敗戦処理。的ホエールズ~ベイスターズ歴代ベストナイン-マイセレクトベストナインVol.10
毎月2日、一昨年2月にスタートしたマイセレクトベストナインを偶数月に、
敗戦処理。が生観戦したプロ野球- my only one game of each yearを奇数月の2日に掲載してきましたが、今月はマイセレクトベストナインの第10弾。
敗戦処理。は一昨年の生観戦で、初めてプロ野球の試合を生観戦してから四十年目となった。そこで旧近鉄バファローズを含めた十三球団の、初めて生観戦をした1974年(昭和49年)以降、即ちリアルタイムに見た時代のベストナイン、ベスト一軍メンバー28人を自分なりに選んでみることにした。
1974年という年はジャイアンツの連続優勝がV9で止まった年であり、セーブが記録として制定された年である。そして日本ハムが日拓ホームから球団を買収し、ファイターズがスタートした年である。翌年にはパ・リーグで指名打者制が採用されるなど、大きな節目の時期でもある。
そして敗戦処理。は昨年の生観戦で生観戦歴四十周年となった。NPBは昨年を“プロ野球80周年”と称している。日本のプロ野球の約半分をリアルタイムに共有していることになる。
マイセレクトリアルタイムベストナインVol.10-大洋ホエールズ~横浜大洋ホエールズ~横浜ベイスターズ~横浜DeNAベイスターズ
今回も最初に定義を説明しておこう。
●調査期間は敗戦処理。が初めてプロ野球を生観戦した1974年(昭和49年)から執筆時期(公式戦完了済みシーズン)まで。したがって1973年(昭和48年)までの成績は含まない。
●親会社の変更は同一球団と見なす。
●期間内でも他球団に在籍していた期間の成績は含まない。
●主要個人成績(試合数、打率、安打、本塁打、打点、盗塁、勝利、セーブ、防御率等)記録も重視するが、敗戦処理。が受けたインパクトも重視する。
●外国人枠は設けない。
●同一人物の選手と監督との重複選出、複数球団での選出は可。
●ベストメンバー9人(パ・リーグは10人)を含む一軍28人と監督を選ぶ。
●この定義は適宜変更される事もあるかもしれない。
※1973年(昭和48年)までの成績、記録を含めないのは過去を軽視しているのではなく、自分がリアルタイムに観ていない選手達を記録だけで比較する事がかえって非礼にあたると考えたからである。ある意味、自分史のまとめである。
敗戦処理。が生観戦を始めた1974年(昭和49年)、当時の大洋ホエールズは万年Bクラスといって差し支えない存在だった。 昨年、セ・リーグの順位が一昨年と全く同じだったことが話題となったが、前回この現象が起きたのが、本企画の対象初年度にあたる1974年(昭和49年)の前年、1973年とその一年前の1972年で、1位(優勝)からジャイアンツ、タイガース、ドラゴンズ、アトムズ、ホエールズ、カープという順位が二年間続いた。ジャイアンツV9の最後の二年間なのだが、ジャイアンツの1位だけでなく、当時の十年間(1964年~1973年)セ・リーグでAクラスの顔ぶれとBクラスの顔ぶれがほぼ固定されていた。この十年間、ジャイアンツは唯一優勝出来なかった1964年も3位に入っており、十年間ずっとAクラス。タイガースも十年間で9回Aクラス入り。残る1枠もドラゴンズが過半数の6回Aクラスに入っており、Aクラス争いはセ・リーグの老舗三球団による寡占市場に近かった。そんな中ベイスターズの前身のホエールズは1964年にタイガースと最後まで優勝を争って1ゲーム差の2位に終わったほか、1969年から1971年に三年連続でAクラス入りと健闘していた。(他にカープにAクラス1回、スワローズはなし)
当時は川崎球場を本拠地にしていたが、1978年に横浜スタジアムが完成すると本拠地を移転してチームカラーを変えていくがBクラスに低迷するシーズンが大半を占めるようになった。1998年に、1960年以来、38年ぶりの優勝、日本一に輝くが、これが本企画の対象期間で唯一の優勝。期間中に一度しか優勝していないのは他には歴史が浅いゴールデンイーグルスだけである。
この間、親会社は大洋漁業、東京放送(TBS)、DeNAと変遷を辿っている。
この球団のベストナイン、ベスト監督、ベスト一軍入り28人を選ぶ。リーグ優勝、日本一になった1998年を含めて五年連続Aクラスになったこの時期の選手主体になりそうだ。
