敗戦処理。的読売ジャイアンツ歴代ベストナイン-マイセレクトベストナインVol.12
偶数月2日、一昨年2月にスタートしたマイセレクトベストナインを掲載してきましたが、今月はマイセレクトベストナインの第12弾。
敗戦処理。は一昨年の生観戦で、初めてプロ野球の試合を生観戦してから四十年目となった。そこで旧近鉄バファローズを含めた十三球団の、初めて生観戦をした1974年(昭和49年)以降、即ちリアルタイムに見た時代のベストナイン、ベスト一軍メンバー28人を自分なりに選んでみることにした。
1974年という年はジャイアンツの連続優勝がV9で止まった年であり、セーブが記録として制定された年である。そして日本ハムが日拓ホームから球団を買収し、ファイターズがスタートした年である。翌年にはパ・リーグで指名打者制が採用されるなど、大きな節目の時期でもある。
そして敗戦処理。は昨年の生観戦で生観戦歴四十周年となった。NPBは昨年を“プロ野球80周年”と称した。日本のプロ野球の約半分をリアルタイムに共有していることになる。
マイセレクトリアルタイムベストナインVol.12-読売ジャイアンツ
今回も最初に定義を説明しておこう。
●調査期間は敗戦処理。が初めてプロ野球を生観戦した1974年(昭和49年)から執筆時期(公式戦完了済みシーズン)まで。したがって1973年(昭和48年)までの成績は含まない。
●親会社の変更は同一球団と見なす。
●期間内でも他球団に在籍していた期間の成績は含まない。
●主要個人成績(試合数、打率、安打、本塁打、打点、盗塁、勝利、セーブ、防御率等)記録も重視するが、敗戦処理。が受けたインパクトも重視する。
●外国人枠は設けない。
●同一人物の選手と監督との重複選出、複数球団での選出は可。
●ベストメンバー9人(パ・リーグは10人)を含む一軍28人と監督を選ぶ。
●この定義は適宜変更される事もあるかもしれない。
※1973年(昭和48年)までの成績、記録を含めないのは過去を軽視しているのではなく、自分がリアルタイムに観ていない選手達を記録だけで比較する事がかえって非礼にあたると考えたからである。ある意味、自分史のまとめである。
今回がvol.12だが、これで最終回という訳では無い。冒頭でも触れたが、大阪近鉄バファローズ篇を掲載しているので全部で計13球団。次回の東北楽天ゴールデンイーグルスを以て一応の完結を見る。
言わずと知れた、日本プロ野球界の老舗。昨年、NPBは日本のプロ野球界が80周年を迎えたと盛んに謳っていたが、細かく言えばジャイアンツが球団創立80周年を迎える年であったことは確かなのだが、タイガースをはじめ、対戦球団はまだ結成されていない。当然、今の日本野球機構に相当する組織もまだ誕生していない。それでもNPBが昨年、堂々と‶80周年″と主張し、ファンも特に疑問を持たずに浸透したのは、良くも悪くも読売ジャイアンツという球団にこの国のプロ野球が引っ張られてきたと言うことだろう。
ただ、本企画で扱うのはあくまで1974年(昭和49年)からのこと。1974年はジャイアンツにとって球団創立40周年の年。つまりジャイアンツの歴史の半分を敗戦処理。はファンとして接していることになる。また、ジャイアンツの強さの象徴であるV9がストップしたのが1974年。V9以後のジャイアンツの歴史を振り返ることになる。
長嶋茂雄が現役を引退するに際して「我が巨人軍は永久に不滅です」とスピーチした。だが、巨人軍が不滅だったのは実はこの時までだったのでは無いかという見方をする人は少なくない。その後のジャイアンツは「江川問題」を始めとする、常勝(不滅)であろうとするための企業努力がいびつといわざるを得なかったが、それでも本企画の対象期間中、1974年から昨年2014年までの41年間でリーグ優勝を17回達成している(1973年までは一リーグ制の時代を含め、28回優勝)。
本企画の対象年度の最初である1974年は長嶋の現役最終年であったばかりでなく、森昌彦、黒江透修といった「V9戦士」も引退した。V9戦士の大半はピークを過ぎていた。たまたまどの年で区切るかだが、「栄光のV9戦士」の大半がこの企画ではベストナインに選ばれにくい事を最初に断っておこう。
1974年にV10を逃したジャイアンツはV9の名将、川上哲治監督が勇退。多くのファンに望まれる形で、長嶋に監督の座を譲ったが、そもそも選手、長嶋が抜けた穴が埋まらなかったこともあるが、もう一人の雄、王貞治が肉離れを起こし、開幕ダッシュに加われないなど主力だった「V9戦士」の年齢的な衰えなども重なり、一年目に球団史上初の最下位に終わった。なお、2014年までで唯一の最下位だ。この年、しばらく封印していた外国人助っ人の獲得を解禁し、強さの象徴の一つであった「純血主義」にメスを入れた。開幕早々に現役大リーガーのデーブ・ジョンソンを獲得した。だが、本職の二塁手としてではなく長嶋が守っていた三塁手として起用されたことや、球団側に受け入れ体制が整っていたのかも疑問で、ジョンソンは本来の力を発揮出来なかった。
