敗戦処理。的阪急ブレーブス~オリックス・ブレーブス~オリックス・ブルーウェーブ~オリクス・バファローズ歴代ベストナイン-マイセレクトベストナインVol.11
偶数月2日、一昨年2月にスタートしたマイセレクトベストナインを掲載してきましたが、今月はマイセレクトベストナインの第11弾。
敗戦処理。は一昨年の生観戦で、初めてプロ野球の試合を生観戦してから四十年目となった。そこで旧近鉄バファローズを含めた十三球団の、初めて生観戦をした1974年(昭和49年)以降、即ちリアルタイムに見た時代のベストナイン、ベスト一軍メンバー28人を自分なりに選んでみることにした。
1974年という年はジャイアンツの連続優勝がV9で止まった年であり、セーブが記録として制定された年である。そして日本ハムが日拓ホームから球団を買収し、ファイターズがスタートした年である。翌年にはパ・リーグで指名打者制が採用されるなど、大きな節目の時期でもある。
そして敗戦処理。は昨年の生観戦で生観戦歴四十周年となった。NPBは昨年を“プロ野球80周年”と称している。日本のプロ野球の約半分をリアルタイムに共有していることになる。
マイセレクトリアルタイムベストナインVol.11-阪急ブレーブス~オリックス・ブレーブス~オリックス・ブルーウェーブ~オリックス・バファローズ
今回も最初に定義を説明しておこう。
●調査期間は敗戦処理。が初めてプロ野球を生観戦した1974年(昭和49年)から執筆時期(公式戦完了済みシーズン)まで。したがって1973年(昭和48年)までの成績は含まない。
●親会社の変更は同一球団と見なす。
●期間内でも他球団に在籍していた期間の成績は含まない。
●主要個人成績(試合数、打率、安打、本塁打、打点、盗塁、勝利、セーブ、防御率等)記録も重視するが、敗戦処理。が受けたインパクトも重視する。
●外国人枠は設けない。
●同一人物の選手と監督との重複選出、複数球団での選出は可。
●ベストメンバー9人(パ・リーグは10人)を含む一軍28人と監督を選ぶ。
●この定義は適宜変更される事もあるかもしれない。
※1973年(昭和48年)までの成績、記録を含めないのは過去を軽視しているのではなく、自分がリアルタイムに観ていない選手達を記録だけで比較する事がかえって非礼にあたると考えたからである。ある意味、自分史のまとめである。
この球団は2004年の球界再編騒動によりオリックス・ブルーウェーブと大阪近鉄バファローズが合併して出来た球団であるが、2004年までの大阪近鉄バファローズの選手の成績を今回は含まない。1974年から2004年までの近鉄バファローズ、大阪近鉄バファローズの選手の成績は本コーナーの2014年2月2日付敗戦処理。的近鉄バファローズ~大阪近鉄バファローズ歴代ベストナイン-マイセレクトベストナインVol.5で扱っている。1974年の阪急ブレーブスから、1989年のオリックス・ブレーブス、以後オリックス・ブルーウェーブ、オリックス・バファローズの成績が対象になる。
敗戦処理。が生観戦を始めた1974年(昭和49年)、当時の阪急ブレーブスはその前年までV9、9年連続日本一を成し遂げたジャイアンツと日本シリーズで五度対戦していずれも敗れていた。灰色のチームとも呼ばれたこのチームを常勝軍団にした名将、西本幸雄が1973年限りで退団。選手としてはさほど実績のない上田利治が監督に就任した。上田監督率いるチームは二年目の1975年からリーグ四連覇。日本シリーズも1975年から三連覇。ただし有利と思われた1978年のスワローズとの日本シリーズには三勝四敗と惜敗。特に第七戦の大杉勝男のレフトポール際の大飛球を本塁打と判定され、上田監督が1時間19分の長時間抗議により試合中断。上田監督は責任を取る形で辞任した。上田監督を支えた梶本隆夫投手コーチが引き継いだがパットせずに二年間で上田監督が復帰。1984年に六年ぶりに優勝を果たすも、この時期は西武ライオンズの後塵を拝するシーズンが続いた。