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2013年8月 2日 (金)

敗戦処理。的ドラゴンズ歴代ベストナイン-マイセレクトリアルタイムベストナインVol.3

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毎月2日、2月にスタートしたマイセレクトベストナインを偶数月に、 敗戦処理。が生観戦したプロ野球- my only one game of each yearを奇数月の2日に掲載しています。今月はマイセレクトベストナインの第3弾。


敗戦処理。は今年の生観戦で、初めてプロ野球の試合を生観戦してから四十年目となった。そこで旧近鉄バファローズを含めた十三球団の、初めて生観戦をした1974(昭和49)以降、即ちリアルタイムに見たベストナイン、ベスト一軍メンバー28人を自分なりに選んでみることにした。

1974年という年はジャイアンツの連続優勝がV9で止まった年であり、セーブが記録として制定された年である。そして日本ハムが日拓ホームから球団を買収し、ファイターズがスタートした年である。翌年にはパ・リーグで指名打者制が採用されるなど、大きな節目の時期でもある。当面偶数月の2日に一球団ずつ掲載しようと考えている。


マイセレクトリアルタイムベストナインVol.3-中日ドラゴンズ


今回も最初に定義を確認しておこう。


●調査期間は敗戦処理。が初めてプロ野球を生観戦した1974年(昭和49年)から執筆時期(公式戦完了済みシーズン)まで。したがって1973年(昭和48年)まで、及び今季の成績は含まない。
●親会社の変更は同一球団と見なす。
●期間内でも他球団に在籍していた期間の成績は含まない。
●主要個人成績(試合数、打率、安打、本塁打、打点、盗塁、勝利、セーブ、防御率等)記録も重視するが、敗戦処理。が受けたインパクトも重視する。
●外国人枠は設けない(制限なし)。
●同一人物の選手と監督との重複選出、複数球団での選出は可。
●ベストメンバー9人(パ・リーグは10人)を含む一軍28人と監督を選ぶ。
●この定義は適宜変更される事もあるかもしれない。

1973(昭和48)までの成績、記録を含めないのは過去を軽視しているのではなく、自分がリアルタイムに観ていない選手達を記録だけで比較する事がかえって非礼にあたると考えたからである。ある意味、自分史のまとめである。

この企画の対象年次は1974(昭和49)からだが、冒頭でも触れたようにジャイアンツのV9を止めたのがドラゴンズ。今季二年連続の日本一を狙うジャイアンツが実現したらV9時代以来の快挙になるということは、ドラゴンズに連覇を止められてからのジャイアンツに“黄金時代”は来ていないわけで、この年のドラゴンズの優勝は単にドラゴンズの球団史のエポックではなく、球界全体の流れの中で大きな意味を持つ。


【投手】

1974(昭和49)という年はセーブという制度が導入された年だ。セーブという制度が無くても、例えばジャイアンツで「八時半の男」の異名だった宮田征典のような抑え専任投手もいたことはいたのだが、あくまで例外的で、基本は勝ち目のある試合には先発投手が出来るだけ最後まで投げるという発想で、投手分業体制などという発想が無かった時代だった。

そんななか、ドラゴンズの近藤貞雄投手コーチは投手分業制を視野に入れており、セーブ制度が出来たからではないだろうが、当時先発でエース的存在だった星野仙一を抑え役として起用し始めた。もっとも昨今の抑え投手のように抑え専任ではなかった。ドラゴンズでは翌年以降の鈴木孝政からが抑え専任投手である。だが結果的に投手分業制の先駆的存在を担ったのがドラゴンズだったことになる。

ドラゴンズの投手で、1974年以降に限定してナンバーワン投手を考えると、今なお現役を続ける山本昌213勝で最多。これは対象年以前に遡ってもドラゴンズ歴代で最多勝(2位は杉下茂211勝)。ただ年間で20勝した経験が無く、15勝以上のシーズンも3回だけと、どちらかというと、“細く長く”的なイメージが強い。もっとも、ドラゴンズ自体、20勝投手が珍しく、1974年以降に限ると、1974年の松本幸行1989年の西本聖の二人しかいない。

山本昌に続く期間中2位の勝利数は鈴木孝政124勝だが、これまた細く長くの印象が強い。「エース」というイメージだと、同3位の122勝の小松辰雄4位の115勝の川上憲伸の方が強いかもしれない。そして5位で106勝の郭源治までが期間中に通算100勝以上挙げた投手となる。今中慎二91勝と以外に少なく、期間外を除いての計算になる94勝の星野仙一92勝の松本よりも少ない。