これではいかん、と考えたジャイアンツは長嶋の抜けた案を埋める存在として、パ・リーグで7度の首位打者に輝いた張本勲に白羽の矢を立て、V9時代の左のエースとして活躍した高橋一三と、長嶋の衰えを見越してトレードで獲得していた富田勝を交換要員としてファイターズとの間に交換トレードを成立させた。今年、高橋一三さんも富田勝さんもなくなられた。当時を思い出したファンも少なくないだろう。他にもV9末期に堀内恒夫、高橋一、倉田誠の三本柱に次ぐ存在だった関本四十四と若手投手だった玉井信博を交換要員としてライオンズから若手の速球派である加藤初と内野手の伊原春樹を獲得するなどの補強を行った。長嶋が守っていた三塁には、成績が下降し始めていた名外野手、高田繁を抜擢。高田の再生に成功すると共にジョンソンを慣れた二塁手に固定することで本来の実力を発揮出来るようになった。
この補強は長嶋監督二年目、三年目のリーグ二連覇という形で奏功したが、V9戦士の後継者育成という課題は克服出来ずV9の再現どころか二連覇止まり。再び黄金時代を築くための柱になるエース獲得を目指しての「江川問題」でイメージ低下。長嶋監督はその江川を含む若手選手達を当時としては異例だった秋季キャンプで徹底的に鍛える、いわゆる「地獄の伊東キャンプ」を挙行し、1980年には若手の成長に手応えを感じたものの3位止まり。三年間優勝から遠ざかるというジャイアンツにとってはあってはならない不成績で長嶋監督は辞任と称する解任措置を講じられた。この年、王が現役引退を表明。
長嶋がユニフォームを脱ぎ、王もバットを置くという混乱期に火中の栗を拾う形で監督に就任した藤田元司は直後のドラフト会議で相思相愛だった原辰徳の交渉権獲得に成功。長嶋が鍛えた若手の成長と相まって一年目にV9時代以来の日本一返り咲きを実現すると、三年間で二度の優勝をして、球団創立50周年の十四に王貞治を監督に据えて日本一を果たし、大リーグのチャンピオンチームと日米決戦を行うという球団の悲願への橋渡しに成功した。藤田監督は、引き継いだ王監督がそれなりに戦力に恵まれながらなかなか勝てず、契約期間の五年間で一度しか優勝出来ないで終わると、再び監督に指名され、二年連続優勝でジャイアンツを再び立て直した。
その二年目の日本シリーズで、宿敵のライオンズに0勝4敗と一方的に叩きのめされると、岡崎郁が「野球観が変わった」と言った如く、チームもエアポケットに入ったように翌年から低迷。そこにプロサッカーリーグ「Jリーグ」という名の「黒船」がジャイアンツどころか球界に覆い、当時読売新聞グループで力を付けてきた渡邊恒雄は長嶋茂雄を監督に復帰させて対抗。長嶋は藤田と同様に就任直後のドラフト会議で松井秀喜の交渉権獲得に成功。以後、2014年5月5日にそろって国民栄誉賞を受賞するまで、その師弟関係は続いた。
時同じくして、フリーエージェント制度と、ドラフト会議における逆指名制度が発足。「巨人のための制度」とも言われたが、これを最大限に活用して戦力補強を続ける。長嶋が退任し、原が監督に就任して、間に唯一、一度も優勝出来なかった堀内監督の二年間を挟んで原が再び率いている今も、この方針は大勢において変わりは無い。
清武英利という男が球団代表に就任して、補強一辺倒のチーム作りに限界を感じ、育成選手制度の発足などに活路を見出し、山口鉄也、松本哲也らを戦力として一定の成果を得たものの、渡邊に牙をむいて清武が失脚してからは元の木阿弥という印象も否めない。
渡邊恒雄は「江川問題」でも江川とのトレード相手となる小林繁への交渉要員として暗躍しているそうだから、ジャイアンツの80年間を最初の40年間と、その後の40年という大雑把に二つに分けると、最初の40年間が正力松太郎、正力亨親子に牛耳られているとの見方も成り立つ。
この球団のベストナイン、ベスト監督、ベスト一軍入り28人を選ぶ。
【投手】
V9を支えた堀内と高橋一の左右の両輪は1974年にはピークを過ぎていた。前年の1973年に23勝を挙げた高橋一はその反動か、2勝11敗と低迷。翌1975年も6勝6敗と低迷すると、前述の通りファイターズにトレードとなった。堀内は1974年から1978年まで五年連続二桁勝利を記録するも、1974年以降に限定すると74勝68敗、防御率3.87に過ぎない。
堀内の後に「エース」と呼べる成績を残したのは1980年と1981年に連続して最多勝利投手になった江川卓であろう。入団の経緯はともかく、その投球はまさしく「怪物」の名に偽りのないものだった。肩を痛めて短命に終わったのは残念だったが、9年間で135勝72敗、防御率3.02の成績を残した。
江川の時代には、江川のライバルと言われた西本聖、定岡正二といった同世代の存在があって、その中で江川がエースとして抜きん出た存在であったが、江川以後、昭和から平成になってからは槙原寬己、桑田真澄、斎藤雅樹の三本柱を中心としたイキのいい投手王国の時代が来る。
1983年にデビューした槙原は江川らと先発ローテーションを組んだ時期もあった。今もネタにされる1985年のランディ・バース、掛布雅之、岡田彰布によるバックスクリーン三連発ばかりが引き合いに出されるが、同じ甲子園でのタイガース戦での初登板初先発での延長十回完封劇は鮮烈だったし、1994年には完全試合を達成。槙原を最後に、その後緩完全試合は誰も達成していない。生涯成績は159勝128敗、防御率3.19。
桑田も槙原と同様に入団二年目にブレーク。28試合に登板して15勝6敗、防御率2.17十活躍して王監督期間で唯一の優勝に大きく貢献した。その後登板日漏洩疑惑や、右肘の負傷による長期離脱など辛酸をなめる時期もあったが21年間在籍して173勝141敗、防御率3.55という成績を残した。
