ファイターズ後楽園球場時代のV戦士、柏原純一が打撃コーチに就任
13日、ファイターズは来季のコーチングスタッフを発表した。目玉は白井一幸内野守備走塁コーチ兼作戦担当の7年ぶりの復帰と一般には見られているだろうが、個人的には柏原純一が一軍打撃コーチに就任することが感慨深い。
大沢啓二監督の元、後楽園球場を本拠地にパ・リーグ優勝を果たした昭和56年(1981年)の不動の四番打者にしてチームリーダー。♪ピッピッ、ピピピピピピピ、ピッピッ、ピピピピピピピ、ピッピッ、ピピピピピピピ、かっとばせぇかしわばら~ 耳を澄ませば聞こえてくる柏原コール。現役引退後はドラゴンズやタイガースでコーチを経験しているが、ファイターズでは2002年からプロスカウトを勤めていたもののコーチ就任は初めて。
懐かしい後楽園V戦士の現場復帰。現役時代にチームを何度も救った勝負強さをファイターズナインに引き継いで欲しい。
(写真:敗戦処理。が現役時代の柏原純一に往復ハガキに書いてもらったサイン。消印を見ると1980年になっている。)
このオフ、高代延博、古屋英夫といったファイターズの後楽園V戦士がタイガースのコーチに就任との報が入ってきた。
懐かしさとともに若干の寂しさを感じていた。だがV戦士の中心的存在、柏原純一が初めてファイターズのコーチとしてユニフォーム姿で球場に帰ってくる。これは個人的に嬉しい。
ファイターズがチームの功労者を指導者として残す例が少ないのは、選手が自分の意思でチームを離れる事が出来るFA制度が実現する前から変わっていない。あの当時から、晩年になって成績が衰えた功労者が次々とトレードなどで去っていた。柏原も例外でなく、後にタイガースへトレードとなった。敗戦処理。の心境は拙blog2013年10月7日付エントリー【裏読み】「4522敗の記憶」~人の振り見て我が振り直せ!? に記したので時間のある方は参照されたい。
安打製造機のトミー・クルーズを三番打者に、「サモアの怪人」の異名で相手球団を震え上がらせた豪快な一発屋トニー・ソレイタを五番打者に従えて不動の四番打者としてチームを引っ張った柏原。天下一品だった一塁守備の他にも三塁、二塁を器用にこなすオールラウンドぶりも光った。リーグ優勝の前年、昭和55年(1980年)には当時の130試合、全試合フルイニング出場を果たしながら、チーム事情で一塁と三塁の併用だったため、規定の守備試合数にどのポジションでも足りないという珍事も起きた。
四番を打っていたが、本塁打を量産するタイプでなく、確実性と勝負強さで打線を牽引。最近のファイターズに例えれば中田翔というよりは四番に定着した年の高橋信二、打点王を獲得した年の小谷野栄一にイメージが近いか。またいわゆる生え抜き選手でないのにチーム・リーダーとして信頼を集めた存在感は稲葉篤紀にもダブる。
柏原は元々南海ホークスの選手。野村克也が監督兼捕手としてチームを引っ張っていた当時に頭角を現した。プレイングマネージャー野村は当時まだ入籍前の野村沙千代を現場に介入させる公私混同ぶりで昭和52年(1977年)限りでホークスを追われてしまうのだが、その球団の姿勢に反対してトレードを直訴したのが野村を慕う江夏豊と柏原。結局江夏はカープに、柏原はファイターズにその年のオフにトレードとなった。
その時期のファイターズは旧東映カラーを一掃するかのように大杉勝男、白仁天、張本勲といったいかにも“東映フライヤーズ”らしい選手達を次々と放出。日本ハムファイターズとしての新しいチームカラーを模索していた。大沢啓二監督は主に大学、社会人からの即戦力ルーキーを獲得し鍛えていった。前出の高代、古屋らもこの時期に力を付けていった。新しいチームゆえに外様の柏原もリーダーシップを発揮しやすかったのだろう。そして「あと一歩」で後期優勝を逃した昭和55年(1980年)のシーズン終了後、「来年は優勝しかない!」と勝負を賭けてカープから“優勝請負人”江夏をトレードで獲得。実力は誰しもが認めるが行く先々でトラブルを起こす一匹狼を、ホークスのお家騒動時の同志柏原がフォローするという体制が自ずと出来上がり、大沢親分の操縦法も巧みで翌昭和56年(1981年)ファイターズはついに後期優勝を果たし、前期優勝のロッテオリオンズをプレーオフで破り、パ・リーグのチャンピオンとなった。北海道に移転して2006年に優勝するまで、この年の優勝がファイターズになってからの唯一の優勝だった。
