「打撃の神様」、V9の名将川上哲治さん逝く
日本のプロ野球とともに歩んできた歴史の生き証人がまた一人旅立った。
川上哲治さんは日本のプロ野球が本格的にリーグ戦を初めて三年目の昭和13年(1938年)に巨人軍に入団。同期には千葉茂さんや、熊本工業でバッテリーを組んでいた吉原正喜さん、現役の内海哲也の祖父、内海五十雄さんらがいる。入団二年目に首位打者、四年目に最高殊勲選手を受賞、首位打者を5回獲得し、史上初の通算2000本安打を達成するなど活躍し、「打撃の神様」の異名を取った。長嶋茂雄が入団した昭和33年(1958年)のシーズンを最後に現役引退。ジャイアンツのコーチを経て昭和36年(1961年)からジャイアンツの監督としてチームを率いる。
就任一年目でセ・リーグ優勝、日本シリーズ優勝を果たした。就任五年目の昭和40年(1965年)から昭和48年(1973年)まで9年連続リーグ優勝、9年連続日本一、いわゆる“V9”を果たした。連覇がストップした昭和49年(1974年)のシーズンを最後に監督を退任。現役を引退したばかりの長嶋茂雄に監督の座を禅譲した形だった。この時まだ54歳だったが、以後、二度とユニフォームを着ることはなかった。現役時代の背番号16はジャイアンツの永久欠番。昭和40年(1965年)野球殿堂入り。平成4年(1992年)文化功労者に。ジャイアンツを退団してからはNHKの野球解説者として活躍するかたわら、一時は長嶋茂雄とともに毎週金曜日にフジテレビ系列「笑っていいとも」に出演し、初期の同番組の高視聴率に貢献した。
※ 写真は2007年11月に行われたタイガースとのOB戦にて撮影。この時87歳。
と、巨人軍入団からの一通りの経歴を走り書きしたが、敗戦処理。が日本のプロ野球に興味を持ち始めたのが昭和48年(1973年)でV9最後の年。川上監督の監督姿は最後の二年間しか見ていないことになる。その偉大な足跡は今さら驚くまでもないが、54歳でユニフォーム生活を終えたというのが今となっては意外な感じだ。正直に言ってテレビの野球中継で見る川上監督、あるいは「巨人の星」や「侍ジャイアンツ」に出てくる川上監督は当時子供だった敗戦処理。にはかなりおじいさんに近い、怖いおっさんにうつった。ちなみに原辰徳監督が今、55歳だから、川上さんは今の原監督の年齢時にはもうNHKの解説や、野球教室で全国を回っていたのだ…。
その“川上哲治野球教室”を子供の頃に見学した記憶がある。細かい場所は覚えていないが、近所の友達のお父さんの車に皆で乗って、かなり離れたところで行われた“川上哲治野球教室”を見に行ったのだ。
当時の野球少年達にも川上監督の威光は凄まじく、準備運動的にキャッチボールを始めた野球チームの選手達が川上監督が近くに来たら緊張したのか、身体の正面に投げられたボールを捕球し損なった子がいた。意識すればするほど固くなるのか、その子は二球続けて何でもないボールを捕り損ねた。見物人から小さな笑いが起きると、川上監督がマイクを握った。
「今のは投げた方と受ける方とどちらのミスだと思いますか。そりゃあ正面に投げたのだから、受ける方のミスだと思いますよね。これが試合だったら、捕り損ねた君にエラーが記録されるでしょう。でもね、投げた方の君、君は相手の胸の真ん中に投げたのだから、何もミスをしていないと思っているだろうけれど、そうじゃないんだよ。君は相手が捕れない球を投げてしまったんだ。そう考えることが野球に大切なチームワークの第一歩なんだよ」
指導者として川上監督の教えを聞いていた大人達が唖然としていたのを覚えている。常に相手の立場に立ってものを考える。川上監督はこういうことを言いたかったのだろう。どっちにエラーが記録されるかなんて、大した問題ではない。アウトに出来る走者をアウトに出来なければどっちの問題だろうとピンチになると言うことだ。この川上監督の教えは野球のみならず、いや、スポーツに限らず、仕事でも何でも集団生活には応用できる考え方だと思う。