槙原と桑田に比べると、斎藤雅が「エース」と呼ばれるまでの道のりは平坦では無かった。入団二年目の1984年に開幕一軍入りを果たすも、中継ぎ要員としてめざましい成績を上げることが出来ず、そうした成績が五年間続いた。荒木大輔の交渉権獲得をを逃した外れ1位とはいえ潜在能力の高さを評価されていたため、力を発揮出来ないのは「蚤の心臓」だからと揶揄された。
転機になったのは1989年の藤田元司監督復帰。先発に固定し、ようやくその本領を発揮し始めると、藤田監督は責任を持たせることと、弱気の虫が顔を出さないように試合を任せきることを決意。11試合連続完投勝利の日本記録達成に結びついた。同年と翌年、連続して20勝を達成。昨今では年間20勝自体が希少価値だが、斎藤雅の時代にもそう。ただそれを二年続けたのは斎藤雅が最後である。19年間の在籍で180勝96敗、防御率2.77。「ミスター完投」と呼ばれただけのことはあり、完投数は113。
斎藤雅が「平成の大エース」なら、20世紀から21世紀にさしかかる時期に「エース」として君臨したのが上原浩治。ルーキーイヤーの1999年に25試合に登板して20勝4敗と大活躍。その後も安定した成績を挙げ続けた。大阪体育大の投手としてドラフトの目玉と騒がれた頃から大リーグ志望と言われ、大リーグと巨人入りを天秤にかけたと言われたが、FA権を取得するとその年のオフに大リーグ入りを果たした。選手がFA権取得の日数に達するとスポーツ新聞にその選手のコメントが載る。シーズン中のため無難なコメントが大半だが上原ははっきりと大リーグに挑戦を明言していた。ジャイアンツには10年間の在籍で112勝62敗、防御率3.01という成績を残した。
上原の離脱後は、ジャイアンツに「エース」と胸を張れる投手は出てきていないと思う。内海哲也が投手陣の精神的支柱となり、自らも先発ローテーションの中心に君臨しているが、勝ち数、他を圧倒する存在感という点で先に挙げた諸先輩に見劣りするのは否めない。また、時代の変化もあり、今では抑えの投手と、抑え投手につなぐセットアッパーの存在が重視され、ジャイアンツでもマーク・クルーンや、西村健太朗、スコット・マシソン、そして今季は澤村拓一がクローザーとしてチームを守っている。2008年からは山口鉄也が昨年まで7年連続で60試合以上に登板という前代未聞のタフネスぶりを発揮している。だが山口のセットアッパーこそ不変だが、クローザーが毎年変わっているように、ジャイアンツでは長くチームを支えたクローザーがいない。日本プロ野球にセーブの制度が誕生したのは本企画の対象初年の1974年なのだが、ジャイアンツの歴代通算最多セーブは角三男とクルーンの93である。現役では西村の81。通算100セーブを超える投手を輩出していない球団は歴史が浅いゴールデンイーグルスを別にすれば、ジャイアンツとオリックス・バファローズだけ。
バファローズでは昨年までは加藤大輔の87が最多だったが、84セーブと迫っていた現役の平野佳寿が抜いた。オールスターまでの時点で通算94セーブとなり、故障との戦いという面もあるが今季中の100セーブ到達も見えてきた。ジャイアンツはセーブという制度が出来て四十年を経た今日でも、先発完投至上主義から抜け出せていないと言うことか。
長くなった。ジャイアンツのベストナインの投手は斎藤雅樹とする。絶対的「エース」感では江川に比べて劣る感じも否定出来ないが、期間中最多勝利、二度の20勝という実績を考慮したい。
【捕手】
V9を支えた名捕手、森は長嶋と共に1974年限りで引退。そこからジャイアンツの長い司令塔不在が始まる。当初は森野晩年に控え捕手として頭角を現しつつあった吉田孝司と矢沢正の併用で対処した。前述の「純血主義」を破ってのジョンソン獲得の際、ボブ・スティンソンという現役大リーガーの獲得目前までいったが、スティンソンの個人的事情で実現しなかったという。その後、抽選で順番を決めて十二球団が順番に指名している1977年秋のドラフト会議で2番クジを引いたジャイアンツが、1番のクラウンライターライオンズに江川を指名されたために指名した山倉和博を正捕手として育成。後に三本柱と呼ばれる江川ら投手陣と同年代ということもあり一時代を担う捕手となった。打撃は打率こそ低く八番打者が定位置だったが、時折勝負強い一打を発揮することから「意外性の男」と呼ばれた。1987年には130試合中128試合に出場し、打率.273、22本塁打、66打点の成績でMVPに選出された。
山倉はこの1987年をピークに成績が停滞し、三年後の1990年のシーズンを最後に現役引退した。通算成績は1262試合、832安打、113本塁打、426打点で通算打率は.231。
山倉の引退と前後して頭角を現したのが村田真一。高田誠、吉原孝介らライバルとのポジション争いを何とか勝ち抜き、1990年代後半の正捕手として貢献。山倉が江川、西本らと同年代だったのと同様に村田真も槙原、斎藤雅と同年代で好リードをした。村田真の通算成績は1134試合、673安打、98本塁打、367打点、打率.234。原監督の信頼が厚いのか、原監督の監督在任期間11年間ずっと一軍コーチでいる唯一の存在だが、捕手部門ではなく近年は打撃コーチを務め、今季は総合コーチという肩書きに。