そんな中、1988年、あの、今も語り継がれる名勝負「10.19」の試合中に身売り発表。オリクス・ブレーブスとなった。2004年にイチローが前代未聞の年間200本安打を始め、球界の常識を覆す活躍ぶりで、翌年にはシーズン前に阪神淡路大震災におそわれながら、「がんばろうKOBE!」のスローガンと共に仰木彬監督の「仰木マジック」と呼ばれる猫の目オーダー采配でリーグ優勝。翌1996年には連覇、日本一と栄華を極めた。だが、2000年に当時としては画期的に思えたポスティングシステムを利用してイチローが大リーグ入りを果たすと、チーム力の低下は避けられず、その後は低迷が続く。2004年6月13日、突然に大阪近鉄バファローズとの合併を発表。球界再編騒動の主役となる。史上初の選手会ストライキなど激震が起きるが、結局合併。ただしその後も低迷。合併後の十年間でAクラスは2008年と昨年だけである。
この球団のベストナイン、ベスト監督、ベスト一軍入り28人を選ぶ。
【投手】
阪急ブレーブス時代の大エース、山田久志は通算284勝を挙げ、球団史上でも米田哲也の338勝に次ぐ。本企画の対象年度でも1974年から阪急最終年の1988年まで在籍。対象期間に217勝を挙げている。この期間だけでも名球会入りに値する!1976年には26勝という、7敗したものの一昨年のゴールデンイーグルス、田中将大をも凌駕する勝ち星を挙げた。もちろん対象期間中、全球団で最多の勝ち星だ。この一年が突出していることもあるが、期間中の15年間で引退前の二年間を除き、13年連続二桁勝利を挙げて勝ち星を量産した。
山田以降にエース的働きをした投手というと、まず星野伸之が思い浮かぶ。1984年に入団し、タイガースに移籍するまで16年間在籍して168勝を挙げている。
この二人に次ぐのが、活躍期に山田の印象が強いためか二番手、三番手の印象を持たざるを得ない佐藤義則の165勝、1978年に完全試合を成し遂げた今井雄太郎が127勝、山沖之彦が112勝と、勝ち数が三桁なのは星野を除くと阪急時代の投手ばかり。現役の金子千尋はまだ90勝。オフシーズンにポスティングを希望し、国内FA拳を行使してしまったため、向こう四年間はFA権を再取得出来ないと見られている金子がどこまで勝ち星を伸ばせるか。
なお、このチームは長く活躍したクローザーが見当たらず、通算で100セーブを挙げた投手がいない。最多セーブは加藤大輔の87セーブで、現役の平野佳寿が84セーブで迫っている。通算で100セーブを挙げた投手がいないのは歴史が浅いゴールデンイーグルスを別にすると、このチームとジャイアンツだけ。ジャイアンツの歴代最多セーブは角三男とマーク・クルーンの93セーブ。現役最多は西村健太朗の81セーブだが、西村は今のところ今季は先発に回る予定。平野がこれまで通りクローザーをつとめるバファローズがジャイアンツより先に100セーブ投手誕生となりそうだ。
閑話休題。このチームのベストナインの投手部門は200勝超えの山田で文句あるまい。山田久志を選ぶ。
【捕手】
本企画の対象初期の正捕手は中沢伸二。期間中1150試合にマスクをかぶっている。ただベストナイン投手に選んだエースの山田の全盛期にはレギュラーの中沢でなく宇野輝幸がマスクをかぶることが少なくなかった印象がある。エース級の投手に、正捕手でない別の捕手が組む例としては近鉄バファローズの鈴木啓示-有田修三、堀内恒夫-矢沢正が思い浮かぶが、有田、矢沢が二番手捕手だったのと異なり、宇野は中沢、河村健一郎に次ぐ三番手という印象だった。
中沢の後となると、藤田浩雅か。故アニマル・レスリーの勝利の雄叫びの犠牲でボカボカ殴られている珍プレー集の1シーンが印象に残る。667試合にマスクをかぶっている。
阪急ブレーブス最後の二年間に在籍、今もコーチ兼任ながらファイターズで現役を続ける現役唯一の阪急勇者、中嶋聡はFA権を行使してライオンズに移籍するまでの11年間で864試合にマスクをかぶっている。