【投手】
敗戦処理。が日本のプロ野球に興味を持って生観戦を始めた1974年当時のエースは平松政次。通算201勝で球団の歴代最多勝利である。だが、1973年までに94勝を挙げており、期間中は半分の107勝にとどまっている。
期間中に平松の107勝を上回る勝ち星を挙げている投手は128勝の斉藤明夫、134勝の遠藤一彦といるが、トップは現役の三浦大輔で、昨年まで166勝を挙げている。これまでの選び方だと、ベストナインの投手部門は三浦を選ぶところだが、このチームの四十年間でのナンバーワンの投手を選ぶとすると、佐々木主浩の存在を考えなければならない。
抑え投手だけに勝ち星こそ43勝と平凡だが、積み重ねた252セーブ、特にリーグ優勝、日本一に輝いた1998年の45セーブ、防御率0.64は圧巻。今日ではどの球団でも抑え投手は最終回の頭から投入を原則として、そこから逆算してどう継投でつないでいくかを考えるのが定石となっているが、その契機になったのが佐々木だったと思う。それまでは江夏豊に代表される、“危なくなったら抑え投入”がセオリーだったのを佐々木が、というか権藤博監督が変えたと思う。
佐々木以前にも安定感のある、相手から見ると難攻不落な抑え投手はいたが、当時の考え方として、先発投手が一人で完投して勝てない場合に備えて抑え投手や、他のリリーフ投手がいたという感じだった。権藤監督は実際に語っているが、佐々木という絶対的な抑え投手をいかに有効に使うかを考えたときに、原則、九回の1イニングオンリー。これであれば、年間の、リードして最終回を迎えた試合をほぼ全部佐々木で勝てると考えていた。そしてその佐々木までリードを保ってつなぐために、中継ぎ投手のローテーション化などの策を講じた。
そういった分岐点的な存在でもあったことと、期間中唯一の優勝シーズンの絶対的守護神ぶりに敬意を表して佐々木主浩をベストナインの投手に選ぶことにする。
【捕手】
1974年当時の伊藤勲から、プロゴルファー福嶋晃子の父、福島久晃、辻恭彦、市川和正、若菜嘉晴といった昔ながらの捕手像が当てはまる捕手が代々正捕手を務めていたが、1989年入団の谷繁元信が長く正捕手として君臨する。高校卒一年目から80試合に出場(捕手としては75試合)すると、そのまま正捕手の座を射止め、FA権を行使してドラゴンズに移籍する2001年まで13年間で1417試合に出場した。
谷繁流出後は相川亮二が正捕手になったが、その相川もFA権を行使してチームを去る。しかも相川がFA権を取得するシーズンにシーズン中に二番手捕手の鶴岡一成をジャイアンツにトレードしてしまうと言う見通しの甘さを露呈してしまった。冒頭の写真にも載せた、村瀬秀信氏の「4522敗の記憶」でも谷繁の流出が現在に至るベイスターズの長期低迷のターニングポイントになっていると言及している。DeNA体制になってGMに高田繁が就任してチーム編成に見直しがなされるかと期待されているが、そんな見通しの甘いトレードで追われた球団にFAで戻ってきてくれた鶴岡をタイガースの久保康友FA獲得の際に「どうぞ、持って行って下さい」とばかりにプロテクトしないなどまだ迷走が続いている一面もある。
谷繁はドラゴンズでもベストナイン捕手に選んでいるが、上記“定義”にもあるように同一人物の複数球団での選出を妨げない。ホエールズ~ベイスターズのベストナイン捕手は谷繁元信とする。
【一塁手】
平松と並ぶ、打者としての球団の顔、松原誠は19年間在籍し、2081安打を記録したが1974年以降に限定すると944安打(打率.291、151本塁打、567打点)にとどまる。むしろ移籍組だが期間中、松原と同じ7年間の在籍で979安打(打率.289、63本塁打、469打点)の駒田徳広がクローズアップされる。甲乙付けがたい。しかも二人とも、打撃だけでなく一塁守備も一級品。安打数以外、微妙に駒田を上回る松原は主に四番を務めていた点も併せて考慮し、ベストナイン一塁手には松原誠を選ぶことにする。
なお10年間の在籍で945安打を放ち、右打者最高打率を樹立した2008年には一塁手として119試合に出場していた内川聖一に関しては通算では一塁手として240試合出場しているが外野手として363試合に出場しているので後述する外野手部門で選考の対象とする。
【二塁手】