村田真の現役最終年に入団した阿部慎之助が翌2002年には押しも押されもせぬ正捕手となった。一年目こそ投手の投球を捕球してから返球するのが遅いとか、投球のサインを出すのが遅いとかの理由で桑田らベテランには疎まれたが、時期エースとして中心になりつつあった上原との好相性や、斎藤雅がチームの阿部育成の方針を理解したことなどもあり、徐々に課題を克服した。山倉、村田真との最大の違いは言うまでも無く打撃。昨年こそ、長年の疲労の蓄積か、19本塁打、57打点と8年ぶりに本塁打数が20本を切り、打率に至っては.248とセ・リーグで規定打席に達した選手の中で最低。阿部自身にとっても入団二年目に初めて規定打席に達してから初めての二割五分割れだったが、長く四番打者として君臨。2012年には打率.340、27本塁打、104打点でセ・リーグの首位打者、打点王のタイトルを獲得してMVPに選ばれた。この年の打率.340は捕手としての年間最高打率でもあった。その存在感の大きさは原監督に「慎之助のチーム」と言わしめたほど。昨年までの通算成績は1761試合、1730安打、346本塁打、1037打点、打率.287。昨年で通算安打数が1730となり、高橋由伸を抜いて現役ではチームトップとなった。2000本安打まで残り270安打で、今季で37歳。捕手から負担を軽くする一塁手へのコンバート構想には阿部に2000本安打を達成させてあげたいという原監督の親心もあるのかもしれない。
ベストナインの捕手は阿部慎之助を選ぶ。
【一塁手】
長嶋と並ぶON砲の一方の雄、王は1974年に49本塁打、107打点、打率.332で前年に続く三冠王となっており、まさに円熟期。翌1975年こそ故障にたたられ成績を落としたが、1976年と1977年には再び本塁打王と打点王を獲得。1977年にはハンク・アーロンが持つ大リーグの通算本塁打記録を抜き、当時の福田赳夫首相が王を表彰するために「国民栄誉賞」を創設したほど。本企画の対象期間中に三度本塁打王を獲得したのはジャイアンツでは王と松井だけ。1974年以降の王の成績は889試合、863安打、283本塁打、733打点、打率.297。三冠王1回を含む本塁打王、打点王各3回、首位打者2回、MVP2回。
王が現役引退した1980年のオフ、ジャイアンツはホエールズで既に峠を越えていたと思えた松原誠をトレードで獲得。1976年に入団後、勝負強い打撃で代打の切り札的存在だった山本功児と一塁手のポジションを競わせる構想だったが、篠塚利夫が安打製造機としてブレークして、当初二塁手として起用していたゴールデンルーキーの原を守り慣れた三塁手に配置転換し、三塁手の中畑清を一塁手に配置転換することになり、山本功は再び控えに回ることになった。中畑は一塁手としてゴールデングラブ賞を1982年から1988年まで7年連続7回受賞。打率三割以上を3回記録した。三塁手時代を含めているが、通算成績は1248試合で1294安打、171本塁打、621打点、打率.290。
中畑の後釜には、中畑健在時には外野に回っていた駒田徳広が定着した。だが皮肉にも中畑がコーチに就任した1993年に中畑の指導を受け入れられなかった駒田がその年のオフに導入されたフリーエージェント制度を利用してベイスターズに移籍した。駒田による中畑批判は、さすがに歯に衣を着せぬ駒田であってもミスタージャイアンツ批判は出来なかったためのスケープゴードと勘ぐられることもあった。駒田のジャイアンツ在籍期間の通算成績は1118試合で1027安打、132本塁打、484打点、打率.289。
駒田のジャイアンツ在籍最終年、1993年は7本塁打、39打点、打率.249。チーム全体的に打撃不振だったこともあり、駒田もこの成績でも年間の規定打席に達していたが、ジャイアンツはFA制度でドラゴンズの落合博満を獲得。落合との三年契約を全うすると、清原和博をFAで獲得。ジャイアンツは清原と五年契約を結ぶが、ライオンズ時代の豪快な打棒は影を潜め、期待通りの活躍とは言えなかったが契約最終年の2001年に移籍後最高となる29本塁打、121打点、打率.298を記録。
ジャイアンツはこの年限りでミスタージャイアンツ、長嶋茂雄が監督を退任、また大リーグへの移籍願望が強いとされる松井が翌年にFA移籍の権利を手中にする事が確実なため、清原をつなぎ止める必要性があり、新たに四年契約を結ぶことになった。だが再契約後の清原がこの2001年を上回る、いや近い成績を挙げることは無かった。9年間に渡る在籍で846試合出場と、一年平均で100試合に満たない事が故障との戦い続きだったことをうかがわせる。720安打、185本塁打、576打点、打率.266。
落合がジャイアンツに在籍した最終年の1996年には後に落合がいた松井の四球が71だったのに対し、清原が松井の後ろを打つようになった1997年の松井の四球は100。松井の成長もあったのだろうが、松井を歩かせても後が落合から清原に変わっているから問題ないという判断が多かったのだろう。清原に見切りを付けた翌2006年にはマリーンズからイ・スンヨプを獲得。2006年に41本塁打、打率.323と大活躍だったため、2007年から四年契約を結んだ。だが活躍出来たのはこの2006年だけで、四年間は成績低迷。2007年からFA移籍で加入した小笠原道大が一塁手を務める機会も多かったが、小笠原のジャイアンツでのポジション別出場数を調べると、一塁手312試合、三塁手414試合と三塁手としての出場数が多いので三塁手部門の候補とする。
王、中畑、駒田、清原の争いか。本塁打数、打点数で他を凌駕するという点で、王貞治をベストナイン一塁手に選ぶ。
【二塁手】
