役を引退した相馬さんはブルペン捕手としてチームに残ると、その後2007年に当時の二軍、グッドウィルのバッテリーコーチに就任。渡辺久信二軍監督の元、若手捕手の指導に尽力した。そして渡辺が一軍の監督に就任した2008年、相馬さんも一軍コーチに就任した。その一年目にリーグ優勝、日本一、アジアチャンピオンを味わった。
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コーチ業を四年間経験し、
2011年に編成担当、そして昨年からファームディレクター補佐兼育成担当だった。つまり、捕手として入団して以来ずっと裏方生活を含め32年間ライオンズの一員であり続けたのだ。

現役選手としての実績を考えると、よくぞ球団がその能力に気付いて登用したと言えよう。現役時代の選手としての名声にとらわれず、裏方スタッフに適材適所を求める球団であるということが垣間見られる。

実はライオンズのフロントスタッフにはOBではあるが、決して現役時代にスポットライトが当たっていたわけではない人が目立つ。

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毎日新聞社が発行する
2013スポニチプロ野球選手名鑑」には監督、コーチ、選手以外に打撃投手、ブルペン捕手といったグラウンドで選手を支援するスタッフといわゆるフロント業務の要職を務める職員の名が載っている。球団によって基準が異なるが、GMなどの編成部門や、最前線のスカウトなどだ。どの球団にも懐かしい名前が並んでいるが、ライオンズは特に凄い。

球団本部長兼編成部長 鈴木葉留彦
球団本部長付スタッフ 仲田秀司
編成部(育成アマ担当) 渡辺智男、野田浩輔、佐藤友亮、後藤光貴
ファームディレクター 鈴木哲
ファームディレクター補佐兼育成担当 相馬勝也

現役の延長線上のような打撃投手やブルペン捕手を別にしても、これだけ懐かしい名前が並ぶ。もちろんこれはライオンズに限った現象ではないが、各球団で思わず唸ってしまうような名前に出くわす。いわゆるポケットサイズの選手名鑑ではスポニチの他、日刊スポーツから発行されている選手名鑑にも詳しく出ているので、お持ちの方は目を通していただきたい。

球団によってはドラフト指名時にどうしても欲しい選手への“保険”として現役引退後に球団フロントでの受け皿を用意することがあるが、ドラフト外からの入団だった相馬さんは能力重視で抜擢されたと思われる。そして逆にいえばそういう適材適所な人選が出来ているから、ライオンズというチームは黄金時代経過後もAクラスの常連、常に優勝争いに加わるチームとして進化を続けているのだろう。現在の渡辺監督は2008年の就任一年目にいきなりリーグ優勝、日本一、アジアチャンピオンの座を勝ち取り、翌年こそBクラスに落ちたが、2010年から三年連続で二位と安定している。選手、コーチ、監督、フロントスタッフが一体になってこその成績なのだろう。

一方で、ライオンズも功労者流出の辛酸をなめている。

黄金時代の最強年を、日本シリーズでジャイアンツを四タテした1990年と仮定する。その日本シリーズ第一戦のスターティングメンバーを見てみよう。

()辻発彦
()
平野謙
()
石毛宏典
()
清原和博
()
デストラーデ
()
秋山幸二
()
吉竹春樹
()
伊東勤
()渡辺久信


この中でライオンズで現役生活を全うしたのは外国人選手のオレステス・デストラーデを別にすれば吉竹春樹と伊東だけだ。スタメンを外れているが、シーズン中、遊撃手のレギュラーだった田辺徳雄も晩年はジャイアンツに移籍した。FA移籍やトレードなどで晩年を他球団で過ごした選手が大半なのである。吉竹は元々タイガースからの移籍組ということもあって現役引退後はタイガースで指導者となった。伊東はライオンズで監督を務めた後、評論家活動を経て韓国プロ野球で指導者となり、今季からマリーンズの監督だ。辻発彦、平野謙、石毛宏典はライオンズに戻ることなく他球団でコーチとなった。主力選手が流出する一方で、裏方、フロントスタッフには現役時代の実績とは別に適材適所を割り振る。そんな環境で相馬さんも選手時代を上回る約二十年間、球団に残って手腕を発揮したのだろう。

現在、選手のセカンドキャリアとしての受け皿として球団内にポストをどんどん増設する球団が多い様だ。選手アカデミー校の講師なども増えてきた。だが、そうした次元とは異なる、ライオンズの適材適所の人材配置。ライオンズの長期安定の一因を見たような気がした。


それにしても、繰り返しになるが50歳とは早い旅立ちだ。

個人的な話で恐縮だが、私の周囲でも相馬さんのように若くして旅立たれた例がある。相馬さんは長く闘病生活をしていたそうだが、何の前触れもなく、おそわれた人もいた。

決して他人事ではない…という思いを強くするのだが、自分を省みると特に生活を変えるでもなく日々を過ごすままであるが、月並みな言葉ではあるが、人間、健康が第一である。

合掌。

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コメント

HARA88様、コメントをありがとうございます。

> 2日の日は西武ドームで現地生観戦でしたが相馬さんの訃報を知ったのがスタメン発表の数分後でした。本当にショックでした…。

エントリーでも触れましたが、私は相馬勝也さんの人となりを知りません。ライオンズの控え捕手、裏方のエキスパートという印象しかありません。

お気の毒としか言いようがありませんが、現役時代の実績や人脈学閥がものを言うという世界で、能力を見込まれたと思われる点、逆に言えばそういう適材適所ぶりにライオンズ球団の強さを感じました。

投稿: 敗戦処理。 | 2013年6月 6日 (木) 22時40分

2日の日は西武ドームで現地生観戦でしたが相馬さんの訃報を知ったのがスタメン発表の数分後でした。本当にショックでした…。


私が座ってる席の周りを見たら「何でライオンズの選手たちは喪章を付けてるんだ?」という感じでしたね。

投稿: HARA88 | 2013年6月 5日 (水) 23時17分

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