長くレギュラーとして君臨した二塁手といえば文句なしで高木豊だが、短期間でもインパクトがあった存在となると、1998年のリーグ優勝、日本一の時期に大暴れしたロバート・ローズ。
高木豊は1981年から1993年まで13年間在籍。三年目から11年連続で年間の規定打席に達していた。1668安打を放ち、通算打率は.298。ゴールデングラブ賞こそ、かの暴言<!?>の影響か一度だけだったが、篠塚利夫らと同時代ながらベストナインに三度選ばれている。通算で313盗塁を記録し、「スーパーカートリオ」の核弾頭としても活躍したが、盗塁王は1984年の一回のみ。その1984年には最多盗塁刺の記録も樹立した。
1993年のシーズン後、突然、戦力外通告を受ける。その年の成績は130試合に出場して打率.268、3本塁打、42打点、9盗塁という決して誉められた成績ではないが全試合に出場していただけに意外、衝撃的だった。この年の高木豊の年俸は推定で9840万円。ジャイアンツでFA宣言した駒田の獲得に名乗りを挙げており、その駒田の獲得資金捻出のために高額年俸の高木豊と屋鋪要がリストラの対象になったと当時報じられた。昨今ではさほど珍しくなくなった高額年俸選手への戦力外通告の走りだったと言えよう。
その高木豊の在籍最終年に入団したのがローズ。同年入団の外野手、ダグ・ブラッグスとともにライバル球団の投手陣をその打棒で震え上がらせた。在籍8シーズンで打率三割が7シーズン。3929打数1275安打で通算打率が.325。167本塁打、808打点。マシンガン打線の中核を為した。条件面で折り合わず2000年のシーズン限りで退団したが、惜しまれたのは通算の打数が3929で、通算打率の規定打数4000に足りなかったこと。あと一年長くプレーしていれば、通算打率1位のレロン・リーの.320を上回っていたかもしれない。もっとも、れば・たらで言い出したらイチローもあと1年日本でプレーしていれば4000打数に達していた可能性が高いのでイチローが断トツで1位になっていただろう。
なおローズは二年間のブランクを経て2003年にマリーンズに入団するが、キャンプ中に退団した。
高木豊かローズか、期間中唯一の優勝となった1998年前後の活躍を評価してロバート・ローズをベストナイン二塁手に選ぶ。
【三塁手】
川崎球場最終年に彗星の如く輝く活躍でブレークしたのが田代富雄。本塁打1本ごとにヘルメットに★型のシールを貼っていくことも話題になった。滞空時間の長い独特の本塁打の軌道の美しさは当時田淵幸一に次ぐ美しさだった。16年間で1526試合に出場。期間中チーム最多の278本塁打を記録。打点も867だ。だが打撃タイトルとは無縁だった。
村田修一は田代の半分強の9年間の在籍ながら251本塁打を放ち、本塁打王にも二度輝いた。2008年に記録した46本塁打は球団歴代で年間最多本塁打記録。特筆すべき点は北京五輪の野球日本代表に選出されて欠場期間があったこと。なお、この球団では年間で40本以上の本塁打を放ったのが村田とT.ウッズ(2003年、2004年)しかいない。
村田が田代並みに長く在籍していたら…とは本企画では考慮しない。あくまで実際に残した記録で判断する。記録面では田代が上回るが、T.ウッズと二人しか獲得していない本塁打王に二度輝いている点も加味して、ベストナインの三塁手には村田修一を選ぶ。
【遊撃手】
本企画の対象初年度に入団した山下大輔は長く正遊撃手を務めていた。この球団には珍しい華やかなスター選手であり、ショートの守備の華麗さは敗戦処理。が四十年の日本プロ野球ファン歴で№1だと思っている(山下以後、守備の名手と呼ばれる遊撃手は何人も出たが、華麗という点では山下が№1)。
だが、攻走守すべてをトータルで考えると、期間中のみならず、球団歴代最多安打に当たる2307安打を放った石井琢朗に軍配が上がるだろう。355盗塁も、317盗塁の屋鋪、313盗塁の高木豊らを抑えて球団最多記録。37歳になるシーズンまで遊撃手のレギュラーを守り通した点も評価し、ベストナインの遊撃手は石井琢朗とする。
【外野手】
