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2014年12月 2日 (火)

敗戦処理。的ライオンズ歴代ベストナイン-マイセレクトベストナインVol.9

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毎月2日、昨年2月にスタートしたマイセレクトベストナインを偶数月に、 敗戦処理。が生観戦したプロ野球- my only one game of each yearを奇数月の2日に掲載しています。今月はマイセレクトベストナインの第9弾。


敗戦処理。は昨年の生観戦で、初めてプロ野球の試合を生観戦してから四十年目となった。そこで旧近鉄バファローズを含めた十三球団の、初めて生観戦をした1974(昭和49)以降、即ちリアルタイムに見た時代のベストナイン、ベスト一軍メンバー28人を自分なりに選んでみることにした。


1974年という年はジャイアンツの連続優勝がV9で止まった年であり、セーブが記録として制定された年である。そして日本ハムが日拓ホームから球団を買収し、ファイターズがスタートした年である。翌年にはパ・リーグで指名打者制が採用されるなど、大きな節目の時期でもある。


そして敗戦処理。は今年の生観戦で生観戦歴四十周年となった。NPBは今年を“プロ野球80周年”と称している。日本のプロ野球の約半分をリアルタイムに共有していることになる。


マイセレクトリアルタイムベストナインVol.9-太平洋クラブライオンズ~クラウンライターライオンズ~西武ライオンズ~埼玉西武ライオンズ編



今回も最初に定義を説明しておこう。



●調査期間は敗戦処理。が初めてプロ野球を生観戦した1974年(昭和49年)から執筆時期(公式戦完了済みシーズン)まで。したがって1973年(昭和48年)までの成績は含まない。
●親会社の変更は同一球団と見なす。
●期間内でも他球団に在籍していた期間の成績は含まない。
●主要個人成績(試合数、打率、安打、本塁打、打点、盗塁、勝利、セーブ、防御率等)記録も重視するが、敗戦処理。が受けたインパクトも重視する。
●外国人枠は設けない。
●同一人物の選手と監督との重複選出、複数球団での選出は可。
●ベストメンバー9人(パ・リーグは10人)を含む一軍28人と監督を選ぶ。
●この定義は適宜変更される事もあるかもしれない。


1973(昭和48)までの成績、記録を含めないのは過去を軽視しているのではなく、自分がリアルタイムに観ていない選手達を記録だけで比較する事がかえって非礼にあたると考えたからである。ある意味、自分史のまとめである。


敗戦処理。が生観戦を始めた1974年(昭和49年)、ライオンズ球団にとっては混迷の時期であった。長く球団の親会社だった西日本鉄道が撤退して、オーナー球団が見つからず太平洋クラブが今で言うネーミングライツ風にスポンサードして二年目。1977年からはクラウンライターに代わる。西武鉄道グループがオーナー企業となり本拠地を埼玉に移転して常勝球団化する前の話である。現役大リーガー、フランク・ハワードの獲得に成功し、オープン戦でジャイアンツの番場蛮のハラキリシュートの弱点を見つけるなどさすがの存在感を見せたが、公式戦では開幕戦に1試合出ただけで故障して欠場。そのまま退団に至る語り継がれるエピソードがこの年。二年後には大リーグでワールドシリーズを制覇したこともある名将、レオ・ドローチャー 監督を招聘するも、体調不安で来日前に退団が決まるなど、迷走していた時期だ。


1978年のシーズン後に西武鉄道が買収して西武ライオンズとなって福岡を離れ、埼玉県所沢市に本拠地を移転。初年度は春季キャンプを海外で張り、日本ではオープン戦なしという異色のスタートを切ったが、開幕から連敗街道をひた走り、最下位に終わった。前年のクラウンライターライオンズ最終年から指揮を執っていた根本陸夫は新球団の明るいイメージをも利用したドラフト戦略や、グループ企業の社会人野球、プリンスホテル経由での新人選手獲得が波紋を呼ぶなどもあったが、チーム改革の種を蒔いた上で広岡達朗、森昌彦のコンビにチームを託し、1982年に前後期制の前期優勝を決めると、プレーオフでもファイターズを制してリーグ優勝を果たし、日本シリーズでもドラゴンズを倒して日本一に輝いた。翌年もパ・リーグで連破し、日本シリーズでは逆転に次ぐ逆転の名勝負を展開し、四勝三敗でジャイアンツを倒して連続日本一。“球界の新盟主誕生か”とも言われた。


