「最後の○○」は中嶋聡だけではなく…
ファイターズの中嶋聡選手兼任コーチが今季限りで現役を引退したことで、阪急ブレーブスに所属していた現役選手がついにいなくなったことは野球ファンの間では有名だ。2009年を限りに同じ阪急ブレーブス出身の高木晃次が現役を引退した時点で中嶋が阪急ブレーブスでプレーした経験を持つ最後の選手になったため、「最後の勇者」とファンから呼ばれていた。中嶋は阪急ブレーブスがオリックスに身売りする前々年、つまり阪急ブレーブスとしての最終年の前年に当たる1987年(昭和62年)に阪急ブレーブスに入団した。
今季は大物選手の現役引退が相次いだ。中嶋の「最後の勇者」のように「最後の○○」がいろいろといたのだった。
(写真:山田久志から斎藤佑樹まで。幾多の名投手、大投手、話題の唐須と組んできた最長実働年数捕手にて今季限りで現役を引退する「最後の勇者」中嶋聡。2011年には話題のルーキー、斎藤佑樹とバッテリーを組む。 2011年4月撮影)
こういうものを調べるには、現役古参選手の入団年と、球界の出来事を並べるとわかりやすい。
年度 入団選手 球界の出来事
1984年(昭和59年) 山本昌
1987年(昭和62年) 中嶋聡 後楽園球場最終年
1988年(昭和63年) 阪急・南海身売り、大阪球場最終年、昭和最後の年
1989年(平成元年) 谷繁元信
1990年(平成2年) オリックス・ブレーブス、西宮球場最終年
1991年(平成3年) 川崎球場最終年
1992年(平成4年) イチロー、斎藤隆、三浦大輔 横浜大洋最終年、平和台球場最終年
1993年(平成5年)
1994年(平成6年) 福浦和也、岡島秀樹、松井稼頭央
1995年(平成7年) 西口文也、多村仁志、相川亮二、サブロー
1996年(平成8年) 鶴岡一成、荒木雅博 ナゴヤ球場、藤井寺球場最終年
今季で引退した山本昌もいろいろな「最後の○○」になる。
例えば、1984年(昭和59年)にドラゴンズに入団した山本昌は、1987年(昭和62年)の開幕戦に登板している。いわゆる敗戦処理的な登板だったが、場所が後楽園球場。この年限りで閉場し、翌年から舞台は東京ドームに移るのたが、現役選手で後楽園球場が存在した1987年(昭和62年)に既に入団していたのは山本昌と、中嶋聡だけ。この年にルーキーだった中嶋は公式戦に2試合だけ出場。選手名鑑によると初出場は同年10月18日の本拠地西宮球場。実はこの日は後楽園球場で最後の公式戦が行われた日。当時後楽園球場を本拠地にしていたのはジャイアンツとファイターズ。阪急ブレーブス所属の中嶋にも後楽園でプレーする機会はあったのだが、実際には後楽園球場での公式戦には出場していない。因みにもう一試合は翌日の同じ西宮球場だった。山本昌の現役引退で、後楽園球場でプレーした現役選手がいなくなった。山本昌は「最後の後楽園戦士」なのである。
現役選手で古い順に並べると、最古参が1984年(昭和59年)入団の山本昌で、次が1987年(昭和62年)入団の中嶋。三番目が1989年(平成元年)入団の谷繁元信。ということは、山本昌と中嶋の現役引退で昭和時代にプレーした選手も現役ではいなくなることになる。山本昌と中嶋は「最後の昭和戦士」でもあるのだ。
因みに「最後の勇者」中嶋は最後の阪急ブレーブス戦士であるだけでなく、最後のオリックス・ブレーブス戦士でもある。阪急から球団を買収したオリックスは当時「『ブレーブス』の名は引き続き残す」と言っていたが、球団のイメージを変えたかったのか、二年間だけオリックス・ブレーブスと名乗り、1991年(平成3年)からオリックス・ブルーウェーブに改称した。本拠地も同じ兵庫県のグリーンスタジアム神戸に移転した。中嶋は「最後のブレーブス戦士」であり、「最後の西宮球場戦士」でもあるのだ。