中嶋の移籍後に頭角を現した日高剛も長く正捕手を務めたが、その割にはリードに対する評価が低かった。それでもタイガース移籍まで1376試合にマスクをかぶっている。日高にとって幸いだったのはこの間、日高を脅かす存在がチーム内に現れなかったことと、勝負強くてしぶとい打撃が頼りにされたことだろう。
昨シーズン限りで現役生活を終えた元マリーンズの捕手、里崎智也が、なまじ打力がよいと捕手として育てずにすぐに他のポジションに転向させがちな昨今の風潮を批判し、また貧打で試合中盤に代打を送られる様な捕手は出場試合数が多くても正捕手とは呼べないとの持論を各方面で展開しているが、そういう意味では日高も見る人が見れば評価が異なったかもしれない。ただ、岡田彰布が監督を務めた三年間には一年目こそ75試合にマスクをかぶったが以後は5試合、31試合と極端に出場が減り、この間に現在の正捕手、伊藤光が頭角を現す。イチロー流出後のこの球団の長期低迷に、日高が正捕手である期間がもろに重なるのが気になる。もちろん日高一人に責任がある訳ではないが、阪急時代の三年連続日本一を含む黄金時代に揺るぎない正捕手だった中沢伸二をベストナインの捕手に選ぶことにする。
【一塁手】
バッテリーが山田-中沢ときた流れからすると、まず加藤英司を挙げる。水谷実雄との同一ポジション選手とのトレードには驚いたが、本企画の対象期間にしぼっても12年間で7回の打率三割超えがあり、イチローが1994年から2000年までにマークした7回と並ぶ期間中最多三割回数で、通算でも1223安打で打率.304は特筆される。加藤との交換トレードで入団した水谷は移籍一年目に打点王に輝いたが、死球渦の影響もあったか三年間で現役を退いた。
そして一塁に入ったのがブーマー・ウエルズ。入団二年目の1984年には三冠王に輝いた。9年間の在籍で1276安打、251本塁打、804打点、打率.323と加藤を圧倒する成績を残した。
ベストナイン、一塁手部門はブーマー・ウエルズを選ぶ。
【二塁手】
初の日本一に輝いた1975年に来日したボビー・マルカーノはスワローズに移籍する1983年まで、8年間在籍した。この間、ベストナインとゴールデングラブ賞をそれぞれ4回ずつ獲得している。打率3割超えこそ一度しかないが、在籍期間中、967試合に出場し、1049安打、180本塁打、611打点、打率.287。
マルカーノ離脱後の1984年の阪急としての最後の優勝年には福原峰夫がポジションをつかんだが、翌1985年に入団した福良淳一が二年目にはレギュラーポジションを奪う。福良はマルカーノの様な打線の中軸に座るタイプではなかったが、二塁手として最多連続守備機会無失策のパ・リーグ記録を樹立するなど堅実な守備力を誇り、二番打者としてつなぎ役として活躍。1997年限りで現役を引退するまでの13年間で1240試合に出場、1116安打、50本塁打、372打点、打率.279。
福良と入れ替わる様に二塁手のポジションをつかんだのが1996年に近鉄バファローズから移籍してきた大島公一。福良同様、典型的な「二番・二塁手」タイプ。2004年まで9年間の在籍で1024試合に出場、852安打、17本塁打、266打点を記録し、打率.264。
そして近年は後藤光尊が主に二塁手として活躍。衝撃のトレードでゴールデンイーグルスに移籍するまで2002年から2013年までの12年間在籍。1140試合に出場し、1106安打、83本塁打、413打点、打率.275。
こうして期間中の主要なレギュラー二塁手を振り返ると、マルカーノか後藤かという感じになる。タイプの全く異なる二人の比較は難しい。活動期間は短いが、この球団が最も強かった四年連続リーグ優勝、三年連続日本一に大きく貢献したマルカーノをベストナインに選ぶ。
【三塁手】