個人的にドラゴンズのエースというと今中というイメージが強い。山本昌が“細く長く”なら(あくまで比喩。“細く”とは言えまい…)、今中は“太く短く”だろう。ただ今中は15勝以上も1回だけで、その1993年に最多勝利と最多奪三振のタイトルを獲得したのみで、この点でも最多勝利3回に加え、防御率1位のタイトルを受賞している山本昌に叶わない。

ドラゴンズのベストナインの投手は山本昌を選ぶ。

【捕手】
1974年の時点でベテラン捕手的貫禄充分だった木俣達彦に始まり、中尾孝義、中村武志、谷繁元信とドラゴンズは約四十年間を四人の正捕手で乗り切ってきた感じだ。

入団二年目の1982年に、木俣に代わり正捕手の座を獲得した中尾は独特のブロックや正確なスローイングなどで「革命的捕手」と言われた。後のスワローズ、古田敦也の台頭もインパクトは強烈だったが、個人的には中尾の比ではなかった。ただその独特のブロックが常に故障のリスクを負い、負傷欠場も多かった。

中尾は後にジャイアンツにトレードとなるが、その直前に一度外野手にコンバートされている。ケガと背中合わせのポジションから離れ、センスのある打撃も活かそうとのコンバートだったと思われるが、その間に正捕手となったのが中村。1988年から正捕手に抜擢されたが、その時21歳。星野監督を初めとする首脳陣から厳しい指導を受けた。そして2001年のオフに、ベイスターズからメジャー移籍を目指してFA宣言した谷繁をドラゴンズが獲得するまで正捕手を守り続けた。中村は球団に不信感を持ち、出場機会を求めてのトレードを希望。谷繁が抜けるベイスターズへのトレードが決まった。そして谷繁が2002年の加入以来、ドラゴンズの正捕手であり続けている。

単純に正捕手として君臨した期間の長さを考えたら、中村の14年間に対し、谷繁はまだ11年間と短い。だが捕手としてベストナイン、ゴールデングラブ賞の獲得回数を比べると、中村がどちらも一度も獲得していないのに対し、谷繁は2002年以降のドラゴンズ在籍期間でゴールデングラブ賞に5回(ベストナインはなし)ここは谷繁を選ぶ。

【一塁手】
内野手を順に選んでいくが、1987年から1993年まで在籍し、その間に本塁打王と打点王を2回ずつ獲得している落合博満の扱い。三塁手として考えるか一塁手とするかだ。ポジション別の出場試合数を観ると、移籍一年目の1987年には三塁手として111試合、一塁手として32試合に出場した(試合途中の出場も含む。一試合で両方守った場合はそれぞれにカウントする。以下同じ)。翌1988年には一塁手としての出場数が三塁手としての出場数を上回り、三年目の1989年には再び三塁手としての出場数が一塁手としての出場数を上回っていたが、三塁手としては翌1990年に1試合出場したのが最後。この年から一塁手専任という形になり、後に移籍するジャイアンツとファイターズでは一塁手以外の守備には付いていない。結局ドラゴンズでの7年間では一塁手として682試合、三塁手として247試合。落合は一塁手として他の選手と比較する。

だがいかんせん在籍7年間は短い。落合移籍の前年まで在籍し、長く打線の主軸として活躍した谷沢健一にはかなわない。

谷沢は通算2062安打の内の1576安打を、通算273本塁打の内の221本塁打を1974年以降に記録しており、この期間の通算打率が.312で自身の生涯打率.302を上回っている。落合流出後は大半のシーズンを外国人選手でまかなっていることを考えても、一塁手には谷沢を選ぶ。

【二塁手】
監督の高木守道1974年の時期はまさに円熟期だったが、レギュラーとしての長さではナンバーワンとは言えない。ドラゴンズ一筋で22年間プレー。当企画の期間中で2000本安打以上をドラゴンズでただひとり記録した立浪和義か、現役の荒木雅博の二択となろう。

立浪は入団一年目の1988年にはショートを守っていたが、体力的な不安から、1992年からは二塁に回る。以後外野と掛け持ちのシーズンもあるが基本的に二塁手として活躍、33歳になる2002年から三塁に回る。そしてこの年から二塁手のポジションをつかんだのが荒木だ。落合監督の構想で井端弘和との二遊間コンビをそっくり入れ替わった時期もあるが、今日に至るまで荒木がレギュラーを勝ち取っている。