後楽園球場でプレーした最後の現役選手である山本昌は入団した当時のドラゴンズの本拠地であったナゴヤ球場(1996年=平成8年まで使用)の最後の戦士でもあるかと思ったが、1992年(平成4年)入団の三浦大輔が来季も現役を続行する予定なので、最後ではない。手持ちの資料では三浦は少なくとも1996年にナゴヤ球場で先発している。また、ベイスターズから戦力外通告を受けてしまったが、岡島秀樹はプロ入り初登板が1995年10月6日のナゴヤ球場。ドラゴンズにはナゴヤ球場最終年の1996年に入団した荒木雅博がいて、特に現役引退という話はないので来季も現役を続けるだろうが、荒木の公式戦初出場は二年目の1997年(平成9年)。荒木はナゴヤ球場で出場経験が無い。(筆者注.ナゴヤ球場は現在に至るまでドラゴンズの二軍の本拠地として使用されているが、二軍公式戦の出場は含めない。また、移転後に定期的に行われる公式戦=例.ファイターズの北海道移転以降の東京ドーム主催公式戦、も本エントリーでは含めない。)
なお、1996年までにセ・リーグに入団した現役選手で今季限りでの現役引退や今のところ戦力外通告を受けていない選手は相川亮二と鶴岡一成がいるが、ともに公式戦初出場が1997年以降なのでナゴヤ球場でのプレー歴がない。
因みにその三浦のルーキーイヤー1992年はベイスターズが横浜大洋ホエールズと名乗っていた最後の年。つまり谷繁と斎藤隆の引退で三浦は「最後のホエールズ戦士」、「最後のくじら」になる。
話があっちこっちに飛ぶが、この1992年にはパ・リーグではマリーンズが本拠地を川崎から千葉に移した年で、前年の1991年まではロッテオリオンズだった。
川崎球場を本拠地にしていたロッテの選手は2010年限りで現役を引退した1988年入団の堀幸一が最後だったが、川崎球場でロッテと対戦した選手としては中嶋が最後。中嶋は「最後の川崎劇場戦士」でもあるのだ。
中嶋は入団一年目の1987年には本拠地の西宮球場での2試合の出場にとどまったが、翌1988年(昭和63年)には74試合出場と頭角を現す。この年を最後にダイエーに身売りをして福岡に移転するホークスの本拠地、大阪球場での出場経験を調べたら、この年のホークス対ブレーブス第1回戦、大阪球場で行われた4月19日の試合に「八番・捕手」でスタメン出場。「最後の南海戦士」は南海ホークス身売り前最終年の1988年に入団して2010年まで現役を続けた大道典良だが、「最後の大阪球場戦士」は中嶋ということになる。
こうなると次なる本拠地球場移転に当たる、福岡ダイエーホークスの平和台球場から福岡ドームへの移転が気になる。ホークスが平和台球場を本拠地にしていたのは福岡ドームが開業する1993年(平成5年)の前年、1992年まで。中嶋はホークスが平和台球場に移転した1989年4月18日に平和台球場でスタメン出場している。中嶋は「最後の平和台球場戦士」にも当たる。
と、思ったら現役選手でもう一人、平和台球場でプレー経験のある選手がいた。
ホークスが平和台球場を本拠地にしていた最後の年、1992年に入団したイチローが、シーズン終盤の9月9日に「九番・レフト」でスタメン出場している。イチローが「最後の平和台球場戦士」になるのだ。
1992年にオリックス・ブルーウェーブに入団したイチローは、ナゴヤ球場と同じ1996年に役目を終えた旧近鉄バファローズの本拠地、藤井寺球場でのプレー経験がある。近鉄バファローズに所属して、藤井寺球場を本拠地にしていた時代の選手は、昨年までベイスターズでプレーしていた中村紀洋が最後。
中村を「現役選手」と扱うメディアもあるが、NPBやメジャーリーグはもちろん、独立リーグにも所属していない無所属の選手を当エントリーでは現役選手と見なさない。ただ「最後の藤井寺球場戦士」となると、イチローの他、松井稼頭央ら1996年以前にパ・リーグに入団した現役選手が複数いるので、まだ「最後の…」とはならないが、今後が注目される。
こうしてみると、山本昌と中嶋がいかに長期間プレーしていたかがわかる。また、1990年代のパ・リーグが波瀾万丈だったこともわかる。そして、イチローが現役選手で二番目に古い古参になったというのも、年齢を考えれば理解出来るが、何とも時代の早さを感じさせる。
三浦大輔にも一年でも長くプレーを続けて欲しい!
P.S.
こういう調査には漏れがつきものだ。「いや、この選手が『最後の○○』だ!」というのがいたら、コメントで指摘していただければ幸いである。
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