上述の後藤光尊とゴールデンイーグルスの鉄平のトレードも近年では衝撃のトレードの一つだが、1976年、日本シリーズで念願の打倒ジャイアンツを果たして二年連続日本一に輝いた直後の、当時の正三塁手、森本潔とドラゴンズの正三塁手、島谷金二を含む複数のトレードも衝撃だった。特に森本は日本シリーズ最終戦で決勝打となる逆転本塁打を放っていただけにファンに衝撃は大きかった。32歳という円熟期に迎えたブレーブスでの野球人生。6年間の在籍だったが、ブレーブスの三塁手としてベストナインを2回、ゴールデングラブ賞を3回受賞。694試合の出場にとどまったが、704安打、112本塁打、408打点、打率.292。
島谷の後、長く三塁手のレギュラーとして君臨したのが松永浩美。三拍子揃った好選手に加え、スイッチヒッター。日本人のスイッチヒッターとしては出色の長打力を兼ね備えた希有な選手。これまた衝撃のトレードでタイガースに移籍するまで実働12年間、1452試合に出場、1541安打、180本塁打、732打点、打率.299。
松永以降は馬場敏史、進藤達哉ら移籍組が短期間に味のある働きをしたのが目立つが長期にわたりレギュラーで活躍した選手が見当たらない。三塁手でベストナインを選ぶなら松永浩美で決まりだろう。
【遊撃手】
本企画の対象初期、上田監督率いる黄金時代の遊撃手、大橋穣は堅実な守備が売り物の選手。1974年の時点で既にレギュラーポジションを得ていたが、現役引退の1982年まで797試合に出場。392安打、42本塁打、159打点、打率.211。通算打率が低いのはイメージ通りだが、安打数の割に本塁打が意外に多い。パンチ力のあるイメージはなかったが…。
大橋に取って代わったのが弓岡敬二郎。大橋の頃とチーム事情、メンバー構成に差違はあろうが、大橋が専ら下位打線の選手という印象があるのに対して、弓岡は同タイプながら二番を打つ事が多かった印象。1034試合に出場し、671安打、32本塁打、230打点で打率は.249。
弓岡の後は小川博文。仰木彬監督が率いた1995年、1996年のリーグ二連覇の時期の正遊撃手。大橋、弓岡との違いは打力。勝負強さと意外なパンチ力を発揮。仰木監督の「猫の目打線」で四番に抜擢されたこともあった。1389試合に出場、1165安打、74本塁打、471打点。打率が二割五分を超えて.267。
その小川が進藤との交換トレードでベイスターズに移籍した後は塩崎真がポジションを獲得するが、2007年に大引啓次が法政大学から入団すると、ポジションを奪われた。
長くレギュラーとして君臨したという点で、小川博文をベストナインの遊撃手とする。
【外野手】
外野手といえば、まずイチロー。FA権取得を待たず、ポスティングシステムを利用しての移籍は当時、衝撃的だったが、それまでに日本のプロ野球で7年連続首位打者を獲得した。連続を別としても、一人で首位打者7回は日本のプロ野球において張本勲と並ぶ最多獲得である。在籍は1992年から2000年までの9年間で、951試合の出場、1278安打、118本塁打、529打点。打率は何と.353!イチローは通算打数が3619。NPBでは通算打率を比較する時の規定打席を4000打数としている。日本野球機構が編集している「OFFICIAL BASEBALL
GUIDE …」で4000打数以上としており、元オリオンズのレロン・リーが4934打数1579安打で通算打率.320で歴代1位と記載されている。イチローがポスティングシステムを利用せず、あるいはブルーウェーブ球団が認めず、日本でのプレーを続けていたら(当時の制度ではこの翌年にイチローはFA権取得で大リーグに挑戦出来た。)、イチローが間違いなく日本のプロ野球史での通算最高打率の選手として名を刻まれていたことになる。というか、「4000打数以上」でなく「4000打席以上」であれば、4098打席のイチローがトップに立つのだが…。
記録といえば、福本豊も忘れてはならない。投手の山田久志と同様に、本企画の対象年度以前から活躍している選手だけに、成績の一部が対象にならないハンディがあるが、阪急ブレーブスとしての最後の1988年までの15年間で1874試合に出場、2004安打、161本塁打で700打点。盗塁数は718を数えるが、福本の現役通算盗塁数は1065なので、全盗塁数の67.4%を対象期間中に記録している。なお、日本のプロ野球で福本に次いで盗塁数が多い歴代二位の広瀬叔功の通算盗塁数が596だから、福本はこの期間だけでも日本最多盗塁となる。なお期間中の通算打率は.291。