大雑把に大別すれば1974年以降、高木、上川誠二、立浪、荒木という系譜になるが、ここは「ミスタードラゴンズ」立浪を二塁手として選ぶ。

【三塁手】
ケン・モッカ(1982年~1985)レオ・ゴメス(1997年~2002)といった印象的な外国人助っ人もいたが、2005年くらいから正三塁手として君臨している森野将彦が通算成績という点では圧倒している。ただ森野の半分にも満たない在籍期間ながら森野の135本塁打を上回る153本塁打を放ったゴメスも捨てがたい。森野はピーク期が短い感じがして個人的には残念なのであるが、球団史上最もチーム成績が安定していた落合政権下での貢献度も加味し、三塁手として森野を選ぶ。

【遊撃手】
「ミスター珍プレー」宇野勝と、現在もレギュラーとして君臨する井端弘和の二択になろう。1974年以降、ドラゴンズ最多の334本塁打を放った宇野は遊撃手としての出場も1121試合。だが井端の遊撃手としての出場数は1407と、既に宇野を超えている。全くタイプの異なるこの二人の比較は難しいが、ベストナイン受賞回数で宇野の3回を上回る5回受賞、宇野が一度も受賞していないゴールデングラブ賞を7回受賞している井端を選ぶ。宇野選手&宇野ファンの皆さんごめんなさい。

【外野手】
先述の落合同様、ポジションを何処にするか迷うのが大島康徳。代打男から次第に頭角を現したが、1974年以降のドラゴンズでのポジション別出場数を見ると、外野手で1113試合、一塁手で534試合、三塁手で437試合。外野手として他の選手と比較したい。

大島の魅力は一発長打だが、1974年~1987年までのドラゴンズでの通算本塁打は287本。1974年以降では宇野の334本に次ぐ2位で、谷沢の221本塁打をも上回る。まずは当確としたい。

余談だが現役時代の大島は上記のどのポジションでもベストナインを獲得していない。三塁手のレギュラーとなった1977年には27本塁打を含む144安打を放ち、打点は71、打率はリーグ4位の.333という好成績を挙げたが、セ・リーグのベストナインの三塁手はこの年に23本塁打を含む126安打、69打点で打率はリーグ5位の.331だった掛布雅之が選ばれた。

また一塁手のレギュラーだった1979年にセ・リーグの最多安打のタイトルとなる159安打を放ったが、それ以外にも36本塁打、103打点、打率はリーグ3位の.317と自己最高の成績を残した。だが大島と比較すると安打数で43本少なく、本塁打で3本、打点で22打点少なく、打率も.285と比較にならない選手がこの年のセ・リーグのベストナインの一塁手に選ばれた。その選手の名は王貞治。王は当時のセ・リーグの一塁手部門の常連で、一本足打法で初めて本塁打王に輝いた1962年からずっとベストナインを独占していた。固定概念に勝てなかったか?

また、山本浩二と並ぶ36本塁打で本塁打王に輝いた1983年には外野手だったが、外野手でベストナインに選ばれなかった。大島にとって今回が初めてのベストナイン受賞だ。


大島以外の二人を誰にするか…。

デビューは内野手だったが、外野手に転向後に開花したといえる福留孝介はドラゴンズ在籍期間に1175安打、192本塁打、647打点、打率.305という成績が残っている。これは田尾安志1059安打、102本塁打、375打点、打率.301を上回る。他には平野謙と、その後任の彦野利勝も長く外野のレギュラーとして活躍したが、脇役的存在のため、打撃主要記録で比較するとどうしても不利だ。

また2008年から在籍する和田一浩も既に五年間で103本塁打、371打点を記録しているが、ここ二年間の打率低下でドラゴンズでの通算打率が三割を切ったので残念ながら選から外したい。

大島、福留、田尾で選びたいところだが、外国人助っ人で6年間の在籍で打率三割以上4回、三年連続首位打者のアロンゾ・パウエルも選びたい。765安打、107本塁打、369打点と、在籍期間が短い分見劣りするが、通算打率.312は特筆すべきであろう。因みに田尾も福留も打率三割以上が4回。田尾は四年連続打率三割以上を継続中ながら、1985年の春季キャンプイン直前にライオンズにトレードされた。当時の衝撃は今年の糸井嘉男以上だった。

そこで田尾には大変申し訳ないが、田尾の代わりにパウエルを選び、外野手は大島、福留、パウエルの三人とする。

荒木や宇野といった一時代を築く選手でも漏れるのは、長期にわたり上位に定着しているドラゴンズならではのうれしき悲鳴、誤算かもしれない。他にも1994年に本塁打王に輝き、通算215本塁打を放った大豊泰昭や、その二年後の1996年に本塁打王に輝いた山崎武司186本塁打を放っている。