既に名前が出ている屋鋪要は期間中第2位の317盗塁もさることながら、その俊足を活かしての群を抜く守備範囲の広さを発揮した守備力も含め、外せない存在だ。「マシンガン打線」の安打製造機、鈴木尚典も外せない。18年間で1517試合に出場し、1456安打。打率は三割を超える.303。「マシンガン打線」でその鈴木尚の前の二番を打った波留敏夫は7年間の在籍で690試合、755安打、打率.291。在籍7年と書いたが、その7年目のシーズン途中にドラゴンズにトレードで球団を去った。他には1982年のセ・リーグ首位打者、長崎慶一。11年間の在籍で1203試合に出場、1063安打、131本塁打。打率.285。ホエールズでは優勝には縁が無かったが、タイガースに移籍した初年度の1985年にリーグ優勝&日本一を経験。日本一に王手をかけて臨んだ日本シリーズ第6戦の初回に満塁本塁打を放ったシーンは今も記憶に残っている。高木豊、屋鋪と「スーパーカートリオ」を結成した加藤博一も忘れがたい。オフシーズンごとにプロ野球選手が出演する歌番組やクイズ番組で異彩を放っていたが、ライオンズ、タイガースを経てたどり着いたホエールズで、8年間で701試合に出場して411安打を記録した。打席登場時に下の名前でシュプレヒコールをかけるのはこの人への「ひろかずぅー」が元祖ではないか<!?>。
内川も一塁手としてより外野手での出場数が多いので外野手として検討するが、ブレークしたのが8年目と遅く、活躍三年間でFA移籍をしてしまったため、ベイスターズでの通算成績は打率.313こそ立派だが、安打数945で長崎にかなわない。
各年代から満遍なく上がったが、屋鋪要、長崎慶一、鈴木尚典の三人をベストナインの外野手部門に選ぶことにする。
【監督】
敢えて選考するまでもなく、期間中唯一の優勝監督である権藤博で決まりなのだが、一応歴代監督を列挙しよう。
宮崎剛(1974年)55勝69敗6分け、勝率.444。
秋山登(1975年~1976年)96勝147敗17分け、勝率.395。
別当薫(1977年~1979年)174勝179敗37分け、勝率.493。
土井淳(1980年~1981年)97勝133敗16分け、勝率.422。
関根潤三(1982年~1984年)160勝203敗27分け、勝率.441。
近藤貞雄(1985年~1986年)113勝130敗17分け、勝率.465。
古葉竹識(1987年~1989年)162勝215敗13分け、勝率.430。
須藤豊(1990年~1992年)135勝147敗4分け、勝率.479。
江尻亮(1992年)54勝54敗1分け、勝率.500。
近藤昭仁(1993年~1995年)184勝206敗0分け、勝率.472。
大矢明彦(1996年~1997年)127勝138敗0分け、勝率.479。
権藤博(1998年~2000年)219勝186敗2分け、勝率.541。リーグ優勝、日本一1回
森祇晶(2001年~2002年)112勝145敗9分け、勝率.436。
山下大輔(2003年~2004年)104勝170敗4分け、勝率.380。
牛島和彦(2005年~2006年)127勝154敗1分け、勝率.452。
大矢明彦(2007年~2009年)132勝190敗3分け、勝率.410
尾花高夫(2010年~2011年)95勝181敗12分け、勝率.344
中畑清(2012年~)133勝196敗14分け、勝率.404。
二度監督に就任した大矢明彦こそ合計で五年間指揮を執っていて最長。優勝監督である権藤監督ですら指揮を執ったのが三年間で、期間中では最長。そういう意味では今季で就任四年目を迎える中畑清は異例の存在。ただ三年間の勝率は期間中の監督で下から四番目。中畑監督は就任まで球団に何の縁もなかったが、過去にもカープで一時代を築いた古葉竹識、ライオンズ黄金時代の名将、森祇晶を大胆に招聘した実績もあるが残念ながら好結果に結びついていない。迷走の繰り返しだった球団史そのものと思える。
最初に書いた通り、権藤博をベストナインの監督に選ぶ。
それでは一通り選び終わったところで、敗戦処理。が選ぶマイセレクトベストナインでオーダーを組んでみる。
(遊)石井琢朗
(右)長崎慶一
(左)鈴木尚典
(二)ローズ
(一)松原誠
(三)村田修一
(中)屋鋪要
(捕)谷繁元信
(投)佐々木主浩
なかなかのメンバーだが、前回のライオンズの項と同じく、このチームで現役生活を終えた選手が少ないのが残念。この9人では一度大リーグに渡った佐々木も含めれば8人が他球団に移っている。しかも他球団で現役を務めている選手が2人もいる。そもそもこのベストナインで現役選手が名を連ねるケースが少ないだけに、何とももったいない感じがする。
最後に一軍登録と同じ28人を選ぶ。
【投手】