プロスカウトとは他球団の選手を観察し、トレードなどの際の戦力分析のデータ収集をする仕事。コーチとして最後にユニフォームを着ていたのがタイガースのコーチとしての2001年だから、選手指導としては十二年間のブランクがある。因みに今季まで打撃コーチをしていた渡辺浩司も打撃コーチ就任前は現役引退後、六年間プロスカウトを務めていた。渡辺は再びプロスカウトに就任する模様。
余談だが渡辺前コーチは現役、コーチ、フロントと球団に継続して在籍しているという点では五十嵐信一前二軍監督(2012年まで二軍監督。今年から査定担当)に次ぐ長さだそう。
近年のファイターズの、北海道移転後十年間で四回もリーグ優勝する安定感の基盤となっているのはフロント主導のチーム編成、適材適所のコーチ人選の成果で、トレイ・ヒルマン、梨田昌孝、栗山英樹と三代続いている優勝監督がいずれもOBでないのと同様に、コーチングスタッフも監督の腹心でもなければOB重視でない人選が奏効しているのは認めているが、敗戦処理。のような古いタイプの野球ファンにはそんな中に随所にチームの歴史を知るOBにいてほしいと思うものだ。
白井一幸の復帰が、北海道移転後初のOB監督誕生の地慣らしだとの声が一部ファン、マスコミから挙がっているが、敗戦処理。的には柏原の復帰はそんな理屈無しで嬉しい。
ファイターズのOB会長を務める西崎幸広あたりにもそろそろユニフォームをという期待があり、その娘が「ヤングマガジン」 の表紙を飾る時代に、西崎より一回り上の柏原がコーチに就任するのはいささか時計を逆回転させているきらいもあるが、柏原の勝負強さをファイターズナインに浸透させて欲しい。中田か陽岱鋼あたりが柏原コーチの武勇伝に看過され、敬遠球に手を出す場面も想像出来る<笑>。
なお柏原が最も輝いていた頃、昭和56年(1981年)の日本シリーズでの柏原の勇姿をDVDで確認出来る。
NumberVIDEO「熱闘!日本シリーズ 1981巨人-日本ハム」 (文藝春秋)。ファイターズは二勝四敗でジャイアンツに敗れたが、ファイターズの主砲柏原はジャイアンツのエース江川卓から二本の本塁打を放つなど打率。421と奮闘したが、二勝一敗と有利で迎えた第4戦の守備で挟殺プレーで致命的なミスをして流れをジャイアンツに奪われたとも取れるミスもした。
最後に、来年も“レジェンドシリーズ”を実施するのなら、ファイターズにはこの当時のユニフォームを着て欲しい…。
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コメント
元近鉄ファン様、コメントをありがとうございます。
> カブスユニ着用実現しました。
二年経ちましたが、実現しましたね!
三日間、楽しかったです。
投稿: 敗戦処理。 | 2015年9月20日 (日) 12時54分
カブスユニ着用実現しました。
投稿: 元近鉄ファン | 2015年9月19日 (土) 18時58分
まーく様、コメントをありがとうございます。
> 私もこのユニフォーム見たいですね。
一般的にはオレンジユニの方が人気ですが、その時代は暗黒時代だったので・・・・高橋直樹、大宮、島田誠、木田、他球団に行った選手ばかりですが呼んでほしいです。
エントリーで引用した【裏読み】「4522敗の記憶」~人の振り見て我が振り直せ!?で触れたように、この時代の選手はほとんどファイターズで現役生活を終えていません。
その反省も込めて、来年また「レジェンドシリーズ」の類の企画があったらこの時代のユニフォームを見たいですね。
投稿: 敗戦処理。 | 2013年11月21日 (木) 23時46分
私もこのユニフォーム見たいですね。
一般的にはオレンジユニの方が人気ですが、その時代は暗黒時代だったので・・・・高橋直樹、大宮、島田誠、木田、他球団に行った選手ばかりですが呼んでほしいです。
投稿: まーく | 2013年11月21日 (木) 21時19分