V9時代の名二塁手、土井正三は1976年にジョンソンにポジションを奪われたものの、ジョンソンが退団すると翌1977年には再び正二塁手に返り咲いた。その翌年の1978年には開幕直後に、ジャイアンツは前年までホエールズで活躍していたジョン・シピンを獲得したが、土井が健在だったため、シピンは三塁や外野に回ることが多かった。この年の土井は130試合中110試合に出場して打率.285を記録。10年ぶりに打率二割八分を超えた。108試合えで二塁の守備についたが、ライバルのシピンが二塁手19試合、三塁手30試合、外野手69試合という出場数に割れたことでも土井の健在ぶりがうかがえた。この年のシピンは翳りが見えた王に代わって四番を務めることもあったほどだが、二塁の守備では土井を脅かすには至らなかった。だが土井は、若返りを目指すチーム事情によりこの年限りでの引退勧告を受け入れて引退した。
土井引退の翌年に「背番号6」を引き継いだ篠塚利夫は「背番号6」三年目の1981年に打撃開眼。ルーキーの原からポジションを奪うと、この年から五年連続を含む7度の打率三割以上を記録。華麗な二塁守備でゴールデングラブ賞を4回獲得した。在籍期間中、1651試合、1696安打、92本塁打、628打点、打率.304。首位打者を2度獲得した。
篠塚が1994年限りで現役を引退した後は1996年に入団した仁志敏久が1997年から二塁に回り、長く正二塁手として活躍。積極果敢に打って出る異色の一番打者として異彩を放った。打率三割に達した年はなかったが2000年には終盤、ベイスターズのロバート・ローズと最多安打のタイトルを争い、1本差で及ばなかったのだが、終盤戦で安打を稼ぐための打席で凡退を繰り返すことで打率を下げ、初の三割を逃すことになった。原監督との考え方の食い違いが表面化するなど、決して恵まれ続けていたとは言えないが、出場機会を求めて自ら移籍を志願したという。ジャイアンツでの在籍期間には1278試合に出場、1294安打、133本塁打、443打点、打率.271。
仁志以後にはレギュラーと言える二塁手を確立出来ていない。2013年終了後のオフにFA宣言したライオンズの片岡治大を獲得する一方でドラゴンズから戦力外通告を受けた井端弘和をも獲得したことに象徴される。
ベストナインの二塁手は篠塚利夫にする。
【三塁手】
ジャイアンツの三塁手と言えば長嶋だが、長嶋は対象期間中では1974年にプレーしただけ。その後、高田、中畑らが三塁のポジションを獲得したが、原が1981年から定着。偉大なるONと比較されるハンディがあって過小評価された面は否めないが、外野手、一塁手に回っていた期間も含めて1697試合、1675安打、382本塁打、1093打点、打率.293。入団三年目の1983年に打点王を獲得し、MVPを受賞している。
原が1995年限りで現役を引退すると、翌1996年は新人の仁志が三塁を守るも、一年で二塁にコンバート。その後は外国人選手獲得で一時しのぎを試みるも定着せず。カープからFAで江藤智を獲得。
江藤は移籍一年目の2000年に32本塁打、91打点、打率.256と活躍。リーグ優勝を決める試合では0対4で迎えた最終回に同点満塁本塁打を放ち、続く二岡智宏の劇的な優勝決定サヨナラ本塁打の呼び水となった。だが、江藤のジャイアンツ移籍による最大の貢献度は長嶋監督の「背番号3」を復活させたことだろう。
江藤は六年間在籍。627試合で465安打、101本塁打、296打点、打率.256。この時期のFAを含む移籍組の主砲のほとんどが経験した「巨人の四番」を江藤は経験出来なかった。最初の三年間は本領発揮していたと言えるが、松井が「不動の四番」として君臨。松井のヤンキース移籍後にはチャンスがあったが、江藤の成績が下降した。数年の在籍でお払い箱になるような外国人選手や、明らかに時期尚早な大田泰示や中井大介ですら歴代四番打者に名を連ねていることを考えると、江藤が気の毒に思える。
江藤が2003年に成績を落とすと、同じ三塁を守るホークスの小久保裕紀を無償トレードで獲得。小久保はこのシーズン、故障で一年を棒に振ったが、高塚猛球団社長との確執が噂されての放出と目された。
小久保は移籍一年目の2004年に41本塁打を放ち、長嶋1968年の39本塁打を抜いて球団の右打者年間最多本塁打記録を更新。人間性も認められて主将にも就任するが、FA権を取得した2006年オフ、経営母体がダイエーからソフトバンクに変わった古巣ホークスに復帰。
その小久保と入れ替わるように2006年オフにFA移籍で獲得したのが小笠原。移籍一年目の2007年に31本塁打、88打点、打率.313と本領発揮してMVPを獲得。移籍直前の2006年にファイターズでMVPを獲得しており、リーグをまたがり二年連続MVPとなった。小笠原は一塁との併用ながら、2007年から2010年まで四年連続で打率三割と30本塁打以上の成績を達成。2008年入団のアレックス・ラミレスとの三、四番コンビは「オガラミ」と呼ばれて他球団の脅威となったが、飛ばない統一球を導入した2011年から成績が急降下。2013年シーズン後にFA権を行使する形で退団。ドラゴンズに移籍したが事実上の戦力外状態であった。江藤と同じ六年間で、679試合、736安打、137本塁打、405打点、打率.296。
小笠原の成績が降下した2011年のオフにはベイスターズからFA宣言した村田修一を獲得。村田は移籍二年目の2013年に25本塁打、87打点、打率.316と活躍するが昨年は本塁打こそ21本と微減程度だったが打率が.256と大きく低下。それでも移籍三年間で欠場は1試合のみと頑強ぶりを発揮していたが四年契約最終年の今季は…歴史は繰り返す。