川上監督といえば徹底した管理野球が有名だが、そんなものを少年野球の子供たちに教えても身につかない。野球をやる上で大切な事、野球以外の日常生活、学校での生活で大切な事を何パターンか川上さんは用意していて、状況に応じて使い分けていたのだろうと、それから何年かしてわかった。
川上監督がなくなられたのは今日(30日)ではなく、28日だったという。監督として日本シリーズに11回出場して11回とも勝利した短期決戦の鬼が日本シリーズ期間の試合の無い移動日に息を引き取ったというのは偶然ではないのかもしれない。
冒頭にも書いたが、ジャイアンツは今、その川上監督時代以来の二年連続日本一に近づいている。達成すれば四十年ぶりだ。常勝と言われたジャイアンツはその後も日本一には幾度も輝いているが、日本一の翌年に連続で日本シリーズに出たのは今回で二度目に過ぎない。ドラフト制度の効果などいろいろあり、ジャイアンツが一人勝ちする時代はもう来ないのだろう。この四十年間、ジャイアンツ以外の球団でも二年連続日本一はブレーブス(1975年~1977年)、カープ(1979年~1980年)、ライオンズ(1982年~1983年、1986年~1988年、1990年~1992年)しかない。
川上監督が率いて達成したV9がストップした年に、川上監督が退任し、現役を引退した長嶋茂雄に監督を引き継いだ。その長嶋茂雄は現役最後の試合の挨拶で「我が巨人軍は永久に不滅です」という名台詞を吐いたが、結果的にはジャイアンツが不滅だったのはこの時までだったと言えなくもないと思う。長嶋茂雄はこう言い切ったばかりに自分が監督になって苦労したと思うし、見方を変えれば不滅であり続けようとしたばかりに様々な迷走を繰り返したと思う。もちろんそれは川上監督が悪いのではないが…。
今日のジャイアンツは一回表に3失点し、今年の日本シリーズの流れからすると、そのまま打線が沈黙して敗れ去っても不思議ではなかったが、ゴールデンイーグルスの家当の隙を突いて逆転勝利をつかむことが出来た。勝利を決めた寺内崇幸の一打は詰まりながらも、前進するライトの岡島豪郎の前に落ちるポテンヒット、いわゆるテキサスリーガースヒットだった。晩年の川上さんは、川上さんが打者だからと警戒して深めに守る外野手の前にポトリと落ちる安打を打つことから「テキサスの哲」と言われたという。
寺内を川上さんになぞらえるのはあまりに失礼な比喩だが、川上さんが巨人ナインを叱咤激励して後押ししてくれた一勝だと思う。その川上さんへの恩返しは川上さんの時代以来の連続日本一に他ならないだろう。あと二勝。王手をかけるのは川上さんと同期の祖父を持つ内海に託された。
もっとも、ゴールデンイーグルスの星野仙一監督も川上信者であることはつとに有名。現役引退後、NHKの解説者となって川上さんに従事。後に“ジジイ殺し”の異名を取る星野監督の真骨頂はまず川上さんに仕えたことから始まっている。
ドラゴンズ、タイガース、野球日本代表監督、ゴールデンイーグルス監督といずれも「背番号77」を付けているのはもちろん川上監督に由来する。
原監督は川上さんの直弟子ではないが、原監督が恩師と慕う故藤田元司さんは川上監督のいわば直弟子。日本シリーズは二勝二敗の五分となって、新たに弔い対決の様相も呈してきた。
【参考文献】
「G OF THE YEAR2013」 読売巨人軍
「プロ野球人名事典2003」森岡浩編著(日外アソシエーツ)
「野球殿堂2012」財団法人野球体育博物館
(注.現一般社団法人野球殿堂博物館)
※ 筆者注 川上氏の経歴に一箇所ジョークを混ぜています。本気で怒らないで下さい。
P.S.
10月31日追記
東京ドーム22番ゲート前広場に設置された、記帳台に記帳に行ってきました。
記帳台は10月31日の日本シリーズ第5戦終了までの設置ですので、もう設置されていないはずです。
2014年5月6日追記
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