1986年に森祇晶監督になってからはまさに常勝球団となる。1989年こそ近鉄バファローズに逆転優勝をさらわれるも、1986年から1988年まで三年連続日本一、1990年から1992年まで三年連続日本一。リーグ優勝では広岡監督最終年の1985年から森監督の最終年に当たる1994年まで十年間で九回を数える。


森監督の後を受けた東尾修監督は1995年、1996年とブルーウェーブの後塵を拝して優勝を逃すが、就任三年目の1997年に初のリーグ優勝を果たすと翌1998年もリーグ連覇。後を継いだ伊原春樹、伊東勤、渡辺久信といった監督は就任一年目にリーグ優勝を果たし、監督が替わってもコンスタントに優勝。今季、監督に返り咲いた伊原監督がシーズン途中に休養を申し出て歴代監督の連続優勝は広岡、森、東尾、伊原、伊東、渡辺の六人連続で止まったが、セ・リーグの常勝球団ジャイアンツを除けば最長記録である。


西武ライオンズになってからはグループでの経営が続いているが、名物オーナーの堤義明オーナーが撤退を余儀なくされると、その後はドラフトでの契約金の問題発覚などでコンプライアンスが問われるようになると、常勝期のような補強がままならなくなった。FA制度下では流出した選手は十二球団で最多となるなど、苦しいが、それでも今季を別にすればほとんどの年で優勝争いに加わっている。


ベストナインの選考に当たっては、広岡、森監督時代の常勝期のメンバーが多数を占めることが予想されるが、順に選んでいこう。


【投手】
西鉄ライオンズの晩年を支えた東尾修が太平洋クラブライオンズから西武になってもエースとして君臨。
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「管理野球」を標榜する広岡監督と水と油なのは容易に想像出来たが、日本シリーズなどここ一番での東尾の起用法を見ると、頼りにしていたこともわかる。東尾のライフタイム記録の内、1974年以降に限定すると、199174敗。ライフタイムが251247敗と“貯金4”だったことを考えると、西武時代にいかに貯金したかがうかがえる。



東尾以降のエース級は本企画の対象期間である1974年から2014年に収まっている。しかし東尾の199勝が期間中最多勝であり、現役の西口文也182勝で続くが二年間勝ち星なし。
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以下、渡辺久信124勝、郭泰源117勝、工藤公康113勝、松沼博久112勝と常勝期の主力投手の名がずらりと並ぶ。


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「平成の怪物」松坂大輔
は在籍8年間でポスティングシステムを利用して大リーグに移籍したこともあって108勝止まりと期間中TOP5にも入らない。但しこの7投手を在籍年数の平均勝利数で比較すると、松坂の一年平均13.5勝という成績は東尾の13.3勝、松沼兄の9.3勝を抑えて№1になる。
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ライオンズ時代の松坂が濃密な成績を残していたことがうかがえる。



ベストナイン投手としては、太平洋、クラウンライター、西武と時代を駆け巡り期間中最多の199勝を挙げた東尾修を選ぶ。


【捕手】
これはもう、1982年から2003年までの22年間で、捕手としての出場だけでも2327試合を数える伊東勤の独壇場であろう。
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伊東以前だと若菜嘉晴、伊東以後だと細川亨、炭谷銀次朗が正捕手として活躍したのが目立つが、ここは伊東以外あるまい。ベストナイン捕手は伊東勤とする。



【一塁手】

ここも、まずは清原和博の名前が浮かぶ。
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1986年に入団してすぐにレギュラーとなり、一年目の終盤には四番に座り、そのまま日本シリーズまで四番を務めぬいた若き主砲はジャイアンツにFA移籍するまでの11年間での329本塁打は、秋山幸二1本上回る期間中最多である。その能力の高さからすると、それでも清原に対しては物足りないと回顧するファンも少なくないと思うが、成績は随一である。
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21世紀に入って2001年から2007年まで桁外れのパワーを見せつけたアレックス・カブレラが上述の松坂と同様に在籍年数での本塁打数を計算すると、2002年に当時の日本タイ記録となる年間55本塁打を記録したカブレラの一年当たりの本塁打数が39本となって清原の29.9本を上回るが、長きにわたり、ライオンズの主砲として活躍した清原和博をベストナインの一塁手とする。