イチローと福本のベストナイン選出は揺るぎないところだが、残す一人は誰か。
福本と一、二番コンビを組んでつなぎ役としてだけでなく、長打力もあり、脚力もあった簑田浩二も忘れられない選手の1人。
まだレギュラーを獲得していなかった1977年の日本シリーズ第四戦。1点を追う九回二死から四球で出た藤井栄治の代走に起用された簑田は、アウトになったら終わりという状況で果敢に二盗を試み、成功。高井保弘の左前安打で間一髪ホームイン。ジャイアンツの好返球でホームはアウトのタイミングかと思えたが、捕手の吉田孝司のタッチよりわずかに早く左手でホームベースにタッチして同点。全国の野球ファンに簑田浩二の名を知らしめた。若い野球ファンの方には2013年のWBCの台湾戦での1点ビハインドの最終回、鳥谷敬の二死からの二盗、井端弘和の同点タイムリーが記憶にあるだろうが、ほぼ同じシチュエーションを38年前の日本シリーズで実現していたのが、まだ駆け出しの頃の簑田だった。
翌年にレギュラーポジションを獲得した簑田は1983年には32本塁打、35盗塁と共に打率.312を記録して3割30本30盗塁、いわゆるトリプル・スリーを樹立した。ジャイアンツに移籍するまでの1987年まで在籍。12年間で1273試合、1211安打、195本塁打、656打点、249盗塁。打率は.283。
これまでのイチロー、福本、簑田とはタイプが異なる、長距離砲の外野手といえば藤井康雄。1987年から2002年まで、阪急ブレーブス末期からオリックス・ブレーブス~オリックス・ブルーウェーブでこの球団一筋に16年在籍。
長打力だけでなく勝負強さも売り物で、満塁本塁打14本はパ・リーグ歴代最多記録。その14本を含めて通算本塁打282本。対象期間中ではブーマーの251本塁打を抑え、球団最多に当たる。通算成績は1641試合、1207安打、282本塁打、861打点。打率は.252。
「左の藤井、右の高橋智」とファンに期待を抱かせた高橋智はファンや周囲が期待したであろう潜在能力を発揮したとは言いがたい成績だった。リーグ二連覇の1995年、1996年にも活躍したが、スワローズに移籍するまでの1987年から1998年までの12年間で721試合、575安打、94本塁打、316打点、打率.261に終わったのはちょっと残念。「仰木マジック」と賞賛を浴びた日替わりオーダー、猫の目打線の野球に適合しきれなかったのだろうか。
藤井と高橋智を使い分けた仰木監督だったが、イチローともう1人外野で固定したのが田口壮。大学時代に活躍した内野手としては送球難からなるイップスで大成出来なかったが、外野手に転向して開花。1995年からレギュラーを獲得。2001年のシーズン後にFA権を行使して大リーグに移籍するが、2010年に復帰。2011年まで最後の二年間を古巣でプレーした。1222試合に出場し、1219安打、70本塁打、429打点で打率は.276。
仰木監督時代の二連覇の翌年に入団した谷佳知はジャイアンツにトレードされるまで1997年から2006年までの10年間在籍。ジャイアンツには7年間在籍し、戦力外通告を受けて昨年復帰した。11年間で1246試合、1408安打、97本塁打、522打点、打率が.304と3割を超えているのが特筆される。柔道の田村亮子との交際中には春季キャンプ中の休日にデートを公開するなど、イチローが抜けた後の地味になったブルーウェーブでメディアへの露出増を図るなどチーム愛を見せたが、赤字球団との合併から二シーズン後、ほとんど実績のないジャイアンツの若手選手二人とのトレードは寂しかった。
そろそろ外野手のベストナインを選ぼう。イチローと福本は文句なしとして、三人目は簑田と藤井のどちらか、タイプが異なるので比較が難しいが、出場試合数が多い藤井に軍配を上げたい。イチロー、福本豊、藤井康雄の三人を選ぶ。