ベストナイン三塁手は原辰徳で文句なし。
【遊撃手】
V9を支えた黒江は1974年限りで現役を引退。V9最終年あたりから頭角を現していた河埜和正が三拍子揃った大型遊撃手として期待された。三遊間の深いところから一塁に正確に送球する強肩は、最近はあまり聞かれなくなった「鉄砲肩」という言葉がまさに似合った。実際には二番打者としてのつなぎ役に活路を見出し、1397試合、1049安打、114本塁打、414打点、打率.252。
河埜が衰えてからは、「ポスト河埜」と見込まれていたであろう鈴木康友の伸び悩みに伴って鈴木と交換トレードで入団してきた鴻野淳基、岡崎らでポジションを争ってきたが、川相昌弘が定着。川相は世界最高記録になった514犠打が特筆されるが、守りも堅実。2003年に原監督から引退勧告を受けるまで1709試合に出場、1182安打、42本塁打、312打点、打率.266。1994年に打率三割をマークした。
川相は年齢的衰えと共に、大型内野手として逆指名で入団した二岡智宏にポジションを奪われた形だったが、その前に長嶋監督の方針で左打者の外野手、清水隆行に二番打者の定位置を奪われたあたりから存在感が低下していた。
二岡はルーキーイヤーの1999年にチームの135試合中126試合に出場。18本塁打で51打点、打率.289と活躍。四年目からは定位置を不動のものとするが、139試合に出場して20本塁打、83打点、打率.285という成績を残した9年目の2007年のシーズン後に足の手術をしたため、翌2008年には春季キャンプ、オープン戦の時期にチームとは別メニュー調整を余儀なくされ、突貫工事で間に合わせて出場した開幕戦で右ふくらはぎを肉離れ。その間、山本モナとのゴシップや、坂本勇人の台頭もあって立場が苦しくなる…。この年のオフ、ファイターズにトレード。10年間での通算成績は1129試合、1123安打、157本塁打、516打点。打率は.285。
二岡からポジションを奪う形で入団二年目の2008年から現在に至るまで活躍中の坂本は昨年まで8年間の成績が1009試合、1105安打、115本塁打、435打点、打率.281。まだ二岡より実働期間が短いこともあり、通算成績では見劣りする。本企画では1974年から掲載年の前年までを対象としているから、坂本の今後の伸びしろは考えないことになる。
二岡と川相の一騎打ちと言うことになる。打撃主要部門では二岡に軍配が上がるが、長くレギュラーを務めた点や守備面での安定感を評価して、ベストナインの遊撃手は川相昌弘を選ぶ。
【外野手】
V9時代の外野のレギュラー、柴田勲、高田繁、末次利光は1974年後もプレーしていたが、全盛期を過ぎていた。その後のレギュラークラスから選ぶことになる。長嶋監督がどうしても獲得して欲しいと切望してドラフトでの指名から入団にこぎ着けたと言われる松本匡史はジャイアンツに入ってから右打ち一本からスイッチヒッターに転向し、守備も内野から外野に転向した。藤田監督の時代に一本立ちし、1982年、1983年と二年連続でセ・リーグの盗塁王。1983年の76盗塁は、いまだに破られないセ・リーグの年間最多盗塁記録。在籍10年間で1016試合、902安打、29本塁打で195打点ながら、342盗塁。通算打率は.278。
王監督時代に活躍したウオーレン・クロマティも特筆すべき一人。1984年から1990年まで7年間在籍。王監督悲願の初優勝がかかった三年目の1986年には124試合で37本塁打、98打点、打率.363。優勝するカープとのデッドヒートとなった終盤、クロマティはスワローズ戦で高野光から頭に死球を受けて退場。しかしその翌日、代打で登場して試合を決める決勝満塁本塁打を打ち、ジャイアンツファンを感動させた。クロマティは前年の1985年にも32本塁打、112打点の好成績を残したがこの二年間はタイガースのランディ・バースがハイレベルな成績を残して二年連続三冠王となっていてクロマティは無冠だった。
クロマティがタイトルを獲得したのは1989年。この年はシーズン開幕から安打を量産し、打率四割を超えるペースで打ちまくった。この年の年間の規定打席数に達した時点でもまだ打率四割をキープしており、理論上は残り全試合を欠場すれば日本プロ野球初の打率四割の選手が誕生するところだった。開幕から96試合目まで打率四割を維持していたのは、それまでの元ホークス、広瀬叔功の89試合を破る最長記録。最終的に打率は.378まで下がり、四割どころか、前年にバースが記録したばかりの年間最高打率.389にも届かなかった。首位打者とセ・リーグMVPを獲得。打率.378はジャイアンツにおいては球団80年の歴史での年間最高打率。1986年の.363と合わせ、二度の打率.360超えは他に落合博満とイチローしかいない。もちろんプレー以外の、スタンドのファンを巻き込んでのバンザイパフォーマンス等でも大人気を博した。結局在籍7年間で779試合に出場、951安打、171本塁打、558打点、打率.321。
クロマティの次にここに名を書かれるべきは本当は吉村禎章だったろう。「背番号55」を背負い、背番号50の駒田、背番号54の槙原と共に「50番トリオ」として1983年にデビュー。二年後の1985年には初めて規定打席に到達。120試合に出場して16本塁打、56打点で打率はリーグ3位の.328。この年のセ・リーグではバースが王監督の持つ年間最多本塁打記録55本に迫っており、ジャイアンツの投手陣がシーズン終盤のタイガース戦でバーストの勝負を避けて四球で歩かせ続けたため、吉村は最多出塁の記録を取り損なった。