【二塁手】
福岡時代なら基満男、西武になってからは初年度にオリオンズから移籍してきた山崎裕之、森監督時代の辻発彦。その後は高木浩之、そして昨年まで在籍していた片岡治大と、いかにも二塁手らしい二塁手の系譜が続いている。山崎は名球会入りしている名選手だが、オリオンズ時代の実績と成績が割れてしまう。ライオンズでは670安打に過ぎない。


名手辻はライオンズでは実働12年。1296試合に出場し、1195安打を記録。1993年には首位打者に輝いているが、何より固い守備でピンチを救ってきた印象が強い。片岡は937試合、963安打と辻に届かない。片岡に盗塁王4回、最多安打1回のタイトル獲得があるが、ベストナイン獲得回数で辻の5回に対し、片岡1回、ゴールデングラブが辻8回、片岡なしと辻が圧倒している。ベストナインの二塁手には辻発彦を選ぶ。


【三塁手】
ここまで広岡、森監督時代のレギュラー選手の名が並んできたが、三塁手に関しては常勝期のチーム・リーダーであった石毛宏典の試合数が、遊撃手で804試合、三塁手で926試合と割れる。対抗馬としては現役の「おかわりくん」中村剛也になるが、三塁手としての出場は671試合と石毛に及ばない。中村の本塁打王4回は、清原が一度も本塁打王を獲得出来なかったこともあり、期間中最多であり、特筆すべき点であるが今季までの通算成績は1070試合、904安打。石毛の1726試合、1806安打に比べると(まだ現役だからなのだが)石毛に及ばない。
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ベストナインの三塁手には石毛宏典を選ぶ。



【遊撃手】
石毛を三塁手で選んだので、石毛以外の選手からベストナインの遊撃手を選ぶ。石毛の三塁手転向後に遊撃手としてのポジションを勝ち取ったのが来季は正式に監督として指揮を執る田辺徳雄。地味ながら内野のキーポジションを強固にしていた。期間中に1222試合に出場し、925安打を記録。


だが、その田辺と入れ替わるようにレギュラーポジションを獲得した松井稼頭央が高い身体能力をベースにリードオフマンとして活躍する。
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盗塁王3回、最多安打2回、MVP1回でFA権を行使して大リーグに進むまで1159試合に出場して1433安打。通算打率が3割を超えて.309。大リーグを経てゴールデンイーグルスに入団。昨年は38歳になる年度で守備の規定試合出場数になる96試合以上出場した初めての遊撃手となった。今季は外野守備にも挑戦。来季には日本球界での成績のみでの通算2000本安打達成も近づいている超ベテランだ。松井と入れ替わるように定位置を獲得した中島裕之もチームの顔と言える活躍をしたが、海外FA権を行使して大リーグに移籍。通算成績が伸びない。



ベストナインの遊撃手には松井稼頭央を選ぶ。


【外野手】
世間を驚かせた大型トレードの印象でライオンズよりホークスの印象が強いと見る向きもあるだろうが、秋山幸二13年間のライオンズ時代に残した成績は立派の一言に尽きる。期間中、清原に次ぐ二番目に多い328本塁打を放ち、1210試合で1224安打。AK砲として、秋山と清原が共にライオンズに在籍した1986年から1993年までの8年間の二人合わせた本塁打数は531(秋山284本、清原247)
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これは日本球界約80年の公式戦成績で、ジャイアンツのON砲こと、王貞治、長嶋茂雄1,049本、カープの山本浩二、衣笠祥雄999本塁打、ドラゴンズの大島康徳、谷沢健一568本塁打、フライヤーズ~ファイターズでの大杉勝男、張本勲548本塁打に次ぐ、二人コンビの同時期での合計本塁打数では第5位である。秋山31歳、清原26歳という若さで秋山がトレードになったのが記録面では残念である。



この秋山とのトレードでライオンズに加入した佐々木誠は秋山の後を受けて清原の前の三番を打った。秋山と異なる左打者ということで、ジグザグの三、四番となってライオンズに新風を巻き起こしたが、ライオンズ在籍期間は5年と短く、576試合で592安打、60本塁打、打率.274にとどまった。