【指名打者】
外野手の人選で「一人名前が抜けているんじゃないか?」と感じた人もいるだろうが石嶺和彦は外野手でなく、指名打者で選びたい。外野手としての出場が281だったのに対し、指名打者としての出場数は833試合。もちろん球団最多。指名打者としての出場時に限定した成績の算出は出来ないが、FA権を行使してタイガースに移籍するまでの13年間で1313試合、1225安打、241本塁打、757打点で打率は.280。門田博光が移籍してきた時期に門田の指名打者起用優先で外野の守備につく機会の増えた年もあったが、指名打者としての出場が100試合を超えた年が6シーズンある石嶺和彦をベストナインの指名打者部門で選ぶ。
【監督】
ブレーブスを初優勝に導いた西本幸雄は対象期間の前年の1973年限りで退団。上田利治監督の初年度から歴代の監督の成績を列挙しよう。
上田利治(1974年~1978年)348勝238敗40分け、勝率.594。リーグ優勝4回、日本一3回、前期優勝のみ1回。
梶本隆夫(1979年~1980年)133勝111敗16分け、勝率.545。後期優勝1回
上田利治(1981年~1990年)664勝572敗64分け、勝率.537。リーグ優勝1回
土井正三(1991年~1993年)195勝183敗12分け、勝率.516。
仰木彬(1994年~2001年)563勝481敗26分け、勝率.539。リーグ優勝2回、日本一1回。
石毛宏典(2002年~2003年)57勝99敗4分け、勝率.365
レオン(2003年)41勝76敗3分け、勝率.350。
伊原春樹(2004年)49勝82敗2分け、勝率.374。
仰木彬(2005年)62勝70敗4分け、勝率.470。
中村勝広(2006年)52勝81敗3分け、勝率.391
テリー・コリンズ(2007年~2008年)83勝105敗5分け、勝率.441。
大石大二郎(2008年~2009年)110勝126敗3分け、勝率.466。CS出場1回
岡田彰布(2010年~2012年)188勝214敗21分け、勝率.468。
森脇浩司(2012年~)153勝137敗7分け、勝率.528。CS出場1回
※ 短期間の監督代行は含まず。
上田監督の最初の監督在任期間は1975年から1978年までのリーグ四連覇、1975年から1977年の三年連続日本一の他に就任一年目の1974年にも当時の二シーズン制で前期優勝を果たしている(後期優勝のオリオンズとのプレーオフで敗退)。また特筆すべきは二度目の監督在任期間の10年という長さ。本企画の対象期間ではホークスで王貞治が1995年から2008年まで14年間連続だったのが最長で上田監督の10年はそれに次ぐ。この10年間でBクラスに低迷したのが3年間(いずれも4位)あるが、勝率5割を切ったのが一度だけと安定していた。
上田監督に次ぐのが、というか他に優勝監督が仰木彬監督だけ。仰木監督の最初の監督在任期間では「がんばろうKOBE」をスローガンに1995年、1996年のリーグ二連覇、1996年の日本一と結果を残した手腕はイチローの発掘と共に名将の名を欲しいままにすると共に1995年1月の阪神淡路大震災からの復興を目指す被災者、被災地の希望になった。仰木監督は2000年、2001年と二年連続4位に終わると退任。2004年の球界再編騒動を経てオリックス・ブルーウェーブと大阪近鉄バファローズが合併してオリックス・バファローズという新体制になると2005年には合併前の両球団での指揮経験、優勝経験を買われて監督に返り咲く。4位に終わると高齢、体調問題などを理由に一シーズンで退任。その二ヶ月後に死去した。二度目の監督就任は命を賭しての戦いだった。
この球団は1996年の日本一を最後にリーグ優勝を果たしていない。これはパ・リーグでは現在最も優勝から離れている球団であり、十二球団でも1991年を最後に優勝していないカープの次に長い。ファンにやたらにネタにされるベイスターズの最後の優勝はブルーウェーブより近い。