この二年後の1987年には127試合で30本塁打、86打点、打率.322とさらに成績を伸ばしていたが、その翌年、1988年に札幌円山球場でのドラゴンズ戦でレフトの守備位置から中尾孝義の打球を追ってセンターを守る栄村忠広と左中間で衝突。以後の野球人生を狂わせる大事故を負った。奇跡の復活を果たすも、以後は代打中心の現役生活を余儀なくされた。在籍17年間の通算成績は1349試合、964安打、149本塁打535打点、打率.296。
吉村の通算成績はそれでも立派な成績だが、レギュラーだった期間が短かったため、例えば安打数は964本にとどまり、1000本にも満たなかった。安打数でいうと、同じ外野手で13年間在籍。印象的には吉村らより地味だったが清水隆行の方が1402安打で上。清水は入団一年目の1996年から2006年まで11年連続で100試合場の出場を果たし、通算1441試合。1402安打、130本塁打、481打点、打率.291の成績を残している。清水の入団二年目にポジションの違いこそあるが清原が入団し、その後も石井浩郎、ドミンゴ・マルティネス、江藤智、ロベルト・ペタジーニ、タフィ・ローズら次々と大物野手の補強が続いたあの時代に、ドラフト3位入団の選手が活躍したことをとどめておきたい。
そして松井秀喜の登場。FA権を取得してすぐにニューヨーク・ヤンキースへの移籍を果たしたためにジャイアンツ在籍は10年間と意外に短かったが、濃縮した十年間で今もジャイアンツファンの支持は高い。高校からの入団ながら一年目から活躍を期待されていた。一年目の1993年に57試合に出場、11本塁打、27打点、打率.223。秋口にはクリーンアップを打つようになった。それでもファンには物足りない成績でもあった。この年のオフに落合が入団し、二年目の1994年には開幕から三番を打つ。ここから松井の四番定着までの長い道のりが始まる。ジャイアンツでは1998年、2000年、2002年の三度、本塁打王に輝き、この三年には打点王との二冠王に。また、2001年には首位打者を獲得。2002年には獲得した二冠の他に打率でも当時ドラゴンズの福留孝介と激しく争ったが、及ばずに2位に終わった。だが個人的に松井で最も凄いと思ったのは入団二年目から九年間一試合も休まなかったこと。
1250試合連続出場、574試合連続フルイニング出場の記録を継続中のままでの移籍となった。連続試合出場はヤンキース時代を含めて1768試合連続となったが、この1768という数字はカープ~タイガースの金本知憲の連続試合出場記録が1766試合だったことを考えると如何に凄いかがわかる。ジャイアンツ在籍10年間の成績は1268試合、1390安打、332本塁打、889打点、打率.304。
松井移籍後のジャイアンツを引っ張っていくと期待された高橋由伸。今も健在で代打の切り札的活躍でベテランらしい存在感を示しているが、入団時の期待の高さを考えると、物足りない点がなくも無い。
ルーキーイヤーの1998年に126試合に出場して19本塁打、75打点で打率.300。打率は翌1999年には.315を記録。入団から二年連続で打率三割をマーク。だがこの年の終盤にナゴヤドームでフェンスに激突するプレーで故障したのを皮切りに、その後は怪我で泣かされることになる。高橋由はよくやっていると思える成績を残すが、松井の後を引き継ぐには圧倒的なインパクトが無い。10年目の2007年に主に一番を打って自己最多の35本塁打を記録するなどの活躍をした年に規定打席に達したのが最後。32歳のシーズンが規定打席到達最終年とは何とも心細い。昨年までの17年間で1742試合、1716安打、316本塁打、965打点、打率.291。
高橋由は昨年まで通算1716安打。1742試合出場とともに、三年後輩の阿部に抜かれている。高橋由のこそ、久々のジャイアンツ生え抜きの2000本安打到達の期待をしていたが、阿部の方が近いだろう。
余談だが、ジャイアンツでは柴田が1980年に通算2000本安打を達成して以来、ジャイアンツだけで2000本安打を達成する選手が出てきていない。落合、清原、小笠原とジャイアンツで2000本目の安打を打つ選手は出てもジャイアンツで2000本安打を打つ選手が出ていないのだ。いかに長期にわたり、他球団からの補強に依存して自前の選手育成が出来ていなかったかということだろう。生え抜きの200勝投手も1981年に200勝を達成した堀内恒夫を最後に出ていない。
高橋由は入団当初、打撃意外にも評価の高かった守備力でゴールデングラブ賞こそ7回受賞しているが、打撃成績主体で選ばれるベストナインの受賞は2回に過ぎず、打撃主要タイトルの受賞はない。近い将来、高橋由がジャイアンツで現役生活を終えることになれば、盛大な現役引退セレモニーが施されることだろう。だが過去に惜しまれながら引退したスター選手や、盛大に送られた先輩達と比較されたら物足りないと振り返るファンも少なくないだろう。
そろそろ外野手のベストナイン三人を選ばねばならない。
安打数なら高橋由、清水、松井の順。本塁打数なら松井、高橋由、クロマティの順。打点なら高橋由、松井、クロマティ。打率ならクロマティ、松井、吉村。遊撃手で川相を選んだように、松本も捨て難い…。