移籍組では平野謙も在籍期間が6年間と意外に短い。698試合で696安打。6年間のうち、5年間にリーグ最多犠打を記録して254犠打が特筆される。


だが佐々木、平野とも現役の栗山巧の実働11年、1217試合、1284安打、64本塁打、509打点。打率.292に比べても見劣りする。
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外野手で秋山に次ぐ成績となると、秋山と同様に円熟期にチームを離れているが、和田一浩を挙げたい。栗山と同じ実働11年、958試合に出場して1032安打、177本塁打、543打点。打率は3割を超えて.317。栗山に数値で劣る部門もあるが、和田の残した成績は栗山を上回る、少なくとも遜色ないと言えよう。


そしてこのチームの外野手としては西鉄時代の晩年を知る大田卓司の名を忘れてはならないだろう。対象期間の1974年から現役最終年の1986年まで1062試合、796安打、154本塁打で501打点。打率は.271。西武になってからもあのジャイアンツとの死闘の日本シリーズでMVP。現役最終年のカープとの第8戦までもつれた、三連敗から四連勝の日本シリーズでは第8戦で決勝のホームを踏んだが、その前の意表を突く二盗には感動したものだった。


外野のポジションは三つ。この中から誰かを落とさなければならない。個人的には大田を残したいところであるが、九州時代の選手では投手部門で東尾を選んでいるので、大田を外して秋山幸二、栗山巧、和田一浩とする。


【指名打者】
ライオンズの指名打者というと、1990年代にAK砲の後ろの五番打者として他球団とそのファンに脅威を振りまいたオレステス・デストラーデ
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実働5年間ながら517試合に出場。476安打、160本塁打、389打点、打率は.2621990年から1992年まで三年連続でパ・リーグ本塁打王。日本シリーズでもその猛打は脅威となり、ジャイアンツが四連敗を喫した1990年の2本塁打を始め、翌1991年も2本、スワローズとの死闘で第7戦までもつれ込んだ1992年は3本塁打を放った。日本シリーズでは三年とも第1戦の第1打席で本塁打を放った。指名打者としての出場は496試合。これは大田卓司の501試合に次ぎ、田淵幸一488試合を上回るチーム2位。大田を外野手でなく指名打者で選出することも考えたが、大田は外野手として293試合に出場。指名打者としての出場の方が圧倒的に多いものの、指名打者専任という感じのデストラーデに比べるとインパクトという点で弱い。



デストラーデの5年間での160本塁打は一塁手の項でのカブレラ同様、一年当たりの本塁打数では清原を上回る平均32本塁打。


ベストナインの指名打者にはオレステス・デストラーデを選ぶ。


【監督】
最後に監督をひとり選ぶ。1974年以降の歴代監督を列挙する。


稲尾和久(1974)59647分け、勝率.480
江藤慎一(1975)586210分け、勝率.483。
ドローチャー(1976)来日せず、勝敗なし。
鬼頭政一(1976年~1977)9314918分け、勝率.384
根本陸夫(1978年~1981)21926536分け、勝率.452
広岡達朗(1982年~1985)29520421分け、勝率.591。優勝3回、日本一2回。
森祇晶(1986年~1994)67343859分け、勝率.606。優勝8回、日本一6回。

東尾修(1995年~2001)48942523分け、勝率.535。優勝2回。
伊原春樹(2002年~2003)1671103分け、勝率.603。優勝1回。
伊東勤(2004年~2007)2872575分け、勝率.528。優勝1回、日本一1回。プレーオフ出場3回。
渡辺久信(2008年~2013)43839531分け、勝率.526。優勝1回、日本一1回。アジアシリーズ優勝1回、CS出場5回。
伊原春樹(2014)20330分け、勝率.377

※ 
1997年に須藤豊が代行で30敗、2014年に田辺徳雄が代行で4344敗4分け。


レオ・ドローチャーを記載するべきか悩んだが、当時、監督就任が発表されたことと、人気選手名鑑、「ファン手帳」にこの年の太平洋クラブライオンズの監督として掲載された事実があるので、記載した。
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(写真上:レオ・ドローチャーを太平洋クラブライオンズの監督として顔写真を掲載している1976年の「ファン手帳」。来日していないので、帽子は大リーグでのもの<!?> 写真下:1976年の「ファン手帳」の表紙。)