最後に、監督を選ぶ。

【監督】

1974年以降のドラゴンズの監督を列挙しよう。

与那嶺要74年~77年)25722934分、勝率.529。リーグ優勝1
中利夫78年~80年)15720429分、勝率.435
近藤貞雄81年~83年)17618133分、勝率.493。リーグ優勝1
山内一弘84年~86年)15414226分、勝率.520
高木守道 (86年、92年~95年、12年~) 31930222分、勝率.514
星野仙一87年~91年、96年~01年)76666827分、勝率.534。リーグ優勝2回
山田久志02年~03年)128127敗5分、勝率.502
落合博満(04年~11)62949130分、勝率.562。リーグ優勝4回、日本一1回、クライマックスシリーズ優勝3

与那嶺要監督は72年から指揮。
86年は76日から山内一弘監督に代わり高木守道監督。
95年は729日から高木守道監督に代わり島野育夫が監督代行。
00年は57日~510日まで星野仙一に代わり島野育夫が監督代行

先述したようにセ・リーグの老舗球団であるドラゴンズは基本的にドラゴンズOBを主体に監督選びをしている。優勝監督となった与那嶺要監督と近藤貞雄監督は現役時代の晩年をドラゴンズで過ごしている。異色なのは山内一弘監督で、1984年に監督として迎え入れられるまで、選手としてだけでなくコーチとしてもドラゴンズに在籍経験がない。ドラゴンズでの監督就任以前にオリオンズで監督経験があったが、ドラゴンズとの接点は愛知県出身ということくらいか…。他に山田久志監督も現役時代にドラゴンズでプレーしていないが、監督就任前に星野監督の下でコーチを務めた。

この中から選ぶとしたら、優勝回数の多さもさることながら、一度もBクラスに落ちていない落合博満監督となるだろう

落合野球にはドラゴンズファンの間でもいろいろな意見があるようだが、ここは残した数字と、ドラゴンズのライバルであるジャイアンツファンの視点として、一番イヤな監督という点でも落合を選ぶ。

それでは敗戦処理。が選ぶマイセレクトリアルタイムベストナインで打線を組もう。

()立浪和義
()井端弘和
()福留孝介
()谷沢健一
()大島康徳
()パウエル
()森野将彦
()谷繁元信
()山本昌
監督:落合博満


そしてマイセレクトリアルタイム一軍28はこんな感じ(投手は先発、中継ぎ、抑えを配分)

【投手】
山本昌、今中慎二、小松辰雄、郭源治、川上憲伸、堂上照、鹿島忠、鈴木孝政、牛島和彦、岩瀬仁紀
【捕手】
谷繁元信、中村武志、中尾孝義
【内野手】
谷沢健一、立浪和義、森野将彦、井端弘和、落合博満、荒木雅博、レオ・ゴメス、宇野勝
【外野手】
大島康徳、福留孝介、アロンゾ・パウエル、田尾安志、大豊泰昭、和田一浩、平野謙

ドラゴンズは1974年から2012年までの39年間で8度のリーグ優勝を数える。これはライバルのジャイアンツの同期間での15度に比べると見劣りするが、さすがセ・リーグの老舗球団である。Bクラスで終えたのは2001年が最後だ。ただそれほどの球団でありながら、この球団一筋で現役生活を終える長寿の選手が少ないのが残念だ。1987年に監督に就任した星野監督が自分の現役時代を知る選手を片っ端からトレードしたのも大きいだろかもしれない。

見方を変えれば積極的に血の入れ替えをしているといえる。

28人枠にもMVP受賞者の野口茂樹、本塁打王を獲得した山崎武司.ウッズ、さらに関川浩一落合英二といった個性派が漏れてしまうのもそれだけ人の入れ替わりが激しかったからだろう。

次回は10月2日付で東京ヤクルトスワローズ編を予定。

【参考文献】
・「THE OFFICIAL BASEBALL ENCYCROPEDIA 4版」社団法人日本野球機構
・「2013ベースボールレコード・ブック」株式会社ベースボール・マガジン社
・「ベースボールマガジン2010年3月号」(「移籍」のドラマ チームを変える男たち!)株式会社ベースボール・マガジン社
・「プロ野球人名事典2003」森岡浩編著、日外アソシエーツ
・CD版「野球の記録で話したい Baseball Stats Lounge」 広尾晃氏

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