佐々木主浩、三浦大輔、遠藤一彦、斉藤明夫、平松政次、野村弘樹、川村丈夫、盛田幸妃、山口俊、木塚敦志、島田直也
【捕手】
谷繁元信、相川亮二、福島久晃
【内野手】
松原誠、駒田徳広、ローズ、高木豊、村田修一、田代富雄、石井琢朗、山下大輔
【外野手】
鈴木尚典、屋鋪要、長崎慶一、内川聖一、加藤博一、金城龍彦。
28人の中にも、既に名前が挙がった選手を含め、他球団での現役選手が5人いる。何ともはや…
次回は4月2日に、阪急ブレーブス~オリックス・ブレーブス~オリックス・ブルーウェーブ~オリックス・バファローズ編を予定。
【参考文献】
・『THE OFFICIAL BASEBALL ENCYCROPEDIA 第4版』社団法人日本野球機構
・『2015ベースボールレコード・ブック』ベースボール・マガジン社
・『プロ野球人名事典2003』森岡浩編著、日外アソシエーツ
・CD版『野球の記録で話したい Baseball Stats Lounge』
広尾晃
・『日本プロ野球監督列伝1936-2014』ベースボール・マガジン社
・『4522敗の記憶 ホエールス&ベイスターズ涙の球団史』村瀬秀信著、双葉社
・『最後のクジラ-大洋ホエールズ・田代富雄の野球人生』赤坂英一著、講談社
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コメント
もみあげ魔神様、コメントをありがとうございます。
> 自分は、管理人さんより8~10年ぐらい後の世代のため、ファーストが駒田、外野の一角が佐伯(or内川)という以外は、同じ意見です(^^)。
なるほど。年代が異なれば別の選手が挙がってくるでしょうね。
> それより前の世代のストッパーとの優劣の比較で「佐々木は1イニング限定だけど、昔の抑えは何イニングも投げていた」と言われますが、佐々木もキャリア前半は、結構複数イニング投げることもありました。
個人的には、何イニングも投げていた時代の抑え投手と佐々木以降の抑え投手をイニング数を基準に優劣を比較することはあまり意味がないと思っています。
イニング跨ぎも平気だった時代の年間のセーブ王のセーブ数と、1イニング限定が当たり前になった時代の年間のセーブ王のセーブ数を比較すればわかることです。
> また、28人に島田直也も選んでもらってありがとうございます(^^)。横浜ブルペンを長年にわたって支えた功労者だと思います。
ほぼ同時期に活躍した「ヒゲ魔神」こと五十嵐との比較で迷ったのですが、優勝した1998年の成績で
島田、54試合6勝2敗、61回、防御率2.36、
五十嵐、40試合5勝2敗、41回1/3、防御率2.61。
在籍期間合計で
島田、338試合39勝35敗、575回、防御率3.54。
五十嵐、245試合31勝28敗、431回、防御率4.13。
という結果が残っているので島田を選びました。
> 左腕投手で活躍した選手の少なさが一目瞭然ですね。この30年、ほぼそれが解消されていないところに、横浜の長年の低迷の理由も見てとれます。
気がつきませんでしたが、いませんね。
ドラゴンズから移籍してきた佐藤政夫、一時期毎日のように投げていた久保文雄が思いつきました。どちらも1980年代の投手だと記憶していますが…
投稿: 敗戦処理。 | 2015年8月29日 (土) 19時40分
少し前の記事ですが、横浜(大洋)ファンとして、面白く読ませていただきました。
自分は、管理人さんより8~10年ぐらい後の世代のため、ファーストが駒田、外野の一角が佐伯(or内川)という以外は、同じ意見です(^^)。
抑えを1イニング限定にした先駆けが権藤監督だったというのは、まさにそうだと思います。よく、それより前の世代のストッパーとの優劣の比較で「佐々木は1イニング限定だけど、昔の抑えは何イニングも投げていた」と言われますが、佐々木もキャリア前半は、結構複数イニング投げることもありました。そこを、完全に9回に専念させる形にしたのは権藤監督ですね。
また、28人に島田直也も選んでもらってありがとうございます(^^)。横浜ブルペンを長年にわたって支えた功労者だと思います。
一方で、こうして見ると、左腕投手で活躍した選手の少なさが一目瞭然ですね。この30年、ほぼそれが解消されていないところに、横浜の長年の低迷の理由も見てとれます。
投稿: もみあげ魔神 | 2015年8月29日 (土) 00時40分