この年の「ファン手帳」はこの年に初めて日本の球場に採用された、後楽園球場の人工芝のグラウンドの写真を採用している。おそらくこけら落としのファイターズとブレーブスのオープン戦であろう。ということは、オープン戦の時期まで、病気を理由に来日しなかったドローチャーをライオンズは待ち続けていたという事なのだろうか…。


そうなのだ。ライオンズ球団がドローチャー監督との契約破棄を発表したのはこの後楽園球場でのオープン戦の二日後、3月15日だった。前年、一度は留任が発表された江藤慎一監督に代わり、大リーグで2000勝以上挙げた名将ドローチャーの就任が報じられたのが12月の中旬で、就任決定と発表されたのが年明けの1月10日。春季キャンプが始まっても来日出来ず、開幕も近づき、選手名鑑が発売された後の時期に契約破棄が決まったのだ。


本題に戻ろう。上述したが、西武になって広岡達朗監督で1982年に優勝して以来、広岡、森祇晶、東尾修、伊原春樹、伊東勤、渡辺久信と歴代の監督が6人続けて優勝を果たしているのが特筆される。
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ジャイアンツのV9、9年連続日本一は本企画の対象期間の前の出来事。ジャイアンツのV9時代以降の日本のプロ野球で最強のチームはライオンズと言って過言でもないと思える。1974年以降でライオンズのリーグ優勝が15回で、日本一が内10回。同じ期間でジャイアンツはリーグ優勝こそライオンズを上回る17回だが、日本一が7回とライオンズに劣る。また、西武になって初年度の1979年にライオンズは最下位に落ちたが以後最下位になっていない。これは1975年に最下位になって以来再び最下位になっていないジャイアンツと共に、平成になってから最下位になっていない。
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5回のリーグ優勝の内の、過半数の8回、10回の日本一の内、過半数の6回を監督として達成した森祇晶をベストナインの監督として選ぶ。


それでは一通り選び終わったところで、敗戦処理。が選ぶマイセレクトベストナインでオーダーを組んでみる。


()松井稼頭央
()辻発彦
()秋山幸二
()清原和博
()デストラーデ
()和田一浩
()石毛宏典
()栗山巧
()伊東勤
()東尾修



なかなかのメンバーだが、既に現役を引退している7人のうち、ライオンズで現役生活を終えたのが外国人のデストラーデを別にすると東尾と伊東しかいない。現役選手で選ばれている松井と和田も他球団に流出している。ライオンズの歴史は栄光の歴史と共に、流出の繰り返しでもあることをうかがわせる。


最後に一軍登録と同じ28人を選ぶ。


【投手】
東尾修、松坂大輔、渡辺久信、西口文也、工藤公康、郭源治、鹿取義隆、潮崎哲也、永射保、豊田清
【捕手】
伊東勤、細川亨、炭谷銀次朗
【内野手】
清原和博、カブレラ、デストラーデ、辻発彦、片岡治大、石毛宏典、中村剛也、松井稼頭央、田辺徳雄、中島裕之
【外野手】
秋山幸二、栗山巧、和田一浩、大田卓司、平野謙


田淵とか立花義家を入れたいのですがねぇ…。あと、本選考の対象外ながら、フロントスタッフとしての根本陸夫、コーチとしての伊原春樹も欠かせない人物と言えよう。


そして番外編として、冒頭の画像の渡辺美里と、「地平を駆ける獅子を見た」を歌う松崎しげるも外せない。

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次回は来年2月2日に、大洋ホエールズ~横浜大洋ホエールズ~横浜ベイスターズ~横浜DeNAベイスターズ編を予定。


【参考文献】
・『THE OFFICIAL BASEBALL ENCYCROPEDIA 4版』社団法人日本野球機構
・『2014ベースボールレコード・ブック』ベースボール・マガジン社
・『プロ野球人名事典2003』森岡浩編著、日外アソシエーツ
・CD版『野球の記録で話したい Baseball Stats Lounge』 広尾晃
・『九州ライオンズ激闘史』ベースボール・マガジン社
・『ファン手帳』1976年版:ファン手帳社
・『朝日新聞縮刷版』昭和50年12月、昭和51年1月、昭和53年3月:朝日新聞社


※ 松沼兄と石毛宏典の画像は現役引退後に撮影したものです。

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