イチローをポスティングシステムで手放し、その翌年に名将仰木監督が退任してからは、仰木監督の二度目の監督在任時も含め、とにかく監督が長続きしない。上記の歴代監督を見てもらえば一目瞭然だが、丸三年間監督を務めた人物がいない。岡田彰布は三年目のシーズン終盤に休養を余儀なくされた。森脇浩司監督が岡田監督の代行期間を別にしても、今季で三年目。昨年は6年ぶりのAクラス復帰を果たし、オフにはこの球団にしては珍しい積極的な補強を見せた。球団の本音は親会社オリックスの創業50周年イヤーの昨年に大願成就だったのだろうが、真価を問われる三年目の森脇監督に期待をしたい。
長くなった。ベストナイン監督を決める。在任シーズンの長さと優勝回数の多さから上田利治をベストナインの監督に選ぶ。
それでは一通り選び終わったところで、敗戦処理。が選ぶマイセレクトベストナインでオーダーを組んでみる。
(中)福本豊
(三)松永浩美
(右)イチロー
(一)ブーマー
(左)藤井康雄
(指)石嶺和彦
(二)マルカーノ
(捕)中沢伸二
(遊)小川博文
(投)山田久志
球団の歴史を振り返ると試合巧者、職人気質の選手が多いイメージがあるが、ポジション別にベストメンバーを選んだ結果、二番打者タイプがいなかったのが意外。候補に残って選ばれなかった福良淳一や簑田浩二がもったいない。
最後に一軍登録と同じ28人を選ぶ。
【投手】
山田久志、星野伸之、佐藤義則、今井雄太郎、山沖之彦、金子千尋、加藤大輔、平野佳寿、山口高志、平井正史、大久保勝信
【捕手】
中沢伸二、中嶋聡、日高剛
【内野手】
ブーマー、加藤英司、マルカーノ、福良淳一、松永浩美、小川博文、高井保弘、
【外野手】
イチロー、福本豊、藤井康雄、石嶺和彦、簑田浩二、山森雅文、谷佳知。
オーダー選びの項目で言及した、この球団ならではの人物を28人の中に潜り込ませた。わかる人にはわかる、山口高志、高井保弘、山森雅文はこの球団を語る上では欠かせまい。
次回は6月2日に、読売ジャイアンツ編を予定。なお5月2日には、3月7日に大和スタジアムで初めて生観戦したので「生」観戦した野球場-(67)大和スタジアムを掲載予定です。
【参考文献】
・『THE OFFICIAL BASEBALL ENCYCROPEDIA 第4版』社団法人日本野球機構
・『2015ベースボールレコード・ブック』ベースボール・マガジン社
・『プロ野球人名事典2003』森岡浩編著、日外アソシエーツ
・CD版『野球の記録で話したい Baseball Stats Lounge』
広尾晃氏
・『日本プロ野球監督列伝1936-2014』ベースボール・マガジン社
・『日本シリーズの軌跡NIPPON SERIES HISTORY since 1950』ベースボール・マガジン社
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この記事へのコメントは終了しました。
コメント
xyz様、コメントをありがとうございます。
> ところで、一点訂正させてください。
中嶋聡捕手は、1969年3月27日生まれで、1986年オフのドラフトで阪急に指名されています。
ということで、阪急ブレーブスには2年間在籍していたってことになります。
大変失礼しました。
中嶋聡は1987年の入団なので阪急最後の1987年、1988年の二年間に在籍していましたね。
ご指摘ありがとうございます。訂正しておきます。
投稿: 敗戦処理。 | 2015年4月 4日 (土) 01時12分
勇者、青波原理主義者としては、こういう記録の見方は非常に嬉しいです。
ところで、一点訂正させてください。
中嶋聡捕手は、1969年3月27日生まれで、1986年オフのドラフトで阪急に指名されています。
ということで、阪急ブレーブスには2年間在籍していたってことになります。
投稿: xyz | 2015年4月 4日 (土) 00時10分