うーん、ウオーレン・クロマティ、松井秀喜、高橋由伸の三人を選ぶ。
【監督】
ジャイアンツ80年の歴史の中で一人を選ぶなら、V9を達成した川上監督で間違いないが、その川上監督がV10を逃した1974年が本企画の対象初年度。まずは最終年だった川上監督を含め、その後の歴代監督の成績を列記する。
川上哲治(1974年)71勝50敗9分け、勝率.587。
長嶋茂雄(1975年~1980年)387勝338敗55分け、勝率.534。リーグ優勝2回。
藤田元司(1981年~1983年)211勝148敗31分け、勝率.588。リーグ優勝2回、日本一1回。
王貞治(1984年~1988年)347勝264敗39分け、勝率.568。リーグ優勝1回。
藤田元司(1989年~1992年)305勝213敗2分け、勝率.589。リーグ優勝2回、日本一1回。
長嶋茂雄(1993年~2001年)647勝551敗4分け、勝率.540。リーグ優勝3回、日本一2回。
原辰徳(2002年~2003年)157勝118敗5分け、勝率.571。リーグ優勝1回、日本一1回。
堀内恒夫(2004年~205年)133勝144敗7分け、勝率.480。
原辰徳(2006年~)720勝528敗50分け、勝率.577。リーグ優勝6回、日本一2回。CS出場8回。
第二次原政権の長さが際立つ。今季で10年目だ。昨年はクライマックスシリーズで、一昨年は日本シリーズで敗退したとはいえ、リーグ優勝したことに変わりは無く、特に監督交代の必要性が無いというのが一番の理由だろうが、これといった後継者が見当たらないのも主要因の一つかもしれない。既にファンの多くが知っているだろうが、ジャイアンツの監督は生え抜きのエース投手か中心打者だった選手から選ばれるという球団内の不文律が存在すると言われている。1974年以降の歴代監督を見ても、二度にわたり監督を務めている人が三人もいる。条件に当てはまる人が少ないということだろう。原監督は先月57歳の誕生日を迎えた。川上監督は55歳の年度で退任したが、長嶋監督は66歳の年度まで監督を続けた。というか、二度目の監督に復帰したのが58歳になる年度だった。原監督はこれからも長く監督を続けるのだろうか…。
川上監督はこの期間だと自身の監督生活の最終年の一度だけで、この年は2位に終わったが、勝率.587を記録している。後の歴代監督の勝率が良い年と悪い年を合わせたものとはいえ、藤田監督以外この.587を超えられないのだから凄い。
他の監督を比較すると、ジャイアンツの歴代監督の中で唯一チームを優勝に導けなかった堀内監督はまず除外。200勝投手でV9時代のエースだからジャイアンツで監督を務める「条件」を満たしているが、こんな成績なら江川卓に監督をやらせて欲しかった。
王監督は監督としての手腕が評価されたのはホークスに移籍してからだろう。勝率五割を切ったり、Bクラスに落ちたことがない以外、評価しがたい。戦力に恵まれていながら五年間で優勝が一度だけというのは物足りなかった。
二度の球団のピンチを救った藤田監督にはファンとしても感謝の気持ちを忘れてはならないが、長嶋、原両監督に比べると在任期間が短い。結局、結果を残したから期間が長く、優勝回数の多い原辰徳をベストナインの監督に選ぶ。
それでは一通り選び終わったところで、敗戦処理。が選ぶマイセレクトベストナインでオーダーを組んでみる。
(右)高橋由伸
(遊)川相昌弘
(二)篠塚利夫
(一)王貞治
(中)松井秀喜
(三)原辰徳
(左)クロマティ
(捕)阿部慎之助
(投)斎藤雅樹
かつて「四番打者ばかりかき集めた」と揶揄された時期があったが、まさにそんなオーダー。対象期間の成績に限定するのが本企画の趣旨だから、王が四番なのは如何なものかという見方もあるだろうが、大目に見て欲しい。川相は選んだ以上は二番に入れないと意味が無いし、一発屋が並ぶ中に安打製造機の篠塚を三番に入れたい。王に三番ならまだしも五番以下の打順を打たせる訳に行かない。察して欲しい。
最後に一軍登録と同じ28人を選ぶ。
【投手】
斎藤雅樹、堀内恒夫、新浦寿夫、江川卓、西本聖、鹿取義隆、角三男、桑田真澄、マーク・クルーン、山口鉄也、上原浩治、
【捕手】
阿部慎之助、山倉和博、村田真一
【内野手】
王貞治、篠塚利夫、原辰徳、川相昌弘、中畑清、仁志敏久、小笠原道大、二岡智宏
【外野手】
松井秀喜、高橋由伸、ウオーレン・クロマティ、松本匡史、吉村禎章、清水隆行
鈴木尚広を28人の中に入れたかったが、削れる選手がいない…。
次回は10月2日に、東北楽天ゴールデンイーグルス編を予定。これでいよいよ十二球団プラス1が出そろう。
【参考文献】
・『THE OFFICIAL BASEBALL ENCYCROPEDIA 第4版』社団法人日本野球機構
・『2015ベースボールレコード・ブック』ベースボール・マガジン社
・『プロ野球人名事典2003』森岡浩編著、日外アソシエーツ
・CD版『野球の記録で話したい Baseball Stats Lounge』
広尾晃
・『日本プロ野球監督列伝1936-2014』ベースボール・マガジン社
・『決定版 ジャイアンツ大百科』双葉社
・『ジャイアンツ80年史』第1弾~第4弾 ベースボール・マガジン社
・『プロ野球大大大事典』玉木正之著、東都書房
・『G OF THE YEAR 2015』読